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遠江国久野郷

 投稿者:管理者  投稿日:2011年 4月24日(日)13時58分7秒
  今回はHPのトピックスの「発祥地の考察」において、遠江国久野郷を見直しました。  

美濃源氏フォーラム名古屋駅前講座のご案内

 投稿者:管理者  投稿日:2011年 4月16日(土)08時11分5秒
  平成23年度分を「美濃源氏フォーラム関連」のページに掲載しました。
皆様奮ってご参加ください。
 

Re:尾張国 牛毛荒井村久野氏

 投稿者:管理者  投稿日:2011年 2月 9日(水)20時55分8秒
  久野氏後裔さん
いつも貴重な情報をありがとうございます。
成海神社の神主であった久野家から久兵衛保起が寛文12年(1672)に南野に引越した
そうですので、元鳴尾と南野が近い距離にあることからも保起の後裔が氏子札の久兵衛だと推察されます。
それではぜひデータの提供をお願い致します。
 

尾張国 牛毛荒井村久野氏

 投稿者:久野氏後裔  投稿日:2011年 2月 7日(月)03時45分27秒
編集済
  管理者様

先日はご丁寧なお答えを頂き、誠に有難うございました。
管理者様のご指摘で、おそらくは間違いないと私も考えます。

さて先日、近所にて開かれていた骨董市の露店にて、明治壬申
年(明治5年)に作製された「氏子札」(簡単に言えば、当時の
身分証明証のようなもの)を買い求めました。

この氏子札には、

(表)尾張国愛知郡牛毛荒井村 若宮八幡神社氏子
   同村父久野久兵衛亡 久野久兵衛
   天保十一年庚子十月十五日生

(裏)明治五年壬申九月一日 祠官 村瀬喬臣

との記述があり、同時に同人の母の氏子札も
買い求めました。

この尾張国愛知郡牛毛荒井村は、現在の名古
屋市南区の元鳴尾一帯であると推測され、
鳴海とも距離的にはそう遠くありません。

管理者様はこの久野氏についてなにかご存知
なことはございますでしょうか。
宜しければご教授下さい。

追伸、もしこの氏子札の画像等がご入用なら
メールにて送付させて頂きます。
また、このほかに同久野氏関連の文書等は
見当たりませんでしたが、もし出ていたと
するとちょっと惜しい気もしますね。
 

Re:はじめまして

 投稿者:管理者  投稿日:2011年 1月23日(日)09時48分59秒
  大府の久野さん

ようこそおいでいただきました。
兼子さんがお邪魔した時の車のドライバーが私でした。
さて生前、久野さんの祖父さんが「先祖は墓守だったのではないか。」と言われていま
して、榊原清久が久能山城を守っていたころに楼門下から一の御門までの参道両脇に古
坊4院(三明院・定智院・法性院・大寿院)があったそうですので、貴家のご先祖様は
この坊の僧侶で、秦久能のお墓をお守りしていたのかもしれませんね。
今後調査を進められ、情報発信されることを期待しております。
 

はじめまして

 投稿者:大府の久野  投稿日:2011年 1月16日(日)20時31分14秒
編集済
  いつもHP拝見させてもらっています。
自分のルーツについていろいろと知ることができて非常に勉強になります。

先日家に「久野城物語り」の著者の兼子さんが来られました。
久野家についていろいろと研究されて各地を回っているようでした。
突然のことで非常に驚きましたがこれを機会に自分でも久野家の事を調べてみようと思います。

今後自分で分かったことがあれば情報を交換していきたいと思いますのでよろしくお願いします。
 

Re:久野孝知の生国

 投稿者:管理者  投稿日:2011年 1月15日(土)22時02分21秒
  久野氏後裔さん
いつも貴重な情報をありがとうございます。

本国=生国の意味を考慮するならば、孝順は近江から旗本家に養子に入った可能性が考えられます。
彦根藩には久野氏がいたようであり、この系統かもしれません。

また正六郎と吉太郎の本国が遠江についてですが、遠江出身者を先祖に持つ正六郎が養子として
旗本家に入り、子の吉太郎も親が称する本国・遠江と家紋をそのまま採用したとも考えられます
が、いかがでしょうか。

