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Re:遠州山梨村久野氏系図

 投稿者:管理者  投稿日:2014年 1月22日(水)20時39分2秒
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  久野氏後裔さんご紹介の遠州山梨村久野氏系図の新たな情報としては宗光の存在とその
内容だと思います。

宗光
 右衛門太郎
 文明8年申年11月29日卒
 法名 明性林光信士

宗光は初代久野城主の宗隆の親に相当する世代の人物で、子の宗治が天文23年に亡く
なっていますから、この系図では一代抜けているように思われます。
また、本家筋の下山梨系図では宗治が宗行となっているのですが、その親は宗雄で鵯山
に住み400貫を領すとあります。
従って、宗光-宗雄-宗行(宗治)とするのが正しいように思われますが、この系統は
宗隆の後裔ではない可能性が大です。

遠州久野各家が全て宗隆の後裔でないのは当然としても、「遠江久野氏の祖を探る」
の項で言及した久野宗俊の系統が気になり、愛知県の岩瀬文庫に所蔵の『遠州久野家御
代々御小伝』の系図を調べていましたら、

宗俊--------宗尚        (宗尚以降は記載なし)
 久野六郎      久野刑部四郎
 形部亟(刑部丞か)

とあり、こちらは刑部の官職名を使っていることが判明しました。

以前、この掲示板で話題になりました笠間市の久野半右衛門家の祖である刑部左衛門宗清
や、「小浜藩久野家の先祖」の項に出てきた刑部左衛門宗国は宗俊の後裔の可能性がある
のではないでしょうか。

話は変わって『大日本地名辞書』の久野城址の項では、

「甲陽軍鑑云、元亀2年2月、信玄公高天神を引揚、ヲガタ松それより柴が原、それより
 鷺坂、宮口まで焼働、久野、掛川へ押寄、御巡見の時、久野の城ヒヨドリ山にて、小幡
 上総介兄弟、名誉の殿也」

と書かれており、このヒヨドリ山が以前から気になっていたのですが、『岸和田藩久野家
文書』をよく見ますと、宗隆の実父の宗徃が久野城主となっており、宗隆は城を新築、久野
城主となる、に加えて「一本久野庄鷲巣城主云々」とあります。
つまり、宗徃(宗光か)、宗雄がヒヨドリ山に住み、その後宗隆がヒヨドリ山に城を築いて、
これを久野城と称していたが、ある時点から今川氏親が遠江侵攻の為に築いた蔵王城(鷲巣
城)が久野城と呼ばれるようになったと考えた方が妥当かもしれません。

以上、思わぬ方向に話が飛びましたが、今回の系図は久野氏後裔さんの大発見ではないで
しょうか。
 
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