道元禅師 普勘座禅儀



カテゴリ:[ 健康/医療/介護 ]


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[12] 化字(けじ)正法源蔵

投稿者: 投稿日:2018年 8月 6日(月)09時45分23秒 dhcp247-197.tamatele.ne.jp  通報   返信・引用


 天童山の如浄禅師の道場で、禅の修行を成し遂げられた道元禅師は「自分が得たこの法(真理)を、何とかして日本のすべての人に会得させてやりたい」という強い念願に、居ても立ってもおられなかったようで、その心中を次のように独白しておられます。
 (二)「大宋紹定の始め、本郷に帰りしすなわち、弘法衆生を思いとせり。なお重担を肩におけるがごとし。」
 宋の国の紹定の始め(1227年)の冬、如浄から付与された伝法の袈裟を持って、中国から肥後の河尻に帰ってこられた師は、それから「弘法救生」(法を弘め衆生を救わねばならぬ)という責任があたかも重い荷物を肩に担っているように、寝ても覚めても師の心にのしかかっていたようです。ところで、山に登るということは、人里に下りてくるためのものです。師は世の無常を感じて、十三の時仏門に身を投じられてからというものは、禅の頂上を目指して血のにじむような修行をなさったのです。そして縁あって中国に渡り、如浄禅師に参ずること三年にして、遂に釈尊正伝の佛教の真髄を見い出されたのでした。
 私のような凡人なら「自分の疑問は解決できたのだから、もうこれでよし。呑気に生きて行けばよいのだ…」という心境になるものですが、道元禅師のみならず歴代の祖師方は「自分が得た安楽の法は自分のものにすべきではなく、すべての人に伝えなければならぬ」という、やむにやまれぬ「弘法衆生」の思いがあったようです。師も同じ思いで日本に帰られた…。つまり禅の頂上から私たちの住む凡人の里に下りてこられたのです。そしてあらためてあたりを見廻された師は、私のように迷苦に喘いでいる凡人がうようよしている様子を目の当たりされるのです。そこで師は「一刻も早く、自分が体得した釈尊の正しい法を多くの人に弘め、人々の迷いを覚してやらねばならぬ」という焦燥感が「なお重担を肩に置けるがごとし」と言わしめたのではないでしょうか。こうした心の重圧に耐えながら、その時節が来るのを待っておられたのです。しかしこうしている今も、正しい禅の指導者を求めて全国行脚を続けている修行者の上に思いをかけられる道元禅師は、次のことを心配されるのです。
 (三)「なにによりてか般若の正種を長じ、得道の時を得ん」
 「般若」とは、誰でも持ち合わせている釈尊と同じ心(命)のことで、その種子を宿していることを「正種」といったのです。私たちが坐禅修行に精を出しているのも、この種子を何とかして育て上げて、あわよくばそれを結実させ、万分の一でも佛祖方のお手伝いをさせて頂きたいという、切なる念願にほかなりません。私たちは幸いに「只管打坐」という修行指針を、師の書き残されたものから知っているから、迷うことなく「只管打坐」に自分を投げ込めばよいのですが、当時の修行者にはそれがなかったのですから、全国を行脚して正しい指導者を探し求めなくてはならなかったのです。そうした修行者を憐れに思われた師は、如浄禅師に仕込まれた釈尊正伝の「只管打坐」という教義を「善勧坐禅儀」に示され、また「正法眼蔵」95巻も、その頃から書き進められていたのでしょう。ここにおいて、日本では初めての本格的な禅道場が建てられ、当時の人はもちろんのこと、今日の私たち修行者に「般若の正種を長じ、得道の時を得」る、ハッキリとした指針を示してくださったのです。では「釈尊正伝の佛法」とはどういうものというのでしょうか。次号からはその中身についてお示しになるのです。