なお笠間久野氏の一部が使っていた「抱き茗荷」の紋ですが、駿河出身では本HPの「尾張・知多郡
大野村久野家」が家紋として使っています。
 

久野孝知の生国

 投稿者:久野氏後裔  投稿日:2011年 1月11日(火)23時36分18秒
編集済
  管理者様

いつもお世話になっております。
本年もご指導ご鞭撻の程お願い申し上げます。

さて、昨年末の管理者様の書き込みで、平氏支流の久野氏
(久野孝知)と笠間や水戸などの常陸国に土着した久野氏
は同族なのではないか、というご指摘がありましたが、現
時点では、これらの一流は駿河久野氏の末で、私もその蓋
然性が高いと考えています。

ただ、ここでひとつの疑問があります。

『寛政譜』で平氏支流の久野氏の家紋が「丸に六柏」「瓜
の内巴」となっており、『寛政譜』に続く系譜(旗本人名
事典所収)には、寛政譜の最後に登場した久野福之助孝順
の本国が近江、その子正六郎、孫の吉太郎の本国は共に遠
江との記述があります。

久野孝知が平氏支流であるならば、九曜紋を使うのは別に
珍しいことではないのですが、上記の記述よりの主に遠州
久野氏の使う定紋を何故この久野孝知の一流が使用してお
り、また、本国と称している場所が代毎に異なっているの
か、気になるところではあります。

この点を管理者様はどの様にお考えになりますか?
単純な疑問で恐縮ですが、ご高説を賜りたく存じま
す。

ところで余談ですが、先便にてお知らせ致しました
笠間久野氏の使用する家紋の中に、幕紋を「抱き茗
荷」としていた一流がありますが、駿河久野氏にも
この紋を使用する一流はあるのでしょうか。

以上長文にて恐縮ですが、ご検討を宜しくお願い
申し上げます。
 

Re:始めまして

 投稿者:管理者  投稿日:2011年 1月 8日(土)21時22分45秒
  久野氏さん
ようこそおいでいただきました。

「くの」さんでよろしかったでしょうか?
岡山から移住して毛利家臣になったという貴重な伝承を披露していただき 誠にありがとうございます。
備前から東西に分かれたことは十分に考えられますので、播磨の「ひさの」 氏と同族の可能性が大ですね。

備前に来る前は伯耆に居たと思われ、鳥取市気高町や青谷町の久野氏も同族 ではないかと推測している訳ですが、
さらなる情報を期待しているところです。

よろしければ家紋や初代のお名前も教えていただけると助かります。
 

始めまして。

 投稿者:久野氏  投稿日:2011年 1月 6日(木)18時08分24秒
編集済
  私は久野姓ですが先祖は今の岡山にいたと祖父から聞きました
戦国時代に毛利家に臣従して江戸時代は長州萩にいました
播州久野氏と関係あるのでしょうか?
 

笠間と水戸の久野氏は同族?

 投稿者:管理者  投稿日:2010年12月 9日(木)20時55分28秒
 

久野氏後裔さんから笠間の久野隼人の長男・長左衛門の定紋が「九ヨウ」であるとの情報をいただきました。

そして、『寛政譜』の平氏支流・久野孝知が笠間の出身であるとしますと、2003年の旧掲示板での神戸くのさん
の書き込みでは、先祖は常陸の江戸氏の家臣で、家紋は「九曜」、平家の流れとありますので、笠間と水戸の
久野氏は同族のように思われますが、さてどうでしょうか。

 

宮大工の久野氏

 投稿者:管理者  投稿日:2010年10月17日(日)09時47分2秒
  ネットで検索していましたら、「常陸の宮大工・桜井瀬兵衛一門の作事」という
タイトルに、江戸崎町の高田神社の破魔矢に1733(享保18年)常陸州茨城郡中郡庄
羽黒小塙村 桜井瀬兵衛政信,仕手 久野甚兵衛らの名前が出てくるそうです。
 

刑部左衛門のことなど

 投稿者:管理者  投稿日:2010年10月13日(水)20時33分39秒
  久野氏後裔さん
久野累代さん

各種の情報を頂きありがとうございます。
以下、私の中途の検討結果です。
本HPの「小浜藩久野家の先祖」の項の、
・文化4年の系図で・・・宗国 久野左太夫 生国下野壬生
・文化5年の系図で・・・宗国 刑部左衛門 初壬生ト号ス
とあり、刑部左衛門宗国は久野宗秀(宗朝)の子で、その後裔は宇都宮や益子に
住んだと考えるのが妥当かもしれません。

