日蓮大聖人の仏法 掲示板

日蓮大聖人を末法の御本仏と信じ、日蓮正宗大石寺の本門戒壇の大御本尊を信仰の対象としている方に向け、日蓮大聖人の御心に叶い、時に叶った正しい信心とは如何にあるべきかを考えていきます。



カテゴリ:[ なんでもフリートーク ] キーワード: 法華講 創価学会 外道義


222件の内、新着の記事から50件ずつ表示します。


[223] 簡単な識別法

投稿者: 妙介 投稿日:2019年11月12日(火)21時08分23秒   通報   返信・引用

戒壇の大御本尊様が仏法の究極の正解です。

戒壇の大御本尊を信仰している人は、途中の式や計算は間違っていてもとりあえず答えだけは合っている、
そういう状態です。
答えが合っているのに、途中の式をあからさまに間違っている人は、
多くの人に戒壇の大御本尊という答えも間違っているという印象しか与えないので、
もしかしたら、どえらい地獄に行くことになるかもしれません。

戒壇の大御本尊を否定している人は、途中でどんなにもっともらしい仏教用語を解説しても、
間違いのままです。
つまり、迷いから抜けられないという事です。
こちらも、間違いなく地獄行きでせうね。




[222] 無分別

投稿者: 法介 投稿日:2019年10月29日(火)06時36分30秒   通報   返信・引用

【分別のある大人になるより、無分別の悟りを開こう】
https://www.zen-essay.com/entry/hunbetsu-muhunbetsu

↑仏法で説く無分別の意味が解り易く書かれている記事です。



[221] この辺で

投稿者: 法介 投稿日:2019年 9月 2日(月)23時21分28秒   通報   返信・引用

福島さんや石田さんの伝承者としてこれからも末永く頑張られてください。

私は先を急ぎますので、このへんで失礼いたします。



[220] 月こそ心よ花こそ

投稿者: 妙介 投稿日:2019年 9月 2日(月)22時02分8秒   通報   返信・引用

>御本尊は無分別の境地(8識・9識)を顕された当体です。その8識・9識はどこにあると思いますか?

>静岡県の富士市ですか?

>大聖人様は胸中の肉団におはしますなりと仰せなのに、仰せに背いて静岡県にあることにしちゃうのですか?

昔、福島さんからよく聞いた話に、人間は独立して存在しているように見えるけど、顕微鏡でのぞいてみると、どこまでが人間でどこからが外界か、その境目がものすごく曖昧になってるんだ、とか、そのような意味の話をたくさん聞きました。
私は若かったこともあるけど、福島さんがおっしゃっている意味をすぐに理解できました。

つまり、こういうことなのです。

私という個人は、一見独立して存在しているように見えるけれども、外界と完全に同化しており、切り放そうにも切り離せない、そのような状況で存立しています。

一念三千で説明すれば、私と私の国土世間の一部である静岡県富士宮市とは完全に同化して切り離すことは出来ないのです。(これが一人称世界 ・主観、という事です)

故に、戒壇の大御本尊様がおわします静岡県富士宮市が、私の胸中の肉団の中の九識心王真如の都となるのです。

なんて言ったらいいのかなぁ。
とにかく仏法って、凄いんです。本当なんです。
令和のこの時代に、完璧に通用している、究極の真実なんです。

爾前の経の心心は、心より万法を生ず、譬へば心は大地のごとし・草木は万法のごとしと申す、法華経はしからず・心すなはち大地・大地則草木なり、爾前の経経の心は心のすむは月のごとし・心のきよきは花のごとし、法華経はしからず・月こそ心よ・花こそ心よと申す法門なり

御本尊こそ我が心、戒壇の大御本尊様こそが我が仏界です。
有り難くて有り難くて、 涙が出ます。



[219] 三界の構造 その③

投稿者: 法介 投稿日:2019年 9月 2日(月)03時51分55秒   通報   返信・引用   編集済

御本尊は無分別の境地(8識・9識)を顕された当体です。その8識・9識はどこにあると思いますか?

静岡県の富士市ですか?

大聖人様は胸中の肉団におはしますなりと仰せなのに、仰せに背いて静岡県にあることにしちゃうのですか?

九識論は自身の心の内を示したものではないのですか?

無分別なのに何故「義の本尊」とか「事の本尊」とか分別しているのですか?

仏は無分別の境地なのになぜ静岡県という特定の限定された場所におられるのですか?

仏は無色界におられるはずなのに何故御本尊という姿(色)があるのですか?

仏は無我・無自性を説くのになぜ戒壇の御本尊には仏性が備わっているとか言っているのですか?

戒壇の御本尊は実体思想から抜けきらない人達が造り出した誤った本尊観の現れです。
仏を実体視した為に仏を戒壇の御本尊という形で現してしまった過去の時代の創作物に過ぎません。

だからといって私が御本尊を否定しているわけではありません。誤解のないように。
戒壇の語本尊を本尊とする信仰を否定しているのです。
今日においても御本尊様に向かって朝夕欠かさず勤行・唱題を行っております。



  「我が己心の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて
   我が己心中の仏性・南無妙法蓮華経とよびよばれて顕れ給う処を仏とは云うなり」
                               『法華初心成仏抄』










[218] 三界の構造 その②

投稿者: 法介 投稿日:2019年 9月 2日(月)03時33分10秒   通報   返信・引用   編集済

 正法・像法時代の修行者は過去に仏と縁をした本已有善の衆生です。ですから自身のアラヤ識に過去世での仏様との記憶が眠っています。その記憶を禅定や瞑想といった修行によって蘇らせて仏性を得ます。

 しかし末法の衆生は過去に仏との縁が無い本未有善の荒凡夫ですので、末法においてそのような禅定や瞑想修行を行っても仏性を得ることは出来ません。

 ですから大聖人様はそのような末法の凡夫でも仏性を得られるように御本尊を著されました。御本尊の説明をしだしたら更に長くなりますので今回は端的な説明にとどめてさせて頂きます。

以上の説明で凡夫でも仏の境地にたどり着けるという事はご理解頂けましたか?

戒壇の御本尊様が何故必要なのですか?

自身が大聖人様が著された御本尊様に向かってお題目を唱えれば自然に仏界に至るのです。



「此の御本尊全く余所に求る事なかれ、只我れ等衆生の法華経を持ちて
 南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり、是を九識心王真如の都とは申すなり」
                                  『日女御前御返事』




つづく






[217] 三界の構造 その①

投稿者: 法介 投稿日:2019年 9月 2日(月)03時10分10秒   通報   返信・引用   編集済

> その場合の「御本尊」とは法介さんにとってどのような位置付けなのでしょうか?

図を使って説明しますのでまずはこちらをご覧下さい。
https://hokekyou.up-jp.com/sannno-4/
三界図

つづく




[216] Re: 禅と瞑想

投稿者: 妙介 投稿日:2019年 9月 1日(日)22時40分12秒   通報   返信・引用

>  しかし末法においては、そのような大変な修行をして意識を奥深く沈めていかなくても、
目の前に九識が顕されているので直ちに仏の境地に自身の意識をもっていけるのです。

法介さんは既に戒壇の大御本尊様への信仰からは離れていると思っていましたが、
上記のようなことはどのような方法でなさるのでしょうか?

目の前に九識が顕されているとは?
もしかして、いわゆる「御本尊」のことなのでしょうか。

その場合の「御本尊」とは法介さんにとってどのような位置付けなのでしょうか?