 ― 只だ坐り 只だ立ち 只だ行くひねもすが
         そのままほとけの道と知りたり ―




[10] 普勘座禅儀 7

投稿者: 投稿日:2017年 8月15日(火)10時40分37秒 dhcp249-119.tamatele.ne.jp  通報   返信・引用

『いわんや彼の祇園の生地たる単座6年の縦跡を見っべし。少林の心印を伝うる面壁9歳の声名尚聞こゆ。古聖既に然り、今人何ぞ弁ぜざる』

釈尊は6年間も難行苦行されているが、釈尊ほど「生地」として生まれて来られた人は他に類を見ない・・・・この釈尊でさえも人間の考えというものにはお困りになったので6年間も修行されて、ついに暁の明星を一見されたことにより成道されたのです。

この道はいい加減な修行で得られるような易しい道ではなく、即今只今の真実の道しか無いのです。

 また達磨大師がインドから中国に渡られ座禅すること9年間といいますが、その間座る時は座る・・・起つときは起つだけの事・・・・

道に徹底すると全く手放しの自分となり「出身の活路」があるのです。
このように釈尊にしても達磨大師にしても、そういうことが歴史上に残っているから『声名なお聞こゆ』と言われるのです。




[9] 普勘座禅儀 その8

投稿者: 投稿日:2017年 8月15日(火)06時49分55秒 dhcp249-119.tamatele.ne.jp  通報   返信・引用

(十七)「この知見によりて空華まちまちなり」

 「佛法は無我」である!この無我なる法を自分勝手な「知見」(考え方)をもって扱おうとするから手に入らないのだ。
 問題は向こうにあるのではなく、今そうして何気なくやっている一挙手一投足のお前さんの足元にあるのだ!、それにもかかわらず、いたずらに市販の仏教解説書を買い漁り、まちまちに説いている文字を拾うのだから「空華まちまちなり」で、眼を患った人が見る火花のように、真の佛法であるところの「無我なる自己」のあり場が分からないのである。

もし真剣に佛道を修行するならば、自分の外に向かって求めてはならない!文字言句から得た知識はすべて夢幻空華と知るべし!と、くり返し教示されているのです。

(十八)「佛家には、教の殊劣を対論することなく、法の浅深を択ばず。ただし修行の真偽をしるべし」

 多くの宗教の中には宗派が異なると、とかく自分が所属する宗派が正宗であるとして、他の宗派を排斥する議論を聞くことがあります。

 道元禅師もまた、自分が伝える「只管打座」こそ「正伝の佛法」であると主張されているように思います。
 日本には昔から法華宗、真言宗あるいは華厳宗というような立派な教えが伝わっています。にもかかわらず、なぜ道元禅師は自分が伝えている「只管打座」だけが「正伝の佛法」であると主張されているのでしょうか。

 こうした多くの疑問に答えられたのが、この段の言葉であるといえましょう。
 すなわち「わが佛教家には多くの宗派があるが、その教えの優劣を論じて、どちらの法が深くて、どちらが浅いなどと問題にすることはない。ただ問題としなくてはならないのは、その人の修行が本物か偽物かということだけである」と言われていますが、修行者にとっては肝に銘ずべきお言葉であります。

 そう言われてみれば道元禅師は、自分が伝える「只管打座」が「正伝の佛法」であるとは言うておられますが、「禅宗」というような宗派を立てることばを使っておられません。禅堂では今も、在家の修行者の皆さんが坐禅をしておられますが、決して同じ宗教を持つ人の集まりということではなく、様々の宗教信者がただただ「純一無雑」に坐禅する…。そこに宗教宗派を越えた「道元宗」があると信じるのです。
 ― 去年今年 尻に敷きたる 坐禅かな ―



[8] 普勘座禅儀 7

投稿者: 投稿日:2017年 8月14日(月)17時11分28秒 dhcp249-119.tamatele.ne.jp  通報   返信・引用

―「仮字(けじ)正法眼蔵」を読んで

 (十六)「我らはもとより無上の菩提の欠けたるにあらず。とこしなえに受用すといえども、承当することを得ざるが故に、みだりに知見を起すことをならいとし、これを物と思うによりて、大道をいたずらに嗟過す」