また、笠間の久野氏は上記の久野家と姻戚関係はあったかもしれないが別流で、
旗本になった人物とは『寛政譜』の平氏支流・久野孝知(孫兵衛、又右衛門
寛永10年に召出)のことかもしれません。
 

Re:刑部左衛門について

 投稿者:管理者  投稿日:2010年 9月20日(月)09時54分6秒
  久野氏後裔さん

メールに書きましたが、多分『久野・久能一族の系譜 』は出版社から久野姓の
方にダイレクトメールが送られ、希望者が購入したものと推察されます。
なお、この本は古書店にも出回っていないようですね。
ところで、「清和源氏今川義元公子孫久野隼人」の記述も興味深いですね。
遠江と駿河の両方を繋ぐ人物には「遠江久野系図」の久能半内宗衡(養子として
遠江から駿河へ移った人物)がいます。この息子が桶狭間の合戦で討死した久能
(久野)半内氏忠だと推測される訳ですが、この人物は義元の甥だと言われてい
ますので、このことからも、笠間の久野氏では今川義元公子孫なる記述もなされ
たのではないかと思います。今川系図もはっきりとはしませんが、今川義元が家
臣の娘を妹として嫁がせた例もあると聞いていますので、この例が久野氏にも該
当するのかもしれません。
笠間久野氏には遠江と駿河の両方に関連した記述があることが気になっていると
ころです。
 

刑部左衛門について

 投稿者:久野氏後裔  投稿日:2010年 9月13日(月)03時15分13秒
  管理者様、久野累代様

いつもお世話になっております。

笠間出身の久野宗清について、その後の調査をご報告いたします。

まず、笠間に先住したと思われる久野又右衛門宗清についてですが、
松本市立図書館所蔵『松本史料叢書』に所収の「松本藩譜」(明治初年の
旧松本藩士の名簿)のなかに、久野又太夫なる人物が記載されており、
総州古河にて召抱えとの記載があります。

「久野・久能一族の系譜」には初代久野宗清から続く、戸田(松平)家家臣の系図が
所収されており、久野又太夫は、この後裔と思われます。

この戸田家家臣の久野氏については、笠間に土着した久野半右衛門(笠間焼の祖)家
所伝の古文書に、久野三太夫(浜松藩井上家家臣)との書簡があり、その中で、笠間に
土着した久野某(笠間領主笠間氏家老)には4人の子があり、「一人は総州家へ仕え、
一人は久野三太夫、一人は旗本に、一人は知らず」と述べられています。このことからも
下総古河で足軽になった久野某の子(宗清か)は戸田氏の家臣であるとの傍証が得られます。

久野三太夫なる人物については、判然としないところがありますが、「井上藩分限帳集成(井上河内守家中名簿) 」という本の中に、明治期に久野姓を名乗る人物がいますので、その
祖先だったのでしょう。

ただ、久野宗清から続く一族について、宇都宮氏の家臣であったかどうかは、家伝以外
の傍証が得られておりません。

後代にまとめられた『宇都宮弥三郎家臣名簿』(文政3年写本、「下野史料第40号」所収)には久野甚兵衛(笠間箱田村住)久野瀬兵衛(久野半右衛門末裔、同箱田村住)の記載があり、久野瀬兵衛の肩書きには、「清和源氏今川義元公子孫久野隼人」との記述があります。

宇都宮氏との関わりについては明確なものはこれのみで、傍証が他にありませんので、今後の調査次第でしょう。

現在調査継続中のものでは、宇都宮市立図書館所蔵の「宇都宮氏家臣名簿」の中に、「久能刑部左衛門」と読める記述(史料自体が紙焼で不鮮明なため、要原本調査)があり、笠間の久野氏との関わりが今後の課題です。

以上が現在までの久野氏に関する調査の概要です。

久野累代様の家伝には、他に久野宗清に関して何か伝わっていることはありませんでしょうか?