法介さんの信仰のあり方は?、只々???です。





[215] 禅と瞑想

投稿者: 法介 投稿日:2019年 9月 1日(日)20時22分19秒   通報   返信・引用

 リンクで紹介している「…なんだそうだ、般若心経」は真言宗のご僧侶が書かれたサイトです。
真言宗や天台宗などは禅(もしくは禅定や止観、小乗においては瞑想)によってマナ識やアラヤ識へ意識をもっていく修行を行います。

 しかし末法においては、そのような大変な修行をして意識を奥深く沈めていかなくても、目の前に九識が顕されているので直ちに仏の境地に自身の意識をもっていけるのです。

 だからといって、「析空や体空なんて知らなくてもいいんです!」ではないのです。石田次男さんが自身の論文の中で、学会員さんに向けて無我や縁起を学ぶ必要性を訴えておられたように「空」が何たるかを学ばなければ、自身の我見や外道義がじゃまして究極の境地に至ることが出来ないのです。


http://mh357.web.fc2.com/



[214] 粘り強く・・・

投稿者: 法介 投稿日:2019年 9月 1日(日)19時38分29秒   通報   返信・引用   編集済

ふとひらめいたので、あきらめずに伝えたいと思います。

罪を犯した犯罪者の事を人は悪人よばわりしますよね。凡夫の目には悪人に見えている(凡夫自身が造りだしている虚像)訳ですが、仏様から見ればそのような悪人であっても救うべく愛おしい衆生に見えているはずです。

自分一人の世界というのは、自他の分別がない境地なので自他が一体となっているという意味です。

ですから仏様は無分別の境地(九識)におられるのです。
         ↑
       自他の分別がない境地

> 自分一人しかいない空想の世界で

空想の世界を語っているのではなく、九識論でいうところの(自身の)意識をどの識層におくかの話をしているのです。


妙介さんが本当に「空」を正しく理解されているかは、
http://www.mitsuzoin.com/nanda_hannya.html
「…なんだそうだ、般若心経」
↑このサイトに書かれている内容を理解できるか否かで直ぐに答えがでると思います。
理解出来ない時は、謙虚に学んでください。




[213] Re:・・・

投稿者: 妙介 投稿日:2019年 9月 1日(日)18時43分43秒   通報   返信・引用

>心の一法より出来する国土世間がどこか現実世界から離れたところに存在するとか私がどこかで発言しましたか?

そのような発言はされていませんし、私もそのような質問はしていません。
私の発言を自分の都合のいいように改変して反論するのは…、
仏法者として正しい態度でしょうか?

私は
>心の一法より出来する国土世間とは、それぞれにとっての娑婆世界・現実世界であり、それ以外ではありえません。
>自分一人しかいない空想の世界で、仏教用語を弄ぶことが仏道修行だと思っているのなら、とんでもない思い違いです。

と述べたのです。


法介さんの下記の発言への反論です。

>私が言う主観と妙介さんが思う主観とは意味合いが違っているようですね。私がいう主観は源次郎さんがいうところの一人称世界のことです。一人称世界は自分一人の世界ですので他者の存在はありません。自分しか存在しない世界では自我は生じません。なぜなら自我は自分と他者を比較することで生じる意識だからです。

これに対して

> そもそも、自分しか存在しない世界ってどこですか?

と、ツッコミを入れたのです。

この中でも特に「一人称世界は自分一人の世界ですので他者の存在はありません。」というのは完璧な間違いですね。
そんな発言をしておきながら、

>私がいう主観は源次郎さんがいうところの一人称世界のことです。

私は福島さんから直にお話を聞く機会が沢山ありましたので、法介さんの考えは福島さんの考えとは全く違うということは断言できます。

>お願いですから、まずは空を正しく理解なされて下さい。

法介さんが空を正しく理解していると、どうやって証明する気ですか?
また、空を正しく理解しているのなら、私の質問に確信を持って回答できるのではないでしょうか。

まぁ、すでに議論から降りられたようなので、回答は求めませんが、
法介さんが正しい信心をして行くためには大切な事だと思うので、しっかり考えてみてください。






[212] ・・・

投稿者: 法介 投稿日:2019年 9月 1日(日)11時39分39秒   通報   返信・引用   編集済

 心の一法より出来する国土世間がどこか現実世界から離れたところに存在するとか私がどこかで発言しましたか?
 空を正しく理解できておられないようなので、自身の心が変わることで見えている現実世界が如何様にも変わって見えてくるといった私の主張が全く理解されず、空想の世界の話を私が語っていると思われているのですね・・・

 これ以上、語る気力を完全に失いました・・・
お願いですから、まずは空を正しく理解なされて下さい。

 話があまりにも噛み合わないので
これにて失礼いたします。



http://mh357.web.fc2.com/



[211] Re: 心の一法

投稿者: 妙介(管理人) 投稿日:2019年 9月 1日(日)11時03分43秒   通報   返信・引用 > No.210[元記事へ]

> > そもそも、自分しか存在しない世界ってどこですか?
>
> 「此の心の一法より国土世間も出来する事なり、一代聖教とは此の事を説きたるなり
(後略)

人はオギャーと生まれて臨終するまで、この娑婆世界・現実世界で生きています。
その現実世界で生きている生の心(一念)の救済を説いたものが仏法です。

心の一法より出来する国土世間とは、それぞれにとっての娑婆世界・現実世界であり、
それ以外ではありえません。

自分一人しかいない空想の世界で、仏教用語を弄ぶことが仏道修行だと思っているのなら、
とんでもない思い違いです。



[210] 心の一法

投稿者: 法介 投稿日:2019年 9月 1日(日)09時13分22秒   通報   返信・引用

> そもそも、自分しか存在しない世界ってどこですか?

「此の心の一法より国土世間も出来する事なり、一代聖教とは此の事を説きたるなり此れを八万四千の法蔵とは云うなり是れ皆悉く一人の身中の法門にて有るなり、然れば八万四千の法蔵は我身一人の日記文書なり、此の八万法蔵を我が心中に孕み持ち懐き持ちたり我が身中の心を以て仏と法と浄土とを我が身より外に思い願い求むるを迷いとは云うなり此の心が善悪の縁に値うて善悪の法をば造り出せるなり、華厳経に云く「心は工なる画師の種種の五陰を造るが如く一切世間の中に法として造らざること無し心の如く仏も亦爾なり仏の如く衆生も然なり三界唯一心なり心の外に別の法無し心仏及び衆生・是の三差別無し」『三世諸仏総勘文教相廃立』

http://mh357.web.fc2.com/



[209] 時について

投稿者: 法介 投稿日:2019年 9月 1日(日)09時06分15秒   通報   返信・引用

 先程、投稿済みの205の記事内容を編集して、お別れの挨拶をしたところだったのですが妙介さんから「時」についての意見を求められましたので後ほど投稿させて頂きます。

http://mh357.web.fc2.com/



[208] (無題)

投稿者: 妙介 投稿日:2019年 9月 1日(日)08時59分42秒   通報   返信・引用

>私が言う主観と妙介さんが思う主観とは意味合いが違っているようですね。私がいう主観は源次郎さんがいうところの一人称世界のことです。一人称世界は自分一人の世界ですので他者の存在はありません。自分しか存在しない世界では自我は生じません。なぜなら自我は自分と他者を比較することで生じる意識だからです。

残念ながら福島さんは法介さんが言われるような意味合いで一人称世界という言葉をつかってはおられません。

>一人称世界は自分一人の世界ですので他者の存在はありません。自分しか存在しない世界では自我は生じません。

仏法は法介さんがおっしゃるようなモデル世界での空理空論ではなく、娑婆世界を舞台に展開するものです。
そもそも、自分しか存在しない世界ってどこですか?



[207] 時について

投稿者: 妙介 投稿日:2019年 9月 1日(日)08時51分42秒   通報   返信・引用

>「コップの水を飲みました。私と水は一体となりました。これが無分別です。」

 >は、五蘊が働いています。これは析空の域で体空は、水を見たり、味わったり、触ったり、飲んだりするのではなく、そういった五感の認識から離れたところに意識をもっていこうとするものです。

析空も体空も言葉であり分別です。
法介さんが、そのような言葉の組み合わせを駆使して、言葉では伝えられない何かを伝えようと努力していらっしゃる事は分かります。
ただ、残念ながら全く伝わってきません。
そもそも、そのような方法が成り立つのは天台までで、像法時代の修行のやり方ではありませんか?

大聖人様の仏法では「時」というのを大変重要視され、その時に応じた修行をしなければ利益がないという事は再三ご指南されています。
法介さんは「時」という事についてはどのようにお考えですか?



