日蓮大聖人の仏法 掲示板

日蓮大聖人を末法の御本仏と信じ、日蓮正宗大石寺の本門戒壇の大御本尊を信仰の対象としている方に向け、日蓮大聖人の御心に叶い、時に叶った正しい信心とは如何にあるべきかを考えていきます。



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[174] 天罰論

投稿者: 愚人 投稿日:2017年 3月12日(日)08時04分55秒   通報   返信・引用

  ★注意★ 災害を「天罰」とすることに嫌なおもいをなさる方や不快感を感じる方は読まないで下さい。

 なお殆ど他人の「論」の紹介です。


 最近、新潮新書刊 末木文美士著 『現代仏教論』を読んだ。この本の第一章『震災から仏教を考える』で氏は、震災を「天罰」との観点から述べている。この中で末木氏は、

 「仏教では縁起ということを言います。もし地震は自然現象で人間は関係ない、というのであれば、人間と自然とは無関係で、縁起的な関係がない、ということになります。でも、それは仏教的に考えてもおかしいと思います。人間も自然も相互に切り離せない関係の中に入っている。それが縁起ということではないでしょうか。」【同書23頁】

と延べ、

 「自然を人間と無関係だとして、自然への関心を失わせ、自然を疎外することになってしまいます。自然と対話しながら、自然に対してどのように対応したらよいのか、自然と一緒に考えていく姿勢が必要ではないでしょうか。」【同書23頁】

と述べている。此処で氏は、「人間と自然との相関関係」、日蓮聖人の遺文から言えば「依正不二」を延べていると愚人は読み解く。「天罰」について氏は、

 「僕は決して厳格な理論としての「天罰論」の立場に立つわけではないが、それでも、そのような人知を超えた何か、僕の用語でいう「冥」の領域を無視して、人間至上主義の傲慢に陥るよりは、「天罰」という言い方でも、「冥」の世界への畏れを持つ方に共感する。」【同書30・31頁】

 と延べている。氏は、東日本大震災発生時に「天罰論」を延べ論争を巻き起こしたそうだ。愚人も、人間至上主義を改める上から「冥」に対する畏れを持つことは必要であると思う。

 大正時代に発生した「関東大震災」の時に「天罰論」を述べた人がいる。実業家の渋沢栄一である。氏の「天罰論」を半沢健一氏の論文、『関東大震災とリスボン大地震―天譴論・内村鑑三・ヴォルテール』から紹介する。


関東大震災における言説で興味を惹かれるのは「天譴論」である。それは実業家渋沢栄一に発する。渋沢の天譴論から二つを次に掲げる(現代かな遣いに修正)。

 「日本は明治維新から僅々数十年を出ずして世界列強の班に入った。この長足の進歩は世界の均しく驚嘆するところである。と同時に我が国民の自ら顧みて衷心聊か自負する処が尠なくなかったと思う。私は近頃我が国民の態度が余り泰平に狎れ過ぎはしないかと思う。順調に進み平穏に終始すれば、勢い精神の弛緩するのは已むを得ない処かも知れないが、我が国民が大戦以来所謂お調子づいて鼓腹撃壌に陥りはしなかったか、これは私の偏見であれば幸いであるが兎に角、今回の大震災は到底人為的なものではなく、何か神業のように考えられてならない。即ち天譴というような自責の悔を感じない訳には行かない。」

 渋沢は忘れっぽい日本人に対して震災の一年後にこう書いている。

 「私は此震災を迷信的に解釈して、今時の国民は少し浮かれ過ぎるから天が斯様な罰を与えたもので、謂わば天譴ではないかとも考える。/要するに新春を迎えると共に、自然の空気、一般の気合が緊張して欲しいものである。己を中心として、人の揚足取りのみを得意とする様では、夫の恐ろしい天譴を余り早く忘れ過ぎたと見ねばなるまい。吾々国民は厚始)一新する事が必要である。」