また、管理人様にお尋ね致したいのですが、「久野・久能一族の系譜 」をどこで
入手されたのでしょうか?
当方、同書を探しているのですが、なかなか発見できないもので。

宜しければご教示下さい。
 

Re:刑部左衛門について

 投稿者:管理者  投稿日:2010年 9月 5日(日)07時50分29秒
  久野累代さん
ようこそおいでいただきました。

以前、久野後裔さんとのメールのやり取りで、刑部左衛門宗清の生年や没した
場所から考えて、そちらは遠州の久野采女の末裔ではないであろうとの結論に
なりました。
可能性としましては、笠間の系図に長左衛門宗治の名が見えますので、采女の
叔父の佐渡宗治の系統だったのかもしれません。
また今後の課題としましては、笠間に先住したと思われる駿河出身の久野又右
衛門宗清と遠州出身と思われる宇都宮家に仕えた刑部左衛門宗清との関係がど
うなのかです。
皆様の今後の調査に期待したいと思います。
 

刑部左衛門について

 投稿者:久野累代  投稿日:2010年 9月 2日(木)22時23分22秒
  初めまして、よろしくお願いします。久野刑部左衛門については宇都宮家に仕え永拾七貫百文の地を領し駒生に住すとあり家紋は丸に釘抜き、改易により下ると家伝があります。  

補足・黒田藩久野氏

 投稿者:管理者  投稿日:2010年 8月29日(日)09時06分1秒
  下記『久野文書』の系図には久野藤次郎(尾張大野久野家に見える名前)や久野
熊蔵(尾張加木屋久野家に見える名前)も出てきますので、改めてこの系統は駿
河久野家の流れをくむのではないかと思っています。
 

続々・黒田藩久野氏

 投稿者:管理者  投稿日:2010年 8月11日(水)21時37分10秒
  福岡県立図書館に所蔵の『久野文書』の系図では、久野重敬は揖東郡河内庄河内
村梶山金(釣)瓶城にて没し久野村に葬ったと書かれていますが、この河内村梶
山とは兵庫県たつの市揖保川町の梶山城があった場所であり、肥塚氏の居城です
が、金釣瓶(かなつるべ)城は兵庫県小野市にあった城ですから、記述に混乱が
みられます。
以前掲示板で話題にしていました西讃府志の鍛冶山城とはこの梶山城のことのよ
うです。
久野重敬が備前から播磨にやってきたと推測しますと、備前からあまり遠くない
梶山城に重敬が居たとするのが妥当かもしれません。
 

Re:刑部左衛門について

 投稿者:管理者  投稿日:2010年 5月 3日(月)10時10分42秒
  久野氏後裔さん
ようこそおいでいただきました。

久野采女が刑部左衛門を名乗っていたかは不明です。
ただ、本HPの「小浜藩久野家の先祖」の項の系図では刑部左衛門を称する人物も
いますので、同じ遠州久野一族の采女が遠州を離れてから刑部左衛門を名乗って
いた可能性はあると思います。

また、采女が下野国に下り、他氏に仕えたという伝承も不明です。
紀州藩家老久野家文書によれば、采女終焉の地は紀州だそうですが、それ以前の
行動は不明です。

ところで、笠間焼の祖・久野半右衛門の祖先は駿河国今川氏の家臣であったが、
のちに下野国宇都宮氏に仕え、主家没後は箱田村に土着したといわれていますの
で、貴家と同族なのでしょうか?

今後の調査のために、采女の子の名前や没年をご紹介いただけるとありがたいで
すが、掲示板への投稿はちょっと、ということであれば、掲示板の末尾に「管理
者へメール」のボタンがありますので、そちらからお願い致します。
 

刑部左衛門について

 投稿者:久野氏後裔  投稿日:2010年 5月 2日(日)04時03分48秒
  管理人様
いつも参考にさせて頂いております。
当家の家系は久野家につながり、出身は常陸国です。(現在でも、同地に久野家は現存しています)
同久野家所蔵の江戸期の系図によれば、
半内氏忠-宗忠-宗能と続き、宗能の兄弟に佐渡守、弾正、采女、本間十左衛門(ママ)等がいます。
当家はこの采女から続く家系ですが、初代采女の注に「刑部左衛門」と書かれており、どうも判然としません。
そこでご教示頂きたいのですが、この采女なる人物が永禄騒動で武田側に走った「采女」だとして、同人が「刑部左衛門」を名乗っていたことはあるのでしょうか?
また、この人物は下野国に下り、他氏に仕えたという伝承は残っているのでしょうか?
宜しければご教示下さい。
 

久野重勝が住んでいた城とは?

 投稿者:管理者  投稿日:2010年 4月30日(金)17時31分1秒
  『黒田系譜並諸士伝』によれば、久野重勝は播州東條郡桔槹(きっこう?)城に
住んでいたと書かれていますが、現在のどこら辺にあった城でしょうか?
 

