日蓮大聖人の仏法 掲示板

日蓮大聖人を末法の御本仏と信じ、日蓮正宗大石寺の本門戒壇の大御本尊を信仰の対象としている方に向け、日蓮大聖人の御心に叶い、時に叶った正しい信心とは如何にあるべきかを考えていきます。



カテゴリ:[ なんでもフリートーク ] キーワード: 法華講 創価学会 外道義


179件の内、新着の記事から50件ずつ表示します。


[180] 『万葉集』より

投稿者: 愚人 投稿日:2017年 3月20日(月)09時58分52秒   通報   返信・引用

 香久山は 畝傍ををしと 耳成と 相争ひき狂った神代より かくにあるらし 古も 然にあれこそ うつせみも 妻を争ふらしき 




[179] 気候変動

投稿者: 管理人 投稿日:2017年 3月17日(金)06時44分25秒   通報   返信・引用

地球温暖化に代表されるような気候変動から身を守るための手段がCO2削減という結論になることがアホすぎるのです。
気候変動に対応できるようインフラを整備するとか移住するとかが対策のはずです。
日本は経済活動を活発化させても環境を汚さない技術をすでに手に入れています。
CO2は毒ガスではありません。
効率のよい火力発電でバンバン発電して経済を活性化させればみんなが幸せになれると思う。
CO2がたくさん出て農作物も良く育ちみんなハッピーなはずです。
まぁ、環境絡みの怪しい補助金で潤っている人はちょっと苦しいかもしれませんが、自業自得でしょう。



[177] 訂正

投稿者: 妙介(管理人) 投稿日:2017年 3月12日(日)19時29分11秒   通報   返信・引用

>人類のできる唯一のリサイクルは地中にうもれてしまったCO2を大気中に戻すことです。

訂正>人類のできる唯一のリサイクルは地中にうもれてしまったCを大気中に戻すことです。
?

http://takedanet.com/archives/1064256107.html



[176] 愚人さんへ

投稿者: 妙介(管理人) 投稿日:2017年 3月12日(日)19時12分53秒   通報   返信・引用

>どうでしょうか?。先ずは「成長戦略/経済優先の政策」を見直すことが大事だと愚人は思う。

愚人さんが何を以て「成長戦略/経済優先の政策」とされているにかよくわからないので何とも言えませんが、
昔(1970年代高度成長期)、油で汚染され七色に鈍く輝いていた私の地元の川は、今ではすっかり綺麗になって、
かつての魚たちも戻ってきています。

日本での現在進行形の公害はおそらく「花粉症」だと思いますが、対策としてはスギやヒノキを切ることです。
・・・、なんでスギを伐採しないんだろう?

かつて地球の大気の95%はCO2でした。
長い長い年月を経て、そのほとんどが地中に埋もれてしまっています。
現在では0.04%になっています。

人類のできる唯一のリサイクルは地中にうもれてしまったCO2を大気中に戻すことです。

いわゆるリベラル左派という人たちは、なんだか人として基本的なところで「頭悪い」という気がします。



http://takedanet.com/archives/1064256107.html



[175] 依正不二

投稿者: 愚人 投稿日:2017年 3月12日(日)08時06分4秒   通報   返信・引用

  夫十方は依報なり、衆生は正報なり。依報は影のごとし、正報は体のごとし。身なくば影なし、正報なくば依報なし。又正報をば依報をもて此をつくる。眼根をば東方をもってこれをつくる。舌は南方、鼻は西方、耳は北方、身は四方、心は中央等、これをもってしんぬべし。かるがゆへに衆生の五根やぶれんとせば、四方中央をどろうべし。されば国土やぶれんとするしるしには、まづ山くづれ、草木かれ、江河つくるしるしあり。人の眼耳等驚そうすれば天変あり。人の心をうごかせば地動す。 『瑞相御書』


 この文は人と環境/自然との不二を説いた文であるが、依報である環境/自然は影であり、正報である人は体であると而ニも示している。そして、古代中国思想の五行説に基づいて自然と人との相関/自然と人との合一を説く。

