道元禅師 普勘座禅儀



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[8] 普勘座禅儀 7

投稿者: 投稿日:2017年 8月14日(月)17時11分28秒 dhcp249-119.tamatele.ne.jp  通報   返信・引用

―「仮字(けじ)正法眼蔵」を読んで

 (十六)「我らはもとより無上の菩提の欠けたるにあらず。とこしなえに受用すといえども、承当することを得ざるが故に、みだりに知見を起すことをならいとし、これを物と思うによりて、大道をいたずらに嗟過す」

「無上の菩提」とは「この上もない悟り」という意味です。
白隠禅師は「衆生本来佛なり」と言うておられますが、私たち人間は誰でも生まれたときから、この悟りを自分自身の上に何一つとして欠けることなく持ち合わせています。
そうしてこの悟りを「とこしなえに」、今もこれからも常にこの身に受けて働かせながら生活してゆくのです。
 けれども私たちは「みだりに知見を起す」で、ありもしないことを自分勝手に頭の中で造り上げ、「これを物と思うによりて…」とありますように、本物だと思い込んでどこまでも追い続けようとする気配があります。

 そして、頭の中に描いた架空の物であるから手に入るわけがないのに、いつまでもそれに執着しているのです。

だから、折角「無上の菩提」(最上の悟り)をこの身の上に受け、日常生活の足元でピチピチと働かせていながら「大道いたずらに嗟過す」で、せっかくのひろびろとした大道とすれ違うことになるようです。

では最上の悟りという「無上の菩提」というものは、どんなものだというのでしょうか。

ここの処を臨済禅師は「切ったら血の出るお前さんの肉体に、釈尊や達磨と寸分違わない真実の人が居るぞ!この人は朝から晩まで見たり聞いたり、嗅いだり食べたり物を握ったり歩き回ったりして、活き活きと働いているぞ!」と、ヒントを与えています。

このように、最上の悟りとしての働きが常に自分の上にあるのに、むやみに頭の中でものを考え、自分勝手に振る舞うくせが付いている私たちには、体験として受け取ることができないのです。

 ここの処はどうしても「我」という思いの起きる前の自分、言い換えれば「本来無我なる自己」を体験として自覚するほかはないでしょう。

この「本来無我なる自己」が分かれば、いつでもどこでも、何をしているときも佛道のどまん中に生かされていることに気が付く筈です。

ところが私たちは、自分を離れて向こうばかりに求めるものですから「無我なる自己」に気が付かないようです。そこで道元禅師は次のように教示されるのです。


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