続・原氏一族寺田氏

 投稿者:管理者  投稿日:2010年 3月23日(火)21時51分18秒
  岸和田藩家老久野家文書の系図などによれば、宗清は原殿と呼ばれたそうなの
で、原氏の養子となって原頼景を称したのではないでしょうか。
また原氏後裔の原義一氏が書いた『原氏家譜私考』では、原頼景が当主の座を弟
の景泰(原氏の嫡流か?)に譲り、景泰の子の頼泰が寺田氏を称したとしていま
す。
つまり、久野氏と寺田氏は親戚関係にあり、寺田頼泰の後裔の中には久野氏の家
臣になった者もいたのではないかと推測しているところです。
 

美濃源氏フォーラムです

 投稿者:澤源メール  投稿日:2010年 3月21日(日)14時22分14秒
  このたびは、このホームページのオオシマ様にもご尽力頂きまして「美濃源氏フォーラム名古屋駅前講座」を開講する運びとなりました。

瑞浪市本部にて20周年を迎えますが、初めてフォーラム開催以後年間6回の歴史講座を中心にして緒事業を進めて参りました。

又、岐阜市長良講座や揖斐大野町講座に東濃土岐市講座なども平行して開催します。

皆様、平成22年度のホームページ変更更新が送れておりますが、何卒宜しくお願い申し上げます。
 

美濃源氏フォーラム関連のページ

 投稿者:管理者  投稿日:2010年 3月19日(金)23時12分21秒
  今回は「美濃源氏フォーラム関連」のページを追加しました。
フォーラムのHPの改訂がされていないようですので、関連情報を掲載しました。
 

美濃源氏フォーラム名古屋駅前講座開催のご案内

 投稿者:管理者  投稿日:2010年 2月28日(日)21時35分58秒
  本年5月8日から年5回の予定で法政大学講師の谷口研語氏による『南北朝太平
記』の講義が開催されます。
また地元の講師の方々による尾張美濃の歴史の講義も予定されていますので、皆
様奮ってご参加ください。
開催場所は愛知県産業労働センターで、年会費と受講料が必要です。
詳細は後日、下記の美濃源氏フォーラムのHPに掲載されます。
http://www14.ocn.ne.jp/~bureyko/index.html
 

Re:久野の旧姓

 投稿者:管理者  投稿日:2010年 2月28日(日)20時54分30秒
編集済
  宮大工さん
ようこそおいでいただきました。
私は宮大工についての情報を持ち合わせておりませんが、鎮西探題引付衆の久能
(久野)左近将監頼貞が神事奉行であったとか、本国が駿河の久野次郎太屋仲が
尾張の成海神社神主であったことからも、久野氏は神社と縁の深い一族のようで
すので、一族の中には宮大工の方がみえても不思議ではないような気がします。
一度、関係する市史の資料編などに掲載されている棟札を調査され、そこに記載
されている大工の名前が手掛かりになる可能性はないでしょうか。
 

久野の旧姓

 投稿者:宮大工  投稿日:2010年 2月26日(金)23時04分23秒
  こんばんは
曾祖母が久野家の宮大工のお嬢様だったと聞いてご先祖が気になって調べていたところこちらにたどり着きました

久野家は宮大工だったのでしょうか??

曾祖母の家は宮大工の大金持ちだったらしく、そこで働いていた大工だった曾祖父と駆け落ちしたらしいです(^O^;)


そこまでは分かりませんよね??^▽^汗汗
 

Re:神戸の久野益蔵

 投稿者:管理者  投稿日:2010年 2月 8日(月)21時25分40秒
編集済
  久野幸紀様
ようこそおいでいただきました。
貴家のご先祖様は『久野氏の面々』の久野屋仲につながりますが、藤原為憲流の
誰と姻戚関係にあったのかまでは残念ながら分かりません。
これは他の久野家も同じ状況です。
久野氏の氏祖が秦氏であることは疑いが無いように思われますので、久能山東照
宮の秦久能を祀る久能神社にも参拝されてはいかがでしょうか。
 

神戸の久野益蔵

 投稿者:久野幸紀くのゆきのりメール  投稿日:2010年 2月 6日(土)15時20分31秒
編集済
  私の祖父は神戸の久野益蔵と申します。
このホームページ素晴らしいですね。
名古屋に祖父益蔵の弟がいます。まんぷく寺?に家系図があるそうです。
家紋は丸に三つ鱗です。
私も詳しくルーツをご教授いただきたいと存じます。
やはり藤原鎌足が本当にご先祖様なのでしょうか。
去年、藤原鎌足を氏神さまとする春日神社に参拝いたしました。わたくしもわが子供たちもそうであると信じてしまっております。(笑)

http://www.kunosika.com/

 

久野清兵衛は神主?