「無上の菩提」とは「この上もない悟り」という意味です。
白隠禅師は「衆生本来佛なり」と言うておられますが、私たち人間は誰でも生まれたときから、この悟りを自分自身の上に何一つとして欠けることなく持ち合わせています。
そうしてこの悟りを「とこしなえに」、今もこれからも常にこの身に受けて働かせながら生活してゆくのです。
 けれども私たちは「みだりに知見を起す」で、ありもしないことを自分勝手に頭の中で造り上げ、「これを物と思うによりて…」とありますように、本物だと思い込んでどこまでも追い続けようとする気配があります。

 そして、頭の中に描いた架空の物であるから手に入るわけがないのに、いつまでもそれに執着しているのです。

だから、折角「無上の菩提」(最上の悟り)をこの身の上に受け、日常生活の足元でピチピチと働かせていながら「大道いたずらに嗟過す」で、せっかくのひろびろとした大道とすれ違うことになるようです。

では最上の悟りという「無上の菩提」というものは、どんなものだというのでしょうか。

ここの処を臨済禅師は「切ったら血の出るお前さんの肉体に、釈尊や達磨と寸分違わない真実の人が居るぞ!この人は朝から晩まで見たり聞いたり、嗅いだり食べたり物を握ったり歩き回ったりして、活き活きと働いているぞ!」と、ヒントを与えています。

このように、最上の悟りとしての働きが常に自分の上にあるのに、むやみに頭の中でものを考え、自分勝手に振る舞うくせが付いている私たちには、体験として受け取ることができないのです。

 ここの処はどうしても「我」という思いの起きる前の自分、言い換えれば「本来無我なる自己」を体験として自覚するほかはないでしょう。

この「本来無我なる自己」が分かれば、いつでもどこでも、何をしているときも佛道のどまん中に生かされていることに気が付く筈です。

ところが私たちは、自分を離れて向こうばかりに求めるものですから「無我なる自己」に気が付かないようです。そこで道元禅師は次のように教示されるのです。



[7] 普勘座禅儀 6

投稿者: 投稿日:2017年 8月14日(月)14時40分23秒 dhcp249-119.tamatele.ne.jp  通報   返信・引用

[入頭の辺量に趙遥すと雖も、幾ど出身の活路をキケツす」

「入頭の辺量」とは例えば界仙禅師が大悟された因縁は、禅師が川を渡っておられた時、自分の影が水面に映っているのを見て忽然と大悟されて、「我・今・独り・自ずから行く、所々影に逢うことを得たり」と言われたいるが、これも「衝天の志気」の範囲で、気が付いただけの事だからまだまだだと言われるのです。

何故そう言われるのかと言いますと「我今所々影に逢う」ということに気が付いただけのことでまだ門の中に入って居ないからです。
このように道元禅師は徹底自己を忘じたあとも、もう一回自己を忘じることを要求されるのです。

そういえば、禅師が大悟されたとき、如浄禅師のところに行って「身心脱落しました」と”衝天の志気」をもって言われたとき、如浄禅師から「そうじゃない!初めから脱落して居たんだよ」と言われてはじめて「入頭の辺量の逍遥」から解脱し「出身の活路をキケツ」されていました。

