日蓮大聖人の仏法 掲示板

日蓮大聖人を末法の御本仏と信じ、日蓮正宗大石寺の本門戒壇の大御本尊を信仰の対象としている方に向け、日蓮大聖人の御心に叶い、時に叶った正しい信心とは如何にあるべきかを考えていきます。



カテゴリ:[ なんでもフリートーク ] キーワード: 法華講 創価学会 外道義


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[190] Re: 妙介さんへ

投稿者: 妙介(管理人) 投稿日:2019年 8月26日(月)21時44分53秒   通報   返信・引用 > No.189[元記事へ]

法介さん、こんばんは、

>法華経講義-迹門の章-完成.pdf

アクセスできなかったので、内容は読んでいませんが、
私の考えを述べます。

御書の中で「析(折)空」「体空」という言葉が出てくるのは、
「曾谷入道殿御返事」で、建治三年 五十六歳の御作です。

当該部分は、
「般若経の題目を聞いては体空・但中・不但中の法門をさとり華厳経の題目を聞く人は但中・不但中のさとりあり、大日経・方等・般若経の題目を聞く人は或は折空・或は体空・或は但空或は不但空・或は但中・不但中の理をばさとれどもいまだ十界互具・百界千如・三千世間の妙覚の功徳をばきかず、その詮を説かざれば法華経より外は理即の凡夫なり、」

析空の一般的な意味は、様々な法を分析→総合、という道筋で空だと悟る事。
大聖人様は、般若経の悟りを例に挙げておられますが、私はミリンダ王の問などがたとえとしては分かり易いと思います。
体空はさらに言葉で説明するのは難しい・・・。(結論部分で述べます)

いずれにせよ大聖人様はこの御書の中で、様々な空があるがいずれも部分観であると喝破され、結論として、

「所詮妙法蓮華経の五字をば当時の人人は名と計りと思へり、さにては候はず体なり体とは心にて候、章安云く「蓋し序王は経の玄意を叙し玄意は文の心を述す」と云云、此の釈の心は妙法蓮華経と申すは文にあらず義にあらず一経の心なりと釈せられて候、されば題目をはなれて法華経の心を尋ぬる者は猨をはなれて肝をたづねし・はかなき亀なり、山林をすてて菓を大海の辺にもとめし猨猴なり」、はかなしはかなし。」

と、ご教示されておられます。

これを、私なりの言葉で語るとしたら、御本尊様の前に座って心から有難いとお題目を唱える事が出来る人は、空を体得している人と言えると思います。
末法の衆生はそれでいいのです。
(大聖人様の仏法以外の余計なものを混ぜ込まないという条件付きですが・・・。)

> 蔵教で説かれる空は「析空」で
> 通教で説かれる空は「体空」。
> というのは調べればすぐに出てくる答えですが、
> その意味するところを自分の言葉で噛み砕いて
> 語ることが出来てはじめて空を正しく理解できたといえるでしょう。

以上、私なりの考えを述べてみました。
それでは、おやすみなさい。


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