 投稿者:管理者  投稿日:2009年12月28日(月)22時07分45秒
  【今川氏の研究】小和田哲男著 清文堂出版によれば、
天正15年3月7日付の『新宮神主浅間社領屋敷銭書上ゲ』と題する文書に、
・あんさい町久野御やしきニ入
  四百文          兵部次郎
・宮のさき久野御やしきニ入
  五十文          清兵衛
とあり、これは駿河・遠江・三河・甲斐・信濃の5カ国の大名になった徳川家康が、それまでの居城浜松から城を駿府に移し、5カ国の大名にふさわしい巨大な
城を築こうとした時、浅間神社領の一部を城地および武家屋敷のために指し出させた土地の一部であり、現在の静岡市葵区安西と宮ケ崎町に久野氏は居住していたようです。
久野清兵衛は武士として桶狭間に出陣したのでしょうが、神主でもあった可能性
は否定できません。
 

平氏支流の久野氏

 投稿者:管理者  投稿日:2009年 9月 1日(火)21時27分48秒
  『寛政譜』には平氏支流に久野孝知から始まる久野(くの)氏があり、家紋は
丸に六つ柏と瓜の内巴です。
この『寛政譜』には久野孝順(たかよし)までが掲載されており、これ以降は
『寛政譜以降旗本家百科事典』によれば、久野正六郎、久野吉太郎と続くよう
です。
この本では孝順の本国が近江となっており、正六郎と吉太郎の本国が遠江とな
っていまして、先祖の本国が近江ということに確証が持てなかったということ
でしょうか。
家紋の瓜の内巴からしますと駿河か遠江の久野氏の系統ではないかと思われま
す。
 

一万首和歌作者の久野氏

 投稿者:管理者  投稿日:2009年 8月 3日(月)20時13分10秒
  今回はトピックスの「一万首和歌作者の久野氏」を改訂しました。  

尾張・大島氏など

 投稿者:管理者  投稿日:2009年 7月25日(土)15時36分17秒
  今回は諸氏ミニ情報の「尾張・大島氏」と「久野氏の面々」の久能左近将監頼貞の
部分を改訂しました。
 

Re:ありがとうございます

 投稿者:管理者  投稿日:2009年 7月 9日(木)21時02分6秒
  久野さん、どうもです。

>少なくとも現在の久野氏の分布から
>荒子城廃城後その一部に住み着いたと推測する程度です。

荒子城廃城が1581年で、大野城落城は諸説があるものの1584年ですから、時代の矛盾はないようですね。
また新たな情報がありましたら宜しくお願い致します。
 

ありがとうございます。

 投稿者:久野  投稿日:2009年 7月 7日(火)18時20分52秒
  早速のご返信ありがとうございます。

何か良い情報があればいいのですが、当家には
家紋(抱き茗荷)・宗教(浄土真宗大谷派)以外にはほとんど伝わっておりません。
名前についても江戸の情報はありません。
親戚関係も同様明治以降しか判明しません。
周辺他家との関係も不明です。(2~3系統あるという話も。)
当家には江戸末期に当家の者が荒子の年貢を(竹越家、犬山市近辺?へ)
お納めした時の褒美の刀が残っているぐらいです。

少なくとも現在の久野氏の分布から
荒子城廃城後その一部に住み着いたと推測する程度です。
いつ頃から当地に居るのか当時帰農したのかもともと農民なのかも不明です。

身分が低く文字を知らないとは不幸なことです。
ただ何も残っていないためこちらのサイトを拝見し
武士であったかもと推測することでき私個人では楽しませていただいておりますが
 