[206] 法介さんへ

投稿者: 妙介 投稿日:2019年 9月 1日(日)08時49分53秒   通報   返信・引用

8月24日の法介さんの投稿があまりにも久し振りにだったため、途中の経過を失念しておりました。

法介さんがご自身のサイトで、戒壇の大御本尊から離れるといった趣旨の発言をされたことに対して、2018年10月3日に私が意見を投稿しようとして出来なかったので、こちらに貼り付けておくとした投稿に対する返答だったのですね。

いやぁ、すっかり忘れておりました。失礼しました。

かつては熱烈に信仰しながら、様々な経緯で戒壇の大御本尊様から離れて行く人は沢山います。
私の知り合い(あくまでネット上ですが)で、もっとも有名な方は犀角独歩さんです。彼の主張は今でもネットで読めますし、ブログでの発信も続けていらっしゃいます。

実は私が20代の頃、蘇生の集いの中部方面の中心者で、福島源次郎さん達と蘇生講の立ち上げに尽力した私の信心の大恩人も最後には戒壇の大御本尊様から離れました。

昭和30年代から昭和の後半にかけて、広宣流布は達成されると本気で思っていた人はたくさんいたのではないでしょうか。
かく言う私もその一人ではありました。
平成に入って福島源次郎さん達との活動をやっていた頃も、まだ希望は捨てていませんでした。

平成も後半に入ると、外道義混入の問題を十分理解し、かつ戒壇の大御本尊様への信仰を保っているのは自分だけかもしれないと思うほど、独りぼっちの絶滅危惧種のような存在になりました。

そんな時に私に連絡をくれたのが法介さんでした。
2016年でしたね。

せっかく外道義混入の問題に気づいても、その後戒壇の大御本尊様からまで離れてしまうという人が多かったため、私なりに編み出したロジックが、法華経の成立と戒壇の大御本尊様の成立は似ているのではないか、というものです。

法華経の成立は諸説ありますが、釈迦滅後であることは間違い無く、釈尊の弟子達が釈尊の意を呈して成立させたものです。
ですので、法華経を仏説そのものであるとするには、議論のあるところです。
しかし大聖人様は、法華経の一文字一文字が仏の金口であるとご指南されています。
このロジックをそのまま戒壇の大御本尊にも当てはめれば良いのではないかと思うのです。

大聖人様の弟子達が、大聖人様の意を呈して戒壇の大御本尊様を作った。
何故作ったのか?
大聖人様の仏法の信仰を成立させる為に必要だからです。
事の一念三千を展開させるために必要不可欠なもの、それが戒壇の大御本尊様である、というのが私の考えです。

「そんなの御書のどこに書いてあるんだ!」というツッコミが聞こえてきそうですが、私には有師・寛師・淳師・石田氏といった、信仰の巨人達の肩の上に乗って信仰を解釈しているという自覚はあります。












[205] 自我と無我

投稿者: 法介 投稿日:2019年 9月 1日(日)08時18分49秒   通報   返信・引用   編集済

 私が言う主観と妙介さんが思う主観とは意味合いが違っているようですね。私がいう主観は源次郎さんがいうところの一人称世界のことです。一人称世界は自分一人の世界ですので他者の存在はありません。自分しか存在しない世界では自我は生じません。なぜなら自我は自分と他者を比較することで生じる意識だからです。

 自分という意識は他人という認識があってはじめて生じる意識です。他者の認識を認める二人称や三人称世界(客観的自己認識世界)ではなく主観的自己認識世界である一人称世界に意識を置くことが自我を滅した無我・無自称の境地で、自身を含め全てが無我・無自称となります(無分別)。それは戒壇の御本尊様といえども例外ではありません。

 では大聖人様の魂はどこに御座しますのかといえば、自身の意識の奥深く九識心王真如の都に他なりません。

「此の御本尊全く余所に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり、是を九識心王真如の都とは申すなり」『日女御前御返事』


 最後に私事で恐縮ですが、家族の中でただ一人、法華講の青年部でがんばっておりました長男ですが、折伏のかいあって戒壇の御本尊への執着がとけ日蓮正宗法華講をようやく脱講でき、今では昨年結婚しました次男夫婦と長女と妻の家族6人揃って毎月1回「教学研鑽会」を行っております。今回紹介しました論文はその内容を論文としてまとめたものです。正しい信心が実践出来ているからこそ、一家和楽で幸せな日々を送っております。

今回は、これにて失礼いたします。

http://mh357.web.fc2.com/



[204] 析空と体空

投稿者: 法介 投稿日:2019年 9月 1日(日)07時08分11秒   通報   返信・引用   編集済

 あと、妙介さんに気づいて欲しいという想いから追記させて頂きます。

大聖人様が『三世諸仏総勘文教相廃立』561ページの中で言われている、

「方便品に云く「三世の諸仏の説法の儀式の如く我も今亦是くの如く無分別の法を説く」已上、無分別の法とは一乗の妙法なり」

の無分別の法は、以前妙介さんが発言されました、

「コップの水を飲みました。私と水は一体となりました。これが無分別です。」

 とは全く意味合いが違います。私が今回妙介さんに析空と体空の違いを投げかけたのも、実はここのところの理解が妙介さんは出来ていないと思ったからです。面白いことに今回、妙介さんが引用なされた福島源次郎さんの文章にもそれが現れています。源次郎さんは「色・受・想・行・識」に沿って話を結論づけておられますが、私は自身の論説の中でその「色・受・想・行・識」を空じる話につなげて無分別にむすびつけて論じています。この違いが析空と体空の違いです。

 析空に陥った説一切有部の「有部」の意味は、縁起を悟って我が無いことは理解するが、「色・受・想・行・識」の法は三世に渡って存在するといったものです。これに対し竜樹は、「般若心経」で説かれる「照見五蘊皆空」をひも解いて、色・受・想・行・識の五蘊も空じる対象であることを論じて説一切有部の析空を破折し大乗仏法を展開していきます。

 色・受・想・行・識を空じるということがどういうことか、先程紹介しましたサイト「・・・なんだそうか般若心経」を読めば理解できるかと思います。

http://www.mitsuzoin.com/nanda_hannya03.html
その三 判断のメカニズム[照見五蘊皆空]

http://www.mitsuzoin.com/nanda_hannya10.html
その十 絶対なんて絶対ない…[是故空中無色無受想行識]

http://www.mitsuzoin.com/nanda_hannya11.html
その十一 接待の心得[無眼耳鼻舌身意無色聲香味触法無眼界乃至無意識界]



 妙介さんが以前発言なされた、

「コップの水を飲みました。私と水は一体となりました。これが無分別です。」

 は、五蘊が働いています。これは析空の域で体空は、水を見たり、味わったり、触ったり、飲んだりするのではなく、そういった五感の認識から離れたところに意識をもっていこうとするものです。1~6識までで働く五蘊を空じて7~9識に意識をもっていく訳ですが、7識の分別を生み出す元となる自我を滅した8識・9識が無分別の「空」の境域となります。

「九識法性をば、迷悟不二・凡聖一如なれば空と云うなり、無分別智光を空と云うなり」『御講聞書』





[203] 今回はこの辺で

投稿者: 法介 投稿日:2019年 8月31日(土)23時02分13秒   通報   返信・引用   編集済

>「戒壇の 大御本尊様」への信こそが仏法における究極の正解だからです。

 そのような御指南は御書のどこにもありませんし法門的にも成り立ちません。

 妙介さんは石田次男さんの教学を基準とされておられるようですが、その物差しを私に押し付けてこられても困ります。私はあくまでも仏が説かれた法門を基準として教学を構築しておりますので、論説においても大聖人様の御指南を必ず用いて根拠を提示してもおります。

 大聖人様は御書の中で、『涅槃経』に示される「依法不依人」の経文を度々用いられています。「法に依って人に依らざれ」とは、仏の説いた法そのものをよりどころとして、人によってはならないということです。仏法の勝劣浅深正邪の判定は、仏が説いた経文を根本とすべきであり、他の人師・論師の所説を用いるべからずです。

 石田次男さんは学会および日蓮正宗の外道義にいち早く気づかれたという点においては素晴らしい教学の持ち主だったと思いますが、氏の教学の限界や我見も私は感じております。外道義については氏が解説されていない(気づいていない)御書が他にもいくつかあります。氏は「小乗の外道」までは見破りましたが「大乗の外道」が何たるかまでは至っておりません。そこらへんの話はまた別の論説で述べていこうと思っております。