 この依正不二/天(自然)人合一という思想は、地球温暖化の問題もあって非常に重味を増しているように愚人は感じる。

 今日までの人の繁栄は、自然破壊/自然の犠牲の上に成り立っている。そして今日の日本国について言えば、安部晋三氏を首班とする内閣/行政府と自民党・公明党の連立与党が圧倒的多数を占める国会/立法府は、成長戦略の名のもとに経済優先の政策を推進している。

 この経済優先の政策とは、つまり人の貪煩悩を奮い立たせる政策である。(公明党は仏教徒を中心とした集りであったと記憶しているが、貪煩悩を奮い立たせる政策を遂行して良いのか?)人の貪煩悩/物欲を満足させる為に、自然を破壊し、自然との不調和をさらに進めて行こうというのである。

 はてさて、その先にあるものは何か。日蓮聖人の、

 眼根をば東方をもってこれをつくる。舌は南方、鼻は西方、耳は北方、身は四方、心は中央等、これをもってしんぬべし。かるがゆへに衆生の五根やぶれんとせば、四方中央をどろうべし。されば国土やぶれんとするしるしには、まづ山くづれ、草木かれ、江河つくるしるしあり。人の眼耳等驚そうすれば天変あり。人の心をうごかせば地動す。

との自然と人との相関/自然と人との合一説に明らかなように更なる天変地異である。(しかしながら日蓮聖人によれば天変地異は、法華経流布の瑞相であると述べている)

 仏教は「彼あれば此れあり、此れあれば彼あり」との縁起を説いていますが、人と自然とは相関関係にああります。主体である人の心が荒廃すれば、自然が荒廃します。自然が荒廃すれば、更に人の心が荒廃します。人の心が更に荒廃すれば、自然が更に荒廃します。

 人の心が澄めば、自然が澄みます。自然が澄めば、人の心が更に澄みます。人の心が澄めば更に自然が澄みます。

 どうでしょうか?。先ずは「成長戦略/経済優先の政策」を見直すことが大事だと愚人は思う。



[174] 天罰論

投稿者: 愚人 投稿日:2017年 3月12日(日)08時04分55秒   通報   返信・引用

  ★注意★ 災害を「天罰」とすることに嫌なおもいをなさる方や不快感を感じる方は読まないで下さい。

 なお殆ど他人の「論」の紹介です。


 最近、新潮新書刊 末木文美士著 『現代仏教論』を読んだ。この本の第一章『震災から仏教を考える』で氏は、震災を「天罰」との観点から述べている。この中で末木氏は、

 「仏教では縁起ということを言います。もし地震は自然現象で人間は関係ない、というのであれば、人間と自然とは無関係で、縁起的な関係がない、ということになります。でも、それは仏教的に考えてもおかしいと思います。人間も自然も相互に切り離せない関係の中に入っている。それが縁起ということではないでしょうか。」【同書23頁】

と延べ、

 「自然を人間と無関係だとして、自然への関心を失わせ、自然を疎外することになってしまいます。自然と対話しながら、自然に対してどのように対応したらよいのか、自然と一緒に考えていく姿勢が必要ではないでしょうか。」【同書23頁】

と述べている。此処で氏は、「人間と自然との相関関係」、日蓮聖人の遺文から言えば「依正不二」を延べていると愚人は読み解く。「天罰」について氏は、

 「僕は決して厳格な理論としての「天罰論」の立場に立つわけではないが、それでも、そのような人知を超えた何か、僕の用語でいう「冥」の領域を無視して、人間至上主義の傲慢に陥るよりは、「天罰」という言い方でも、「冥」の世界への畏れを持つ方に共感する。」【同書30・31頁】

 と延べている。氏は、東日本大震災発生時に「天罰論」を延べ論争を巻き起こしたそうだ。愚人も、人間至上主義を改める上から「冥」に対する畏れを持つことは必要であると思う。

 大正時代に発生した「関東大震災」の時に「天罰論」を述べた人がいる。実業家の渋沢栄一である。氏の「天罰論」を半沢健一氏の論文、『関東大震災とリスボン大地震―天譴論・内村鑑三・ヴォルテール』から紹介する。