 天譴とは何か。渋沢は天譴を日常語の「天罰」と同意に使っているが、語源を辿れば中国前漢時代の儒学者董 仲 舒に発するという。「天人相関説」の別称もある。その意味は、君主の政治的失敗に対して「天」が地上に警告、譴責を行い統治への反省を促すということである。日本では君主は天皇であるが,渋沢は注意深く天皇への譴責ではなく国民全体への譴責であると読みかえている。

 つまり震災は「天罰」であり「天譴」であるとの事である。この時の渋沢栄一の警告も空しく、伊勢湾台風・阪神淡路大震災・東日本大震災が起き、最近では熊本大地震が発生している。人間は自然/天に対する畏れを抱くべきであると愚人は思う。心を澄ませて自然/天からの声を聞くべきだと愚人は思う。

  日蓮聖人も「天人相関説」のうえから「災異」が起こるとしているが、文応元年の『立正安国論』の提出時にはまだ「天罰」の言葉は見えない。


 五戒破るれば此国土次第に衰へ、又重て五戒を持たずして此身の上に悪業を作れば、五戒の戒体破失して三途に入るべし。是凡夫の戒体也。『戒体即身成仏義』

 答えて曰く、仏法いまだ漢土に渡らざる前は、黄帝等五常を以て国を治む。その五常は、仏法渡りて後にこれを見れば、すなわち五戒なり。老子・孔子等もまた仏遠く未来を鑑み、国土に和し、仏法を信ぜしめんがために遣すところの三聖なり。夏の桀・殷の紂・周の幽等の、五常を破つて国を亡すは、すなわち五戒を破るに当るなり。また人身を受けて国主と成るは必ず五戒・十善に依る。外典は浅近の故に過去の修因・未来の得果を論ぜずといえども、五戒・十善を持ちて国王と成る。故に人五常を破ることあれば、上天変頻に顕れ、下地夭間侵すものなり。『災難興起由来』

 答えて曰く、彼の時もまた災難あり。云く、五常を破り、仏法を失いし者これあるが故なり。いわゆる周の宇文・元嵩等これなり。難じて曰く、今の世の災難も五常を破りしが故にこれ起るといわば、何ぞ必ずしも選択集流布の失に依らんや。答えて曰く、仏法已前に五常をもつて国を治むるは、遠く仏誓をもつて国を治むるなり。礼儀を破るは仏の出したまえる五戒を破るなり。『災難対治抄』


 これ等の文は、五戒(五常)を破戒すると戒体も破して天地人の陰陽五行説に基づく天人相関性が崩れて国土や人に災難が起こるという文である。『立正安国論』になると単なる「天人相関説」


 慈覚大師の入唐巡礼記を案ずるに云く、「唐の武宗皇帝の会昌元年、勅して章敬寺の鏡霜法師をして、諸寺において弥陀念仏の教を伝えしむ。寺毎に三日巡輪すること絶えず。同二年回鶻国の軍兵等、唐の堺を侵す。同三年、河北の節度使忽ち乱を起す。その後、大蕃国また命を拒み、回鶻国重ねて地を奪う。およそ兵乱は秦項の代に同じく、災火は邑里の際に起る。いかにいわんや、武宗大に仏法を破し、多く寺塔を滅す。乱を揆むること能わずして、遂にもつて事あり」と已上取意。」


 しかし、『立正安国論』提出から九年後の『立正安国論副状』においては、

 正嘉元年 太歳丁巳 八月二十三日戍亥の尅の大地震、日蓮諸経を引いてこれを勘うるに、念仏宗と禅宗等とに御帰依あるの故に、日本国中の守護の諸大善神、恚に依つて起す所の災なり。もし御対治なくんば、他国のために此の国を破らるべき悪瑞の由、勘文一通これを撰し、立正安国論と号し、正元二年 太歳庚申 七月十六日、宿屋入道に付して故最明寺入道殿にこれを進覧せしむ。