 あと余計な事かもしれませんが「空」を正しく理解する為にもせめて般若心経くらい勉強されるべきだと思います。

http://www.mitsuzoin.com/nanda_hannya.html

「空」は般若心経の中で詳しく説かれておりますので。

http://mh357.web.fc2.com/



[202] 戒壇の大御本尊様

投稿者: 妙介 投稿日:2019年 8月31日(土)21時29分48秒   通報   返信・引用

主観とか客観とかの瑣末な間違いに気を取られて、最も重大な間違いの指摘をしていませんでした。

引用
>無我を悟りながらも未だ実体思想から抜けきらないでいる仏法者を「小乗の 外道」と言うのだと大聖人様は『一代聖教大意』の中で御指南あそばされてい ますが、仏法の因果や縁起の法門を医学や化学、哲学といった客観認識(実体 思想)で語っている創価学会の仏法がまさにそれにあたります。また「戒壇の 御本尊様」という実体に捕らわれて「仮諦」の域から抜けきらないでいる日蓮 正宗もこの「小乗の外道」にあたります。

法介さんがその意図を理解していると言ってみえる福島源次郎さんも、内外相対という仏法の入口を切り開いて下さった石田次男さんも、「戒壇の 大御本尊様」の熱烈な信奉者でした。「戒壇の 大御本尊様」への信こそが仏法における究極の正解だからです。

最終的に答えが間違ってしまうのは、途中の考え方や認識に間違いがあるからです。
少なくとも法介さんには福島源次郎さんや石田次男さんの主張はまったく理解出来ていないということが分かります。

以上です。



[201] 源次郎さんの意図

投稿者: 法介 投稿日:2019年 8月31日(土)18時47分31秒   通報   返信・引用

福島源次郎さんが、

> 仏法は、仏が自らの覚り(一人称世界)を、化他の相手である衆生に語りかけ(二人称世界)、成仏の道に導いていく教法です。それを文字で表現したのが経文であり、御書であります。この化導の語りかけのためには、三人称世界の概念や知識を活用する必要があり、又これ以外に方法がないのです。「(仏は)但仮の名字を以って、衆生を引導したまう、仏の智慧を説かんが故なり」 (法華経方便品) とはこのことであります。

一人称世界、二人称世界、三人称世界と言っているのは、視点の違いをそのような言葉で表現しているのでしょう。ですからその次に

> このように、仏法は本来、一人称世界のものであり、化他の面で二人称世界の局面が出てくるのであります。

と、仏は自身が一人称世界で悟りえた主観を衆生に伝える手段として客観法である言葉を用いる必要性がでてくると結論づけています。そして、

> 我々が現実世界に相い対した時の態度を考えてみましょう。まず私たちはまっ先きに現実世界を〈見)ます。見て態度を決めます。ふつうはここで、この世界を(考え)、(論じ)ます。

> 次に、世界に向って働きかけます。これは 〈行為の世界)を形成し、「事」とか「事行」の世界になってまいります。


と、色・受・想・行・識の話をもちだして、

>  この立て分けをきちんとしておかないと、仏の説法を三人称世界に持ち込んでしまい、客観的に存在している法理を説いたものと、誤って受け止めてしまいます。仏法を然自科学や形而上学のように、客観の世界(人間の心から切り離し)の存在法のごとく説くのは、根本的に誤っているのです。

主観と客観の立て分けを論じています。



[200] 自己認識

投稿者: 法介 投稿日:2019年 8月31日(土)17時40分29秒   通報   返信・引用   編集済

> 最初に書いたように、人は自分自身について原理的に主観視点(一人称視点)しか持ち得ません。
「客観的」に考える事は出来ても、本来の意味での客観視は原理上出来ません。

人は原理上、自身の姿を客観視することは出来ません。それは医学や科学に則ったお話です。
私は仏法のお話をしているのです。
リンゴのお話は、人が感じ取った主観は100%完璧に人に伝える事は出来ないということを言わんとする例えです。言葉じりだけを取り上げて突っかかってくる妙介さんに少しだけお付き合い致します。

> 本来の意味での客観視は原理上出来ません。

私がどこかでそのようなことを言いましたか?
私は論中においても、ここでも「物の見方、捉え方、考え方」といってると思います。

更に言葉じりの次元で言うならば、妙介さんは
ここにきて

>「客観的」に考える事は出来ても

と言われていますが

> 個人が頭の中で考えてることは全て主観である

との最初の発言とに矛盾が生じています。
妙介さんがこのような論争を望まれているのであるのならば、
私は辞退させて頂きます。

妙介さんは自己認識に主観的自己認識と客観的自己認識があることをご存知でしょうか?
妙介さんが言われている部分は「色・受・想・行・識」の五蘊の働きでいうことろの「色と受」の関係にあたります。外界の有様(色)を五感で感じ取る(受)様です。私が言っているのはその次の「想」において、主観的に想像(考える)するか客観的に想像するかの視点の違いを述べているのです。

夕日が沈む様子を見て太陽は西に沈むものだと考える人は客観的な視点に立った自己認識です。
かたや、夕日を見て美しいと考える人は主観的な視点に立った主観的自己認識です。












[199] 主観と客観

投稿者: 妙介 投稿日:2019年 8月31日(土)14時04分39秒   通報   返信・引用

人は自分自身について原理的に主観視点(一人称視点)しか持ち得ません。
また自分以外の他者については客観視点しか持ち得ません。

このことを踏まえた上で、智慧や想像力を働かせて、他人から見たら自分はどう見えるのだろう等と考えるのが「客観的」に考えるということです。

話が拡散し過ぎると結論までたどり着かないので、話を元に戻しましょう。

引用1>
人が物事を認識するさい、客観認識と主観とに別けられます。(9ページ)

最初に書いたように、人は自分自身について原理的に主観視点(一人称視点)しか持ち得ません。
「客観的」に考える事は出来ても、本来の意味での客観視は原理上出来ません。

法介さんの文章によせて書くとするなら

人が物事を認識するさい、主観とその主観の内なる客観認識とが渾然一体となり別けられません。

以下、法介さんの文章を元に説明します。

>あなたが食べたリンゴの「美味しい」と、私が食べたリンゴの「美味しい」 とでは同じリンゴの「美味しい」であっても個々人の感性の違い(五陰の違い) が生じますので全く同じ「美味しい」ではありません。個々人が感じ取る主観 は定義ずけられた言葉に転じた時点で既に客観に変わっています。
このように我々人間が生活の中で用いる言葉も含めて文学や数学、医学や科 学や哲学といったものは全て客観をベースに発展されてきたものです。
仏法はそのような客観による認識から離れて主観で物事を捉える修行を行 います。どうして客観から離れるのかというと、客観認識の中にこそ人々を苦 しめる苦の原因が潜んでいるからです。そこのところはまた別の機会に詳しく お話するとしまして、要は人の人生は客観ではなく主観そのものであるという 点でお話を続けさせて頂きます。(引用終わり)

私が食べたリンゴの「美味しい」という体験は「美味しい」という言葉で定義づけられて私の記憶に収納されても、「客観」には変わらず、言葉と体験とが渾然一体となって私の主観的な体験として記憶されています。
その事を自分以外の他者に伝える時に初めて「客観」に置き換わるのです。

さらに言うなら、客観は苦の原因ではなく離れる必要もありません。
客観自体には何も悪いところはないのです。
客観自体には何も悪いところはない、ということの理解が法介さんに欠けているのだと思います。
石田次男さんや福島源次郎さんが言っていたのは、妙法を科学の法則のような客観存在法として説明するのは間違っているという事であって、

法介さんの「仏法はそのような客観による認識から離れて主観で物事を捉える修行を行 います。どうして客観から離れるのかというと、客観認識の中にこそ人々を苦 しめる苦の原因が潜んでいるからです。」などは、とんでもない間違い解釈なのです。









[198] その2

投稿者: 法介 投稿日:2019年 8月31日(土)11時17分31秒   通報   返信・引用

>> 196

福島源次郎さんの「蘇生への選択」の抜粋文ですが、
私が論説の中で言っている内容と表現こそちがえどほぼ同じ事を言われていると思いますが、
妙介さんはこの抜粋文をどのように解釈なされているのですか?

http://mh357.web.fc2.com/



[197] その1

投稿者: 法介 投稿日:2019年 8月31日(土)11時13分44秒   通報   返信・引用

>> 195

そのサイトのタイトルに
客観的な視点で、物事を捉えよう|”考え方”を考える
と書かれてある文章は目に入りませんでしたか?

また妙介さんが引用されている文章の次に、

主観的に考えるのは簡単です。我思う故に我あり、です。(主観とはなんぞや、という議論がお好きな方は、唯脳論でも読んでみてください。)しかし、客観的に考えるのは非常に難しいものです。


と書かれている文章は目に入りませんでしたか?