  続



[6] 普勘座禅儀 5

投稿者: 投稿日:2017年 8月14日(月)11時20分0秒 dhcp249-119.tamatele.ne.jp  通報   返信・引用

「然れどもゴウリも差あれば、天地はるかに隔たり、違順僅かに起これば紛然と心を失す」

そうは言うもののどうしてもその事実が信じられない物がある・・・
そこに問題がある!その問題とは何か?・・・・

私たち人間というものは不思議なもので、道理を聞いて絶対間違いがないと信じ、その通りを実践しても、どこかに収まりがつかないものがあるものです。

なぜそういう思いがするかといえば、自分の考え方がそうさせる範囲だからです。

だからどんなに立派な考え方をしても、それは自分の考えの中ですからどうしても道との隔だたりができます。
どうしようもない端的です。

随って「ごうりの差」・・・自分の考えがフット起きると違順が起きます。

そうして次から次へと考えが起きて天然の自性身の心を失われるのです。

こうしたこともあるから「違順」が起きる様子を次に述べながら参禅上の糧になればと示されるのです。

『たとい会に誇り 悟に豊かにしてべっちの智通を得 心を明らめて衝天の志気を挙し 入頭の辺量に逍遥すと雖も幾ど出身の活路をキケツす』

「会に誇り」とは、理解は充分出来たのでこれで良しとした思い込みのことです。「悟に豊かにして」とは大悟十八・小悟で何処でも此処でも悟ったというが、実はこれまでも有ったことに気が付いた位の境界を言うたのでしょう。

私も反省している処ですが、いくらかの公案は透過したけれどもそれは、分かったような気がした程度のもので、私の考えの範囲だけのもの・・・・

「べっちの智通を獲」とは、チラ!と自分を忘れ、忘我に陥ったような気がした・・・位のことで物にならないというのです。

「道を得・心を明らめて衝天の志気を挙し」とは、ここでは、道というものは何時でも手に入り、煩わしい手続きが要らないものであるという自覚を持つとともに何も持ち物がない真実の心の様子に気が付いたということです。

だから大分自信が付いたから「衝天の志気」があるというのです。

 続



[5] 普勘座禅儀 4

投稿者: 投稿日:2017年 8月13日(日)18時18分19秒 dhcp249-119.tamatele.ne.jp  通報   返信・引用

「況や全体廻るかに塵埃を出ず。だれか払拭の手段を信ぜん。おおよそ当初を離れず豈に修行の脚頭を用いる者ならんや」

個の者自体が本当に解脱して、佛法のブの字もない境界ですから「全体はるかに塵埃を出ず」の様子です。一切の塵埃と言われる邪魔者がないから「だれか払拭手段を信ぜん」とありますように、どうしようという手段の仕様もないほど完成された代物だというのです。

しかも個の者は「おおよそ当処を離れず、豈に修行の脚頭を用いる者ならんや」とまで言われるのです。

例えば今私が手を鳴らすと個の者はパチ!と一如になっています。この様子を「当処を離れず」とというのです。」だから心の計らいは要らぬ・・・といわれるのです。

禅師が示されている”心の構え”のなかを見ますと「是非を管する勿れ」という言葉が出てきますが、

心の計らいを止めてしまうと必ず真実に徹することになる・・・・これが「只管打座」であるというのです。

ここまで述べて来られた禅師は、自分経験を振り返られて、そうは言うても当時の自分がそうであった様に、誰でも自分では手に負えない様子が窺える・・・・

そこで次に細々と座禅する上の注意されるのです。

  続



[4] 普勘座禅儀 3

投稿者: 投稿日:2017年 8月13日(日)15時11分3秒 dhcp249-119.tamatele.ne.jp  通報   返信・引用

「宗乗自在何ぞく巧夫を費さん」・・・

「宗」とは”真実義”です。釈尊が言われているように「自分の真相に徹してみる」ということで、
真実義と名付ける個の者の上に一切のものが現れている・・・・このことを「宗乗」というているのです。

個の者の上に一切の現象が「乗」せられているから「自在」なのです。
だからどこでどうして居ようが個の者が”宗乗”の様子ですから殊更によそを尋ねて道を求める必要はないのです。