として、正嘉大地震を「天罰」としている。ここで、天災地変を「天罰」と観る日蓮聖人の遺文を数文示してみよう。


 国王と申す事は、先生に万人にすぐれて大戒を持ち、天地及び諸神ゆるし給ひぬ。其の大戒の功徳をもちて、其の住むべき国土を定む。二人三人等を王とせず。地王・天王・海王・山王等 悉 く来たってこの人をまぼる。いかにいはんや其の国中の諸民、其の大王を背くべしや。此の王はたとい悪逆を犯すとも、一二三度等には左右無く此の大王を罰せず。但諸天等の御心に叶はざる者は、一往は天変地夭等をもちてこれをいさむ。事過分すれば諸天善神等其の国土を捨離し給ふ。若しは此の大王の戒力つき、期来たりて国土のほろぶる事もあり、又逆罪多にかさなれば隣国に破らるゝ事もあり。善悪に付けて国は必ず王に随ふものなるべし。
世間此くの如し、仏法も又然なり。仏陀すでに仏法を王法に付し給ふ。しかればたとい聖人・賢人なる智者なれども、王にしたがはざれば仏法流布せず。或は後には流布すれども始めには必ず大難来たる。『四条金吾殿御返事』

 正嘉の大地震等の事は、去ぬる文応元年太歳庚申七月十六日宿屋の入道に付けて、故最明寺入道殿へ奉る所の勘文立正安国論には、法然が選択に付いて日本国の仏法を失ふ故に、天地瞋りをなし、自界叛 逆 難と他国侵逼難起こるべしと 勘 へたり。『呵責謗法滅罪抄』

 所謂正嘉の大地震文永の長星は誰が故ぞ。日蓮は一閻浮提第一の聖人なり。上一人より下万民に至るまで之を軽毀して刀杖を加へ流罪に処するが故に、梵と釈と日月四天と隣国に仰せ付けて之逼責するなり。大集経に云はく、仁王経に云はく、涅槃経に云はく、法華経に云はく。設ひ万祈を作すとも日蓮を用ひざれば必ず此の国今の壱岐・対馬の如くならん。『聖人知三世事』

 而るに今の世は法華経を軽蔑するこ
と土の如く民の如し。真言の僻人等を 重崇して国師と為ること金の如く王の如し。之に依って増上慢の者国中に充満す。青天瞋りを為し黄地夭孼を致す。 涓聚まりて墉塹を破るが如く、民の愁ひ積りて国を亡す等是なり。『太田殿許御書』

 末法の始めに謗法の法師一閻浮提に充満して、諸天いかりをなし、彗星は一天にわたらせ、大地は大波のごとくをどらむ。大旱魃・大火・大水・大風・大疫病・大飢饉・大 兵乱等の無量の大災難並びをこり、『新尼御前御返事』


 これ等の遺文を読むと、日蓮聖人は「天罰」の由縁を国主等の叛仏・叛法・叛僧としていることが解る。しかしながら、 叛仏・叛法・叛僧を「叛自然」と読み替えれば、天災地変は、人間の「自然破壊/自然との不調和」に対する天罰/天譴であると読む解くことが出来ると思う。

 これ以上、「自然破壊/自然との不調和」を人間が犯し続けたならば、


 但諸天等の御心に叶はざる者は、一往は天変地夭等をもちてこれをいさむ。事過分すれば諸天善神等其の国土を捨離し給ふ。若しは此の大王の戒力つき、期来たりて国土のほろぶる事もあり、又逆罪多にかさなれば隣国に破らるゝ事もあり。


との『四条金吾殿御返事』の文の如く、もっと大きな「天罰」によって、国土(人)が滅びることに成るかもしれない。日蓮聖人は云う、


 汝早く信仰の寸心を改めて速やかに実乗の一善に帰せよ。

と。もうこれ以上の自然破壊を改めて、速やかに自然との対話を進めれば、


 然れば即ち三界は皆仏国なり。仏国其れ衰へんや。十方は悉く宝土なり、宝土何ぞ壊れんや。国に衰微なく土に破壊無くんば身は是安全にして、心は是禅定ならん。


とあるように、自然と人が調和した国土となり身心もまた法楽の姿となるのだ。


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