関東大震災における言説で興味を惹かれるのは「天譴論」である。それは実業家渋沢栄一に発する。渋沢の天譴論から二つを次に掲げる(現代かな遣いに修正)。

 「日本は明治維新から僅々数十年を出ずして世界列強の班に入った。この長足の進歩は世界の均しく驚嘆するところである。と同時に我が国民の自ら顧みて衷心聊か自負する処が尠なくなかったと思う。私は近頃我が国民の態度が余り泰平に狎れ過ぎはしないかと思う。順調に進み平穏に終始すれば、勢い精神の弛緩するのは已むを得ない処かも知れないが、我が国民が大戦以来所謂お調子づいて鼓腹撃壌に陥りはしなかったか、これは私の偏見であれば幸いであるが兎に角、今回の大震災は到底人為的なものではなく、何か神業のように考えられてならない。即ち天譴というような自責の悔を感じない訳には行かない。」

 渋沢は忘れっぽい日本人に対して震災の一年後にこう書いている。

 「私は此震災を迷信的に解釈して、今時の国民は少し浮かれ過ぎるから天が斯様な罰を与えたもので、謂わば天譴ではないかとも考える。/要するに新春を迎えると共に、自然の空気、一般の気合が緊張して欲しいものである。己を中心として、人の揚足取りのみを得意とする様では、夫の恐ろしい天譴を余り早く忘れ過ぎたと見ねばなるまい。吾々国民は厚始)一新する事が必要である。」

 天譴とは何か。渋沢は天譴を日常語の「天罰」と同意に使っているが、語源を辿れば中国前漢時代の儒学者董 仲 舒に発するという。「天人相関説」の別称もある。その意味は、君主の政治的失敗に対して「天」が地上に警告、譴責を行い統治への反省を促すということである。日本では君主は天皇であるが,渋沢は注意深く天皇への譴責ではなく国民全体への譴責であると読みかえている。

 つまり震災は「天罰」であり「天譴」であるとの事である。この時の渋沢栄一の警告も空しく、伊勢湾台風・阪神淡路大震災・東日本大震災が起き、最近では熊本大地震が発生している。人間は自然/天に対する畏れを抱くべきであると愚人は思う。心を澄ませて自然/天からの声を聞くべきだと愚人は思う。

  日蓮聖人も「天人相関説」のうえから「災異」が起こるとしているが、文応元年の『立正安国論』の提出時にはまだ「天罰」の言葉は見えない。


 五戒破るれば此国土次第に衰へ、又重て五戒を持たずして此身の上に悪業を作れば、五戒の戒体破失して三途に入るべし。是凡夫の戒体也。『戒体即身成仏義』

 答えて曰く、仏法いまだ漢土に渡らざる前は、黄帝等五常を以て国を治む。その五常は、仏法渡りて後にこれを見れば、すなわち五戒なり。老子・孔子等もまた仏遠く未来を鑑み、国土に和し、仏法を信ぜしめんがために遣すところの三聖なり。夏の桀・殷の紂・周の幽等の、五常を破つて国を亡すは、すなわち五戒を破るに当るなり。また人身を受けて国主と成るは必ず五戒・十善に依る。外典は浅近の故に過去の修因・未来の得果を論ぜずといえども、五戒・十善を持ちて国王と成る。故に人五常を破ることあれば、上天変頻に顕れ、下地夭間侵すものなり。『災難興起由来』

 答えて曰く、彼の時もまた災難あり。云く、五常を破り、仏法を失いし者これあるが故なり。いわゆる周の宇文・元嵩等これなり。難じて曰く、今の世の災難も五常を破りしが故にこれ起るといわば、何ぞ必ずしも選択集流布の失に依らんや。答えて曰く、仏法已前に五常をもつて国を治むるは、遠く仏誓をもつて国を治むるなり。礼儀を破るは仏の出したまえる五戒を破るなり。『災難対治抄』


 これ等の文は、五戒(五常)を破戒すると戒体も破して天地人の陰陽五行説に基づく天人相関性が崩れて国土や人に災難が起こるという文である。『立正安国論』になると単なる「天人相関説」