Re:はじめまして

 投稿者:管理者  投稿日:2009年 7月 3日(金)20時18分28秒
編集済
  名古屋市中川区荒子の久野さん、ようこそおいでいただきました。

家紋が抱き茗荷とのこと、トピックスの尾張・知多郡大野村久野家と同じ家紋ですね。
トピックスではこの久野家は鳴海久野家から分かれたのではないかと書いていますが、
その後の調査から実は駿河から進駐軍として大野城(常滑市)にやって来て城代を務め、
桶狭間の合戦後は駿河に帰らず、大野城主佐治氏の家臣になったのではないかと推測
しているところです。
大野城落城後、佐治一族は蟹江町や東海市に移住したわけですが、久野氏の場合は大野
に居続けた一族と荒子に移住した一族があったのかもしれません。(全くの推測ですが)
荒子観音寺は天台宗だそうですが、駿河の久能寺も天台宗だったので、お寺関連の縁で
移住地が選ばれた可能性はないでしょうか?
貴家の初代から3代ぐらいまでのお名前(通称や実名)が分かりますと調査が進展する
かもしれません。
よろしければお名前をご披露ください。
また、常滑方面に親戚の方はいらっしゃいませんか?
 

はじめまして

 投稿者:久野  投稿日:2009年 7月 1日(水)00時22分41秒
  楽しく拝見させていただきました。
名古屋荒子の久野です。前田利家のいたところです。
私は久野氏について何も知らないのですが
近辺には久野さんが少なくとも20件ほどはいるかと思います。
私の家はとても武士だったとは思えませんが・・・
家紋は抱き茗荷です。他家は知りません。
戦国~江戸初期には当地に居たと思います。
 

久能館の場所

 投稿者:管理者  投稿日:2009年 6月14日(日)20時37分56秒
  久能館は鎌倉時代の話だと思いますが、それ以降も存続していた可能性は否定で
きません。
位置的には日本平ロープウェイの久能山駅の真西の柳沢の東岸だと思います。
まだヤフーオークションの写真をお持ちであれば、参考のために掲示板の下段に
ある「管理者へメール」から送ってもらえませんか?
 

久能館とは?

 投稿者:久能メール  投稿日:2009年 6月14日(日)17時14分12秒
  有難うございます。ちょっと気になっていて、昨年初めから時間があるとWEBで探しているのですが、昨年一時期、Yahooのオークションの古写真で久能館付近というものが出ていたのですが、その館があったとされるのは、時代的には鎌倉時代頃の話なのでしょうか。となると、ミスタイプだったのかもしれませんね。北久能のどのあたりでしょうか。  

Re:久能館とは?

 投稿者:管理者  投稿日:2009年 6月14日(日)15時46分48秒
  久能さん、ようこそおいでいただきました。

酒井貞次著の『入江氏系譜』には「入江氏宗家分族氏の居館状況」という表があ
りまして、
久能館につきましては、
方面・有度山:南麓、館名:久能館、氏族名:久能氏、旧所在地名:有度郡
久能、現所地名:静岡市北久能、現状:谷間
とあります。
しかし、久能館の遺構が発見されたというような話は聞いたことがありませんの
で、館があったとすればこの場所ではないかという著者の推測だと思います。
以前、この地を訪れてみたところ温室の鉄枠だけが残っていましたが、、広さは
それなりにあり、館があったとしてもおかしくない雰囲気ではありました。
 

久能館とは?

 投稿者:久能メール  投稿日:2009年 6月13日(土)17時51分27秒
  はじめまして。興味深く拝見させて頂きました。久能館とは、どのようなものでしょうか。  

江戸・久能屋敷

 投稿者:管理者  投稿日:2009年 5月16日(土)09時06分33秒
  紀州藩久野家の幕末に近い頃の江戸屋敷は今のJR信濃町駅前にあったようで、
滝沢馬琴も近所に住んでいたようです。
江戸名所図会の切絵図(住宅地図)では「久能丹波守」と表記され、馬琴も
久能屋敷と表現していますが、一方旗本の久野氏は切絵図では「久野伊三郎」
と表記され、巣鴨の東福寺の近くに住居がありました。
当時の久能丹波守とは紀州藩家老の久野純固(すみかた)のことですが、幕末
に近い時点でも久野と久能が混用されているのにはちょっと驚かされます。
 

ありがとうございます。

 投稿者:久野メール  投稿日:2009年 5月 3日(日)02時01分1秒
  情報ありがとうございます。確かに三重県の団体?田中つねじろうさんだったと思うですがと上富良野に来てます。
ちなみに戦前まで土地の税金払ってたみたいで戦後からは地主がいないって事で土地没収されたみたいでそれからは愛知とは無縁になったみたいです。