このサイトでは人が頭の中で主観的に考えたり、頭の中で客観的に考えたりすることを説明されています。
(物事の見方、捉え方、視点には主観と客観があるという説明)

http://mh357.web.fc2.com/



[196] ご参考に

投稿者: 妙介 投稿日:2019年 8月30日(金)19時42分8秒   通報   返信・引用

福島源次郎さんの「蘇生への選択」からの抜書きです。


仏法は、仏が自らの覚り(一人称世界)を、化他の相手である衆生に語りかけ(二人称世界)、成仏の道に導いていく教法です。それを文字で表現したのが経文であり、御書であります。この化導の語りかけのためには、三人称世界の概念や知識を活用する必要があり、又これ以外に方法がないのです。「(仏は)但仮の名字を以って、衆生を引導したまう、仏の智慧を説かんが故なり」 (法華経方便品) とはこのことであります。

 このように、仏法は本来、一人称世界のものであり、化他の面で二人称世界の局面が出てくるのであります。

 ところで、我々が現実世界に相い対した時の態度を考えてみましょう。まず私たちはまっ先きに現実世界を〈見)ます。見て態度を決めます。ふつうはここで、この世界を(考え)、(論じ)ます。これは 「理」 の世界になってまいります。

 次に、世界に向って働きかけます。これは 〈行為の世界)を形成し、「事」とか「事行」の世界になってまいります。こういう(行為の世界)は言葉では説明しきれないものであります。

 だからこの(行為の世界) における仏の覚りの究極の部分は、不思議(推理・推論不能)、心行所滅(概念操作不能)、言語道断(論理操作不能) と述べられるのです。

 この立て分けをきちんとしておかないと、仏の説法を三人称世界に持ち込んでしまい、客観的に存在している法理を説いたものと、誤って受け止めてしまいます。仏法を然自科学や形而上学のように、客観の世界(人間の心から切り離し)の存在法のごとく説くのは、根本的に誤っているのです。

 妙法は存在法ではなくて、仏の〈智法)なのです。仏法はあくまで仏の覚り(仏界の存立)を説いたのであります。衆生に仏知見を開示悟入せしめ、成仏に導くための教法なのであって、それ以外では決してありません。



[195] Re: 主観と客観

投稿者: 妙介 投稿日:2019年 8月30日(金)18時51分27秒   通報   返信・引用 > No.194[元記事へ]

>妙介さんが言われる「個人が頭の中で考えてることは全て主観である」
といった説明がなされているサイトがありましたらご提示願います。

https://www.gixo.jp/blog/10737/
> 「客観的な視点で、物事を捉えよう|”考え方”を考える」

法介さんが紹介されたサイトです。
その冒頭にこうあります。

>世の中には「主観」と「客観」というものがあります。端的に言うと「俺はこう思うぜ」は主観で、「世の中的にはこうだぜ」が客観です。

以上です。




[194] 主観と客観

投稿者: 法介 投稿日:2019年 8月30日(金)03時18分14秒   通報   返信・引用

>人が物事を認識するさい、認識が自分自身の内にとどまっている限りにおいては全て主観です。法介さんが客観認識であると指摘している言語を使った認識であっても、その認識が自分自身の内にとどまっている限りにおいては主観です。---①

>その認識を、自分以外の他者に語りかけたり、働きかけたりする場面で客観認識が登場してきます。---②

妙介さんの①②の意見をまとめると

「個人が頭の中で考えてることは全て主観である」

というのが妙介さんの個人的な考えのようですが、

グーグルで「客観的に物事を見る」を検索して

最初に表示されるサイトが

https://www.gixo.jp/blog/10737/
「客観的な視点で、物事を捉えよう|”考え方”を考える」

で、2番目が

https://studyhacker.net/columns/objective-view
「判断の選択肢がぐんと広がる! 「客観的視点」を身につけるための3つのきほん。」

で、3番目が

https://mayonez.jp/topic/1661
客観的の意味・主観的との違い・客観的な人の特徴


といった具合です。
どれも主観と客観を視点や見方といった個人の頭の中の認識の話ですが、

妙介さんが言われる「個人が頭の中で考えてることは全て主観である」
といった説明がなされているサイトがありましたらご提示願います。



http://mh357.web.fc2.com/



[193] 法介さんへ

投稿者: 妙介 投稿日:2019年 8月29日(木)23時03分2秒   通報   返信・引用

法介さんへ

論文読ませて頂きました。

私と法介さんとの間柄ですのではっきりと申し上げますが、法介さんは仏法の奥義に入る以前の、世法の部分で間違っています。

以下、間違い部分を指摘しますので、再考するなり、反論するなり、ご自由にお願いします。

引用1>
人が物事を認識するさい、客観認識と主観とに別けられます。(9ページ)

別けられません。
人が物事を認識するさい、認識が自分自身の内にとどまっている限りにおいては全て主観です。法介さんが客観認識であると指摘している言語を使った認識であっても、その認識が自分自身の内にとどまっている限りにおいては主観です。
その認識を、自分以外の他者に語りかけたり、働きかけたりする場面で客観認識が登場してきます。

法介さんには、上記のような仏法に入る以前の世俗の段階で致命的な間違いがあるため、その後に様々な仏法用語を用いて説明を行っても全く説得力がありません。

挙げ句の果てには

引用2>
仏法はそのような客観による認識から離れて主観で物事を捉える修行を行 います。(9ページ)

これは一体、いかなる仏様の教えですか?
こんな珍説 、誰から教わりました?

そもそも、修行などしなくても誰しも主観で物事を捉えるところからしか出発できないのですが…。

以上、2点の間違いを指摘しました。
法介さんの歪んだ仏法理解の根幹をなす部分でもあります。

とりあえず、上記の2点について自らの正当性を主張してみてください。
ご健闘をお祈りします。



[192] Re: 再リンク

投稿者: 妙介 投稿日:2019年 8月27日(火)06時23分23秒   通報   返信・引用

法介さん、おはようございます。
アクセス出来ました。じっくり読んでみます。


> >御本尊様の前に座って心から有難いとお題目を唱える事が出来る人は、
> >空を体得している人と言えると思います。
>
> 学会員さんも法華講員さんも共にご本尊様を有難いと思ってお題目を唱えていると思いますが、
> 互いに醜い言葉で罵り合ってる姿は、とても空を体得している人達とは私には思えないのですが・・・
>

これは余計なものを混入しないという条件付きです。
学会にしろ正宗にしろ、余計なものを組み入れてしまっていることについては
法介さんも同じ認識だと思います。
ですので、彼らは空を体得している人ではありません。



[191] 再リンク

投稿者: 法介 投稿日:2019年 8月26日(月)23時18分22秒   通報   返信・引用

>アクセスできなかったので、内容は読んでいませんが、

失礼しました。これでどうでしょうか。

https://hokekyou.up-jp.com/wp-content/uploads/2019/08/kokekyou-syakumonn.pdf


>御本尊様の前に座って心から有難いとお題目を唱える事が出来る人は、
>空を体得している人と言えると思います。

学会員さんも法華講員さんも共にご本尊様を有難いと思ってお題目を唱えていると思いますが、
互いに醜い言葉で罵り合ってる姿は、とても空を体得している人達とは私には思えないのですが・・・



[190] Re: 妙介さんへ

投稿者: 妙介(管理人) 投稿日:2019年 8月26日(月)21時44分53秒   通報   返信・引用 > No.189[元記事へ]

法介さん、こんばんは、

>法華経講義-迹門の章-完成.pdf

アクセスできなかったので、内容は読んでいませんが、
私の考えを述べます。

御書の中で「析(折)空」「体空」という言葉が出てくるのは、
「曾谷入道殿御返事」で、建治三年 五十六歳の御作です。

当該部分は、
「般若経の題目を聞いては体空・但中・不但中の法門をさとり華厳経の題目を聞く人は但中・不但中のさとりあり、大日経・方等・般若経の題目を聞く人は或は折空・或は体空・或は但空或は不但空・或は但中・不但中の理をばさとれどもいまだ十界互具・百界千如・三千世間の妙覚の功徳をばきかず、その詮を説かざれば法華経より外は理即の凡夫なり、」

析空の一般的な意味は、様々な法を分析→総合、という道筋で空だと悟る事。
大聖人様は、般若経の悟りを例に挙げておられますが、私はミリンダ王の問などがたとえとしては分かり易いと思います。
体空はさらに言葉で説明するのは難しい・・・。(結論部分で述べます)