だから「何ぞ功夫を費さんで、これからどうしよう・・こうしよう・・という計らいは却って道を妨げることになるのです。

では何もしなければ良いのかということになりますが、そういうことではなく、そういう漁る心の
計らいを自分で拭い去れば良い訳です。

道元禅師は日本に初めて「只管打座」を伝えられたのですが,「只管」とは「直下承当の道」ですから、いつも個の者の上にある道なのです。

そうして「只管」は”ひたすら”とか”ただ”という観念的な構えではなく、最初から一切を超越して道であります。

だから個の者には「因果報応」と言われるような迷いの種になるものは欠片もありません。

ここまで道の理を述べてこられた道元禅師は、ご自分が経験された実感から次のように述べておられます。  続きます



[3] 普勘座禅儀  2

投稿者: 投稿日:2017年 8月13日(日)11時17分29秒 210.255.249.119  通報   返信・引用

「道本円通」とは、はじめから道に通じているということだはなく、「道」そのものによって個の者は出来上がっているというのです。

だから信心銘に言うているように「至道無難」なのです・・・ということは、個の者は始めから道その者であるから、どうしなくても道を外れることはないのです。

今のこの場の様子でもそうです、はじめから「道本円通」ですから個の者の様子を調べても自分の持ち物は何もない・・・・無?一物なのです。

だからこそ縁に応じてどのようにでも活動しながら、一所に留まることができないようにできている・・・・それが自分という今の様子です。

古人が「道は無心を尊び名利を絶す」と言っているように、道は初めから無為無心・・・どうこうするというはからいをする必要もなく今も個の様に此処に満ち満ちているのです。

この事実はさっきも述べたように「無一物」の個の者自体がぶち当たってみれば自ずから判る道なのです。

要するに自分本意の今までの考えから離れてみると、「道本円通」という事実がハッキリするということです。

つまり私たちの生活の一つ一つが大道であって、大道以外のものはない!…と決定的な言葉を使われるのです。

ところがいくら言われても、長い間の生活習慣で染みついた我執が邪魔をして、
道元禅師の「常住坐臥直下の大道」の真意がハッキリしないのです。

このように道というものは無為に出来上がっているのですから、「争(いかでか)で修証を仮らん」なのです。

「修証」とは修行によって得られる道のことですが、道そのものは修行しようがすまいが、はじめからここにある道ですから無関係だというのです。

こうした境界を実際我がものとしたらどうなるか・・・・



[2] 普勘座禅儀

投稿者: 投稿日:2017年 8月13日(日)09時56分45秒 210.255.249.119  通報   返信・引用

これから道元禅師が推奨される座禅儀を拝読しようと思います。

「普勘座禅儀」とは”普く皆に勧めようとする座禅・・・つまり、どうしても座禅をしなくては安心の道が得られない理由を「普勘座禅儀」としてはじめて示されたのです。

仏道がはじめてこの世に紹介されたのは今から2500年以前、釈尊が菩提樹の下で明けの星を一見されたとき、自己を忘じられ成道されたその真相の上から、すべての物の上に眼を転じられた時、すべての人たちが自分と同じように迷っているけれども自己の真相を究明さえすれば、今 自分が解脱したのと同じ境界の中に生きている・・・・と気付かれ、これが世に紹介され伝統として道元禅師までに至っているのです。

道元禅師自身も「天然の自性身」と言われてきた自信の 個の者に疑問を抱いて居られ、”元来そういうものである”とのみ教えられていたが、その真相はハッキリしなかったのです。

ところが、師匠の如浄禅師の道場で座禅しているとき、隣に座っていた坊さんがコクリ・・コクリと居眠りを始めました。

これを見られた如浄禅師は警策をピシリ!ピシり!と打ち下ろし「座禅は身心脱落であるぞ!只管に眠るとは何の真似じゃ!」と注意された。

それと同時に道元禅師は”天然の自性身”を悟られたのです。

そうして座禅されるとき祖師が言われているように、大道という事実が常に自分の上にもあるという事実を確かなものとして自分のものとされたのです。

そうして誰でも座禅すれば必ず迷いの世界から脱出することができるということを体験として証明され、これを多くの人にお勧めになられるのです。

信心銘の中に「円かなるこ大虚に同じ、欠くることなく、余ることなし」とあるように、私たちの日常生活そのものが大道であり、誰一人として欠けることもなければ、余ることもなく、個の者の上にあるのです。

そこで、道元禅師は我々の真相を以下のように言われるのです。

「原ぬる(たずねる)に夫れ道本円通、争か(いかでか)修
証を仮らん,宗乗自在、何ぞ功夫を費さん」・・・と。


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