また何か?疑問があったら書き込みます。
 

北海道の久野伝平衛氏

 投稿者:管理者  投稿日:2009年 5月 3日(日)00時13分49秒
編集済
  北海道の久野さん、ようこそおいでいただきました。

名古屋城の近くに土地を持っていたらしいとのことですが、尾張藩士に久野伝平
衛は見当たりませんでした。
家紋の「丸に木瓜」ですが、これは愛知県の大府市や三好町の久野氏が使ってい
る家紋だと記憶しています。
この家紋の久野氏は遠州久野氏の一族ではないかと推測されます。

ところでネットで「久野伝兵衛」を検索してみますと、三重県河芸郡玉垣村
(鈴鹿市)の久野伝兵衛さんが上富良野に移住されています。
この伝兵衛さんのルーツも不明なのですが、紀州藩家老で伊勢田丸城主であった
久野氏の領地に紀州藩白子領(鈴鹿市)の一部が含まれるそうですから、久野宗
成に従って伊勢にやって来た遠州久野氏の一族だったのかもしれません。
 

ウチの久野のルーツが知りたい。

 投稿者:久野メール  投稿日:2009年 5月 1日(金)21時59分15秒
  初めまして。私は北海道に住んでる久野(クノ)です。
北海道には久野とつく名字はあまり居ません。

ウチの久野のルーツがしりたくここに書き込みさせてもらいました。

あまり詳しいくは分からないのですが久野伝平衛は、愛知県から北海道に移り住んで来たみたいです。愛知では名古屋城の近くに土地を持ってたらしいです。地主なのか武士なのかは分からないしです。家紋は、丸に木瓜です。

北海道ではなかなか調べにくくて困ってます。もしなんか情報があるとうれしいと思います。あとこのサイトに関係あるの一人ならうれしいなと思ってます。
 

ウチの久野のルーツが知りたい。

 投稿者:久野メール  投稿日:2009年 5月 1日(金)21時58分15秒
  初めまして。私は北海道に住んでる久野(クノ)です。
北海道には久野とつく名字はあまり居ません。

ウチの久野のルーツがしりたくここに書き込みさせてもらいました。

あまり詳しいくは分からないのですが久野伝平衛は、愛知県から北海道に移り住んで来たみたいです。愛知では名古屋城の近くに土地を持ってたらしいです。地主なのか武士なのかは分からないしです。家紋は、丸に木瓜です。

北海道ではなかなか調べにくくて困ってます。もしこのサイトに関係あるの一人ならうれしいなと思ってます。
 

Re:今川義元文書

 投稿者:管理者  投稿日:2009年 2月 1日(日)20時53分12秒
  安養寺は元から今の静岡市駿河区小坂にあり、藤枝市にはなかったようですので訂正します。
安養寺は今川範将(三郎、治部少輔)の菩提寺ですから、今川氏と関係の深いお寺の修復などは、主だった家臣で負担することになっていたのかもしれません。
 

播磨久野系図

 投稿者:管理者  投稿日:2009年 1月 1日(木)16時49分51秒
  今回は播磨久野系図を改訂しました。
3年前に神戸ひさのさんから、山名氏の被官であった久野次郎左衛門尉が鳥取県史に出てくることをご紹介いただきましたが、この久野(くの)氏がひさの氏に繋がるという推測を整理してみました。
 

続・黒田藩久野氏

 投稿者:管理者  投稿日:2008年12月27日(土)14時48分2秒
  津々堂さんのHP(http://www.shinshindoh.com/)に御池章史氏の書かれた
{「御家草創」松井佐渡守康之・長岡佐渡守興長}というレポートがありまして、
この中に黒田如水配下の久野次郎左衛門が出てきます。
この次郎左衛門は本HPの「播磨久野系図」の次左衛門重義のことで、次郎を
次と略したようです。
伯耆守護・山名教之配下の久野次郎左衛門が重義の曽祖父重敬の父の年代
に相当しますから、同族の可能性があります。
また、佐久間信盛の家臣で細川藩久野(くの)家初代が次郎左衛門を名乗って
いますから、この久野(ひさの)氏も細川藩久野家と同様に鳴海久野家の出身
であった可能性が考えられます。
鳴海久野家には次郎左衛門の他に、次(二)郎太夫を名乗る人物も散見され
ますから、重義の叔父が次郎太夫を名乗っていることからも、現時点、これらの
久野家は同族であったと結論付けてもよいのではないでしょうか。
 

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