いずれにせよ大聖人様はこの御書の中で、様々な空があるがいずれも部分観であると喝破され、結論として、

「所詮妙法蓮華経の五字をば当時の人人は名と計りと思へり、さにては候はず体なり体とは心にて候、章安云く「蓋し序王は経の玄意を叙し玄意は文の心を述す」と云云、此の釈の心は妙法蓮華経と申すは文にあらず義にあらず一経の心なりと釈せられて候、されば題目をはなれて法華経の心を尋ぬる者は猨をはなれて肝をたづねし・はかなき亀なり、山林をすてて菓を大海の辺にもとめし猨猴なり」、はかなしはかなし。」

と、ご教示されておられます。

これを、私なりの言葉で語るとしたら、御本尊様の前に座って心から有難いとお題目を唱える事が出来る人は、空を体得している人と言えると思います。
末法の衆生はそれでいいのです。
(大聖人様の仏法以外の余計なものを混ぜ込まないという条件付きですが・・・。)

> 蔵教で説かれる空は「析空」で
> 通教で説かれる空は「体空」。
> というのは調べればすぐに出てくる答えですが、
> その意味するところを自分の言葉で噛み砕いて
> 語ることが出来てはじめて空を正しく理解できたといえるでしょう。

以上、私なりの考えを述べてみました。
それでは、おやすみなさい。



[189] 妙介さんへ

投稿者: 法介 投稿日:2019年 8月26日(月)08時45分25秒   通報   返信・引用

蔵教で説かれる空は「析空」で
通教で説かれる空は「体空」。
というのは調べればすぐに出てくる答えですが、
その意味するところを自分の言葉で噛み砕いて
語ることが出来てはじめて空を正しく理解できたといえるでしょう。

>よかったら、法介さんが説明してください。

説明しだすと長くなりますので
最近まとめた論説で詳しく述べていますので良かったらご覧下さい。

https://hokekyou.up-jp.com/wp-content/uploads/2019/08/法華経講義-迹門の章-完成.pdf

http://mh357.web.fc2.com/



[188] Re: 妙介さんへ

投稿者: 妙介(管理人) 投稿日:2019年 8月24日(土)19時19分7秒   通報   返信・引用 > No.187[元記事へ]

法介さん、お久しぶりです。

お元気そうで何よりです。

> 「析空」と「体空」を妙介さんはどのように説明しますか?

ずいぶん難しい質問ですね。
私など「析空」と「体空」の言葉の意味から調べなければならず、
人様に説明出来るほどの知識はありません。

よかったら、法介さんが説明してください。



[187] 妙介さんへ

投稿者: 法介 投稿日:2019年 8月24日(土)12時54分10秒   通報   返信・引用

ご無沙汰しております法介です。

「本仏・本尊論」、目を通して頂けたようで嬉しいです。

ありがとうございました。

妙介さんに一つお伺いしたいのですが、

「析空」と「体空」を妙介さんはどのように説明しますか?



[186] 皇室について

投稿者: 妙介(管理人) 投稿日:2019年 5月14日(火)23時25分24秒   通報   返信・引用

我が大昔の思想的アイドル・よしりんがまたおかしなこと言ってる。

>男系血統固執はシナ文化であり、儒教の影響に過ぎない。
>男系固執は男尊女卑であり、伝統ではなく、側室と共に続いてきた因習だ。
>男系固執派は、わけの分からんことを言ってるな。

確かにそのとうりかもしれないが、支那ではその血統が何度も崩れ国家としての継続性は失われている。
それに対し、日本は神話の時代から現在に至るまで国家としての継続性は失われていない。
その中心に皇室があることは動かせない事実である。

もはや男系継承が不可能となったのならいざ知らず、いくらでも方法のある現時点で女系を主張する小林よしのりさんのような人が本当の国賊なのだろう。





[185] (無題)

投稿者: 妙介(管理人) 投稿日:2018年10月 3日(水)23時07分51秒   通報   返信・引用

法介さんのところの掲示板に投稿しようと思ったら、投稿できなかったのでこちらに貼り付けておきます。

https://6819.teacup.com/mh357/bbs

論述、お疲れ様でした。
妙介です、お久しぶりです。

>大聖人様は、ご自身のことを
>本仏などと一言もいわれておりません。
>また、本尊にしても日蓮正宗が主張するような
>特定の本尊を指して帰依の対象となる本尊とする
>などとも決して云われておりません。

御説、ごもっともだと思います。

日蓮大聖人を御本仏と仰ぎ、板本尊をその御当体として信仰する「日蓮正宗」という宗教は、彼(日蓮)の一部の弟子たちによる創作です。
その「日蓮正宗」という宗教を成立させるために「本門戒壇の大御本尊」というものが必要なため弟子たちが造った、というのが事実に近いのではないかと考えています。
その際にパッチワーク的な手法が使われたとしても、特に何の疑問も湧きません。

その上で、私は「日蓮正宗」を信じています。

そもそも、日蓮が最も大切にした法華経自体が釈尊の直説ではなく、その弟子たちによる創作なのだから…、

なんだかなぁ、もっと大づかみにざっくりと理解する・・・、というのが、仏教を理解するための要諦だと思いますが、難しいんだろうな。




[184] 環境、そして仏法

投稿者: 妙介(管理人) 投稿日:2018年 6月24日(日)22時00分37秒   通報   返信・引用

今、テレビで「池の水を全部抜く」ってのを見てるんだけど、その番組の企画で、東京の川で絶滅危惧種(主にカジカガエル)を探そうってのをやってるんだけど、
川の水、めちゃくちゃ綺麗だね。日本には福島以外、環境問題はないね。

昔、自分がまだ「ノストラダムスの大予言」を信じていた頃、蘇生の集いの事務局の幹事の人が、仏法が失われつつある将来を憂えて「もう環境がダメなんですー、」って言ってたのを聞いて、その頃はそれなりに納得していたんだけど、いったい何だったのだろう。

大聖人様の仏法が正しく広まるという、本来の意味での広宣流布はいつか持ち直すのだろうか。




[183] 「立憲的改憲案」

投稿者: 妙介(管理人) 投稿日:2018年 4月21日(土)20時11分0秒   通報   返信・引用

よしりんのブログより

>「立憲的改憲案」は自衛隊法に書いてあることを

>憲法典の中に書くものではない。

>自衛隊ではなく、「自衛権」を明記して、これに

>制限を加え、米国の侵略戦争に追従しなくていい

>国にしようというアイデアだ。


素晴らしいなあ。
安倍首相の「2項温存・自衛隊明記案」は、決して安倍さんの本音ではないだろうし、
立憲民主党が、つまらない問題ばかりに金切り声を上げずに、
憲法問題で、真正面から議論してくれたら、いい改憲ができそうなんだけど。

公明党の加憲というスタンスが足を引っ張っているのか…、いや違うか。

やっぱり、維新を除く野党6党の皆さんが、ダメなんだろうな。








[182] トホホ

投稿者: 妙介(管理人) 投稿日:2018年 4月18日(水)22時35分28秒   通報   返信・引用

久しぶりに投稿して、その後でてきたのが財務事務次官のセクハラ報道と辞任…
私の信力と行力が、いかにトホホなものか証明された…

正・像・末と、衆生の機根は劣化していくものだと説かれているけど、確かにそうだと思う。



[181] 憲法改正

投稿者: 妙介(管理人) 投稿日:2018年 4月15日(日)22時07分20秒   通報   返信・引用

私のかつての思想的アイドル「よしりん」こと、小林よしのり氏。
最近は立憲民主党に御執心のようだが、現時点で、自民党の憲法改正のカウンターパートとなり得るのは、立憲民主党だろうから、
その立憲民主党に立憲的改憲を説くというのは、やっぱり、よしりんは国士ということか。

