日蓮大聖人の仏法 掲示板

日蓮大聖人を末法の御本仏と信じ、日蓮正宗大石寺の本門戒壇の大御本尊を信仰の対象としている方に向け、日蓮大聖人の御心に叶い、時に叶った正しい信心とは如何にあるべきかを考えていきます。



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[199] 主観と客観

投稿者: 妙介 投稿日:2019年 8月31日(土)14時04分39秒   通報   返信・引用

人は自分自身について原理的に主観視点(一人称視点)しか持ち得ません。
また自分以外の他者については客観視点しか持ち得ません。

このことを踏まえた上で、智慧や想像力を働かせて、他人から見たら自分はどう見えるのだろう等と考えるのが「客観的」に考えるということです。

話が拡散し過ぎると結論までたどり着かないので、話を元に戻しましょう。

引用1>
人が物事を認識するさい、客観認識と主観とに別けられます。(9ページ)

最初に書いたように、人は自分自身について原理的に主観視点(一人称視点)しか持ち得ません。
「客観的」に考える事は出来ても、本来の意味での客観視は原理上出来ません。

法介さんの文章によせて書くとするなら

人が物事を認識するさい、主観とその主観の内なる客観認識とが渾然一体となり別けられません。

以下、法介さんの文章を元に説明します。

>あなたが食べたリンゴの「美味しい」と、私が食べたリンゴの「美味しい」 とでは同じリンゴの「美味しい」であっても個々人の感性の違い(五陰の違い) が生じますので全く同じ「美味しい」ではありません。個々人が感じ取る主観 は定義ずけられた言葉に転じた時点で既に客観に変わっています。
このように我々人間が生活の中で用いる言葉も含めて文学や数学、医学や科 学や哲学といったものは全て客観をベースに発展されてきたものです。
仏法はそのような客観による認識から離れて主観で物事を捉える修行を行 います。どうして客観から離れるのかというと、客観認識の中にこそ人々を苦 しめる苦の原因が潜んでいるからです。そこのところはまた別の機会に詳しく お話するとしまして、要は人の人生は客観ではなく主観そのものであるという 点でお話を続けさせて頂きます。(引用終わり)

私が食べたリンゴの「美味しい」という体験は「美味しい」という言葉で定義づけられて私の記憶に収納されても、「客観」には変わらず、言葉と体験とが渾然一体となって私の主観的な体験として記憶されています。
その事を自分以外の他者に伝える時に初めて「客観」に置き換わるのです。

さらに言うなら、客観は苦の原因ではなく離れる必要もありません。
客観自体には何も悪いところはないのです。
客観自体には何も悪いところはない、ということの理解が法介さんに欠けているのだと思います。
石田次男さんや福島源次郎さんが言っていたのは、妙法を科学の法則のような客観存在法として説明するのは間違っているという事であって、

法介さんの「仏法はそのような客観による認識から離れて主観で物事を捉える修行を行 います。どうして客観から離れるのかというと、客観認識の中にこそ人々を苦 しめる苦の原因が潜んでいるからです。」などは、とんでもない間違い解釈なのです。








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