国会で実りある議論が行われる事を祈って、題目を唱えよう。

http://takedanet.com/archives/1064256107.html



[180] 『万葉集』より

投稿者: 愚人 投稿日:2017年 3月20日(月)09時58分52秒   通報   返信・引用

 香久山は 畝傍ををしと 耳成と 相争ひき狂った神代より かくにあるらし 古も 然にあれこそ うつせみも 妻を争ふらしき 



[179] 気候変動

投稿者: 管理人 投稿日:2017年 3月17日(金)06時44分25秒   通報   返信・引用

地球温暖化に代表されるような気候変動から身を守るための手段がCO2削減という結論になることがアホすぎるのです。
気候変動に対応できるようインフラを整備するとか移住するとかが対策のはずです。
日本は経済活動を活発化させても環境を汚さない技術をすでに手に入れています。
CO2は毒ガスではありません。
効率のよい火力発電でバンバン発電して経済を活性化させればみんなが幸せになれると思う。
CO2がたくさん出て農作物も良く育ちみんなハッピーなはずです。
まぁ、環境絡みの怪しい補助金で潤っている人はちょっと苦しいかもしれませんが、自業自得でしょう。



[177] 訂正

投稿者: 妙介(管理人) 投稿日:2017年 3月12日(日)19時29分11秒   通報   返信・引用

>人類のできる唯一のリサイクルは地中にうもれてしまったCO2を大気中に戻すことです。

訂正>人類のできる唯一のリサイクルは地中にうもれてしまったCを大気中に戻すことです。
?

http://takedanet.com/archives/1064256107.html



[176] 愚人さんへ

投稿者: 妙介(管理人) 投稿日:2017年 3月12日(日)19時12分53秒   通報   返信・引用

>どうでしょうか?。先ずは「成長戦略/経済優先の政策」を見直すことが大事だと愚人は思う。

愚人さんが何を以て「成長戦略/経済優先の政策」とされているにかよくわからないので何とも言えませんが、
昔(1970年代高度成長期)、油で汚染され七色に鈍く輝いていた私の地元の川は、今ではすっかり綺麗になって、
かつての魚たちも戻ってきています。

日本での現在進行形の公害はおそらく「花粉症」だと思いますが、対策としてはスギやヒノキを切ることです。
・・・、なんでスギを伐採しないんだろう?

かつて地球の大気の95%はCO2でした。
長い長い年月を経て、そのほとんどが地中に埋もれてしまっています。
現在では0.04%になっています。

人類のできる唯一のリサイクルは地中にうもれてしまったCO2を大気中に戻すことです。

いわゆるリベラル左派という人たちは、なんだか人として基本的なところで「頭悪い」という気がします。



http://takedanet.com/archives/1064256107.html



[175] 依正不二

投稿者: 愚人 投稿日:2017年 3月12日(日)08時06分4秒   通報   返信・引用

  夫十方は依報なり、衆生は正報なり。依報は影のごとし、正報は体のごとし。身なくば影なし、正報なくば依報なし。又正報をば依報をもて此をつくる。眼根をば東方をもってこれをつくる。舌は南方、鼻は西方、耳は北方、身は四方、心は中央等、これをもってしんぬべし。かるがゆへに衆生の五根やぶれんとせば、四方中央をどろうべし。されば国土やぶれんとするしるしには、まづ山くづれ、草木かれ、江河つくるしるしあり。人の眼耳等驚そうすれば天変あり。人の心をうごかせば地動す。 『瑞相御書』


 この文は人と環境/自然との不二を説いた文であるが、依報である環境/自然は影であり、正報である人は体であると而ニも示している。そして、古代中国思想の五行説に基づいて自然と人との相関/自然と人との合一を説く。

 この依正不二/天(自然)人合一という思想は、地球温暖化の問題もあって非常に重味を増しているように愚人は感じる。

 今日までの人の繁栄は、自然破壊/自然の犠牲の上に成り立っている。そして今日の日本国について言えば、安部晋三氏を首班とする内閣/行政府と自民党・公明党の連立与党が圧倒的多数を占める国会/立法府は、成長戦略の名のもとに経済優先の政策を推進している。

 この経済優先の政策とは、つまり人の貪煩悩を奮い立たせる政策である。(公明党は仏教徒を中心とした集りであったと記憶しているが、貪煩悩を奮い立たせる政策を遂行して良いのか?)人の貪煩悩/物欲を満足させる為に、自然を破壊し、自然との不調和をさらに進めて行こうというのである。

 はてさて、その先にあるものは何か。日蓮聖人の、

 眼根をば東方をもってこれをつくる。舌は南方、鼻は西方、耳は北方、身は四方、心は中央等、これをもってしんぬべし。かるがゆへに衆生の五根やぶれんとせば、四方中央をどろうべし。されば国土やぶれんとするしるしには、まづ山くづれ、草木かれ、江河つくるしるしあり。人の眼耳等驚そうすれば天変あり。人の心をうごかせば地動す。

との自然と人との相関/自然と人との合一説に明らかなように更なる天変地異である。(しかしながら日蓮聖人によれば天変地異は、法華経流布の瑞相であると述べている)

 仏教は「彼あれば此れあり、此れあれば彼あり」との縁起を説いていますが、人と自然とは相関関係にああります。主体である人の心が荒廃すれば、自然が荒廃します。自然が荒廃すれば、更に人の心が荒廃します。人の心が更に荒廃すれば、自然が更に荒廃します。

 人の心が澄めば、自然が澄みます。自然が澄めば、人の心が更に澄みます。人の心が澄めば更に自然が澄みます。

 どうでしょうか?。先ずは「成長戦略/経済優先の政策」を見直すことが大事だと愚人は思う。



[174] 天罰論

投稿者: 愚人 投稿日:2017年 3月12日(日)08時04分55秒   通報   返信・引用

  ★注意★ 災害を「天罰」とすることに嫌なおもいをなさる方や不快感を感じる方は読まないで下さい。

 なお殆ど他人の「論」の紹介です。


 最近、新潮新書刊 末木文美士著 『現代仏教論』を読んだ。この本の第一章『震災から仏教を考える』で氏は、震災を「天罰」との観点から述べている。この中で末木氏は、

 「仏教では縁起ということを言います。もし地震は自然現象で人間は関係ない、というのであれば、人間と自然とは無関係で、縁起的な関係がない、ということになります。でも、それは仏教的に考えてもおかしいと思います。人間も自然も相互に切り離せない関係の中に入っている。それが縁起ということではないでしょうか。」【同書23頁】

と延べ、

 「自然を人間と無関係だとして、自然への関心を失わせ、自然を疎外することになってしまいます。自然と対話しながら、自然に対してどのように対応したらよいのか、自然と一緒に考えていく姿勢が必要ではないでしょうか。」【同書23頁】

と述べている。此処で氏は、「人間と自然との相関関係」、日蓮聖人の遺文から言えば「依正不二」を延べていると愚人は読み解く。「天罰」について氏は、

 「僕は決して厳格な理論としての「天罰論」の立場に立つわけではないが、それでも、そのような人知を超えた何か、僕の用語でいう「冥」の領域を無視して、人間至上主義の傲慢に陥るよりは、「天罰」という言い方でも、「冥」の世界への畏れを持つ方に共感する。」【同書30・31頁】

 と延べている。氏は、東日本大震災発生時に「天罰論」を延べ論争を巻き起こしたそうだ。愚人も、人間至上主義を改める上から「冥」に対する畏れを持つことは必要であると思う。

 大正時代に発生した「関東大震災」の時に「天罰論」を述べた人がいる。実業家の渋沢栄一である。氏の「天罰論」を半沢健一氏の論文、『関東大震災とリスボン大地震―天譴論・内村鑑三・ヴォルテール』から紹介する。


関東大震災における言説で興味を惹かれるのは「天譴論」である。それは実業家渋沢栄一に発する。渋沢の天譴論から二つを次に掲げる(現代かな遣いに修正)。

 「日本は明治維新から僅々数十年を出ずして世界列強の班に入った。この長足の進歩は世界の均しく驚嘆するところである。と同時に我が国民の自ら顧みて衷心聊か自負する処が尠なくなかったと思う。私は近頃我が国民の態度が余り泰平に狎れ過ぎはしないかと思う。順調に進み平穏に終始すれば、勢い精神の弛緩するのは已むを得ない処かも知れないが、我が国民が大戦以来所謂お調子づいて鼓腹撃壌に陥りはしなかったか、これは私の偏見であれば幸いであるが兎に角、今回の大震災は到底人為的なものではなく、何か神業のように考えられてならない。即ち天譴というような自責の悔を感じない訳には行かない。」

 渋沢は忘れっぽい日本人に対して震災の一年後にこう書いている。

 「私は此震災を迷信的に解釈して、今時の国民は少し浮かれ過ぎるから天が斯様な罰を与えたもので、謂わば天譴ではないかとも考える。/要するに新春を迎えると共に、自然の空気、一般の気合が緊張して欲しいものである。己を中心として、人の揚足取りのみを得意とする様では、夫の恐ろしい天譴を余り早く忘れ過ぎたと見ねばなるまい。吾々国民は厚始)一新する事が必要である。」

 天譴とは何か。渋沢は天譴を日常語の「天罰」と同意に使っているが、語源を辿れば中国前漢時代の儒学者董 仲 舒に発するという。「天人相関説」の別称もある。その意味は、君主の政治的失敗に対して「天」が地上に警告、譴責を行い統治への反省を促すということである。日本では君主は天皇であるが,渋沢は注意深く天皇への譴責ではなく国民全体への譴責であると読みかえている。

 つまり震災は「天罰」であり「天譴」であるとの事である。この時の渋沢栄一の警告も空しく、伊勢湾台風・阪神淡路大震災・東日本大震災が起き、最近では熊本大地震が発生している。人間は自然/天に対する畏れを抱くべきであると愚人は思う。心を澄ませて自然/天からの声を聞くべきだと愚人は思う。

  日蓮聖人も「天人相関説」のうえから「災異」が起こるとしているが、文応元年の『立正安国論』の提出時にはまだ「天罰」の言葉は見えない。


 五戒破るれば此国土次第に衰へ、又重て五戒を持たずして此身の上に悪業を作れば、五戒の戒体破失して三途に入るべし。是凡夫の戒体也。『戒体即身成仏義』

 答えて曰く、仏法いまだ漢土に渡らざる前は、黄帝等五常を以て国を治む。その五常は、仏法渡りて後にこれを見れば、すなわち五戒なり。老子・孔子等もまた仏遠く未来を鑑み、国土に和し、仏法を信ぜしめんがために遣すところの三聖なり。夏の桀・殷の紂・周の幽等の、五常を破つて国を亡すは、すなわち五戒を破るに当るなり。また人身を受けて国主と成るは必ず五戒・十善に依る。外典は浅近の故に過去の修因・未来の得果を論ぜずといえども、五戒・十善を持ちて国王と成る。故に人五常を破ることあれば、上天変頻に顕れ、下地夭間侵すものなり。『災難興起由来』

 答えて曰く、彼の時もまた災難あり。云く、五常を破り、仏法を失いし者これあるが故なり。いわゆる周の宇文・元嵩等これなり。難じて曰く、今の世の災難も五常を破りしが故にこれ起るといわば、何ぞ必ずしも選択集流布の失に依らんや。答えて曰く、仏法已前に五常をもつて国を治むるは、遠く仏誓をもつて国を治むるなり。礼儀を破るは仏の出したまえる五戒を破るなり。『災難対治抄』


 これ等の文は、五戒(五常)を破戒すると戒体も破して天地人の陰陽五行説に基づく天人相関性が崩れて国土や人に災難が起こるという文である。『立正安国論』になると単なる「天人相関説」


 慈覚大師の入唐巡礼記を案ずるに云く、「唐の武宗皇帝の会昌元年、勅して章敬寺の鏡霜法師をして、諸寺において弥陀念仏の教を伝えしむ。寺毎に三日巡輪すること絶えず。同二年回鶻国の軍兵等、唐の堺を侵す。同三年、河北の節度使忽ち乱を起す。その後、大蕃国また命を拒み、回鶻国重ねて地を奪う。およそ兵乱は秦項の代に同じく、災火は邑里の際に起る。いかにいわんや、武宗大に仏法を破し、多く寺塔を滅す。乱を揆むること能わずして、遂にもつて事あり」と已上取意。」


 しかし、『立正安国論』提出から九年後の『立正安国論副状』においては、

 正嘉元年 太歳丁巳 八月二十三日戍亥の尅の大地震、日蓮諸経を引いてこれを勘うるに、念仏宗と禅宗等とに御帰依あるの故に、日本国中の守護の諸大善神、恚に依つて起す所の災なり。もし御対治なくんば、他国のために此の国を破らるべき悪瑞の由、勘文一通これを撰し、立正安国論と号し、正元二年 太歳庚申 七月十六日、宿屋入道に付して故最明寺入道殿にこれを進覧せしむ。


として、正嘉大地震を「天罰」としている。ここで、天災地変を「天罰」と観る日蓮聖人の遺文を数文示してみよう。


 国王と申す事は、先生に万人にすぐれて大戒を持ち、天地及び諸神ゆるし給ひぬ。其の大戒の功徳をもちて、其の住むべき国土を定む。二人三人等を王とせず。地王・天王・海王・山王等 悉 く来たってこの人をまぼる。いかにいはんや其の国中の諸民、其の大王を背くべしや。此の王はたとい悪逆を犯すとも、一二三度等には左右無く此の大王を罰せず。但諸天等の御心に叶はざる者は、一往は天変地夭等をもちてこれをいさむ。事過分すれば諸天善神等其の国土を捨離し給ふ。若しは此の大王の戒力つき、期来たりて国土のほろぶる事もあり、又逆罪多にかさなれば隣国に破らるゝ事もあり。善悪に付けて国は必ず王に随ふものなるべし。
世間此くの如し、仏法も又然なり。仏陀すでに仏法を王法に付し給ふ。しかればたとい聖人・賢人なる智者なれども、王にしたがはざれば仏法流布せず。或は後には流布すれども始めには必ず大難来たる。『四条金吾殿御返事』

 正嘉の大地震等の事は、去ぬる文応元年太歳庚申七月十六日宿屋の入道に付けて、故最明寺入道殿へ奉る所の勘文立正安国論には、法然が選択に付いて日本国の仏法を失ふ故に、天地瞋りをなし、自界叛 逆 難と他国侵逼難起こるべしと 勘 へたり。『呵責謗法滅罪抄』

 所謂正嘉の大地震文永の長星は誰が故ぞ。日蓮は一閻浮提第一の聖人なり。上一人より下万民に至るまで之を軽毀して刀杖を加へ流罪に処するが故に、梵と釈と日月四天と隣国に仰せ付けて之逼責するなり。大集経に云はく、仁王経に云はく、涅槃経に云はく、法華経に云はく。設ひ万祈を作すとも日蓮を用ひざれば必ず此の国今の壱岐・対馬の如くならん。『聖人知三世事』

 而るに今の世は法華経を軽蔑するこ
と土の如く民の如し。真言の僻人等を 重崇して国師と為ること金の如く王の如し。之に依って増上慢の者国中に充満す。青天瞋りを為し黄地夭孼を致す。 涓聚まりて墉塹を破るが如く、民の愁ひ積りて国を亡す等是なり。『太田殿許御書』

 末法の始めに謗法の法師一閻浮提に充満して、諸天いかりをなし、彗星は一天にわたらせ、大地は大波のごとくをどらむ。大旱魃・大火・大水・大風・大疫病・大飢饉・大 兵乱等の無量の大災難並びをこり、『新尼御前御返事』


 これ等の遺文を読むと、日蓮聖人は「天罰」の由縁を国主等の叛仏・叛法・叛僧としていることが解る。しかしながら、 叛仏・叛法・叛僧を「叛自然」と読み替えれば、天災地変は、人間の「自然破壊/自然との不調和」に対する天罰/天譴であると読む解くことが出来ると思う。

 これ以上、「自然破壊/自然との不調和」を人間が犯し続けたならば、


 但諸天等の御心に叶はざる者は、一往は天変地夭等をもちてこれをいさむ。事過分すれば諸天善神等其の国土を捨離し給ふ。若しは此の大王の戒力つき、期来たりて国土のほろぶる事もあり、又逆罪多にかさなれば隣国に破らるゝ事もあり。


との『四条金吾殿御返事』の文の如く、もっと大きな「天罰」によって、国土(人)が滅びることに成るかもしれない。日蓮聖人は云う、


 汝早く信仰の寸心を改めて速やかに実乗の一善に帰せよ。

と。もうこれ以上の自然破壊を改めて、速やかに自然との対話を進めれば、


 然れば即ち三界は皆仏国なり。仏国其れ衰へんや。十方は悉く宝土なり、宝土何ぞ壊れんや。国に衰微なく土に破壊無くんば身は是安全にして、心は是禅定ならん。


とあるように、自然と人が調和した国土となり身心もまた法楽の姿となるのだ。


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