 慈覚大師の入唐巡礼記を案ずるに云く、「唐の武宗皇帝の会昌元年、勅して章敬寺の鏡霜法師をして、諸寺において弥陀念仏の教を伝えしむ。寺毎に三日巡輪すること絶えず。同二年回鶻国の軍兵等、唐の堺を侵す。同三年、河北の節度使忽ち乱を起す。その後、大蕃国また命を拒み、回鶻国重ねて地を奪う。およそ兵乱は秦項の代に同じく、災火は邑里の際に起る。いかにいわんや、武宗大に仏法を破し、多く寺塔を滅す。乱を揆むること能わずして、遂にもつて事あり」と已上取意。」


 しかし、『立正安国論』提出から九年後の『立正安国論副状』においては、

 正嘉元年 太歳丁巳 八月二十三日戍亥の尅の大地震、日蓮諸経を引いてこれを勘うるに、念仏宗と禅宗等とに御帰依あるの故に、日本国中の守護の諸大善神、恚に依つて起す所の災なり。もし御対治なくんば、他国のために此の国を破らるべき悪瑞の由、勘文一通これを撰し、立正安国論と号し、正元二年 太歳庚申 七月十六日、宿屋入道に付して故最明寺入道殿にこれを進覧せしむ。


として、正嘉大地震を「天罰」としている。ここで、天災地変を「天罰」と観る日蓮聖人の遺文を数文示してみよう。


 国王と申す事は、先生に万人にすぐれて大戒を持ち、天地及び諸神ゆるし給ひぬ。其の大戒の功徳をもちて、其の住むべき国土を定む。二人三人等を王とせず。地王・天王・海王・山王等 悉 く来たってこの人をまぼる。いかにいはんや其の国中の諸民、其の大王を背くべしや。此の王はたとい悪逆を犯すとも、一二三度等には左右無く此の大王を罰せず。但諸天等の御心に叶はざる者は、一往は天変地夭等をもちてこれをいさむ。事過分すれば諸天善神等其の国土を捨離し給ふ。若しは此の大王の戒力つき、期来たりて国土のほろぶる事もあり、又逆罪多にかさなれば隣国に破らるゝ事もあり。善悪に付けて国は必ず王に随ふものなるべし。
世間此くの如し、仏法も又然なり。仏陀すでに仏法を王法に付し給ふ。しかればたとい聖人・賢人なる智者なれども、王にしたがはざれば仏法流布せず。或は後には流布すれども始めには必ず大難来たる。『四条金吾殿御返事』

 正嘉の大地震等の事は、去ぬる文応元年太歳庚申七月十六日宿屋の入道に付けて、故最明寺入道殿へ奉る所の勘文立正安国論には、法然が選択に付いて日本国の仏法を失ふ故に、天地瞋りをなし、自界叛 逆 難と他国侵逼難起こるべしと 勘 へたり。『呵責謗法滅罪抄』

 所謂正嘉の大地震文永の長星は誰が故ぞ。日蓮は一閻浮提第一の聖人なり。上一人より下万民に至るまで之を軽毀して刀杖を加へ流罪に処するが故に、梵と釈と日月四天と隣国に仰せ付けて之逼責するなり。大集経に云はく、仁王経に云はく、涅槃経に云はく、法華経に云はく。設ひ万祈を作すとも日蓮を用ひざれば必ず此の国今の壱岐・対馬の如くならん。『聖人知三世事』

 而るに今の世は法華経を軽蔑するこ
と土の如く民の如し。真言の僻人等を 重崇して国師と為ること金の如く王の如し。之に依って増上慢の者国中に充満す。青天瞋りを為し黄地夭孼を致す。 涓聚まりて墉塹を破るが如く、民の愁ひ積りて国を亡す等是なり。『太田殿許御書』

 末法の始めに謗法の法師一閻浮提に充満して、諸天いかりをなし、彗星は一天にわたらせ、大地は大波のごとくをどらむ。大旱魃・大火・大水・大風・大疫病・大飢饉・大 兵乱等の無量の大災難並びをこり、『新尼御前御返事』


 これ等の遺文を読むと、日蓮聖人は「天罰」の由縁を国主等の叛仏・叛法・叛僧としていることが解る。しかしながら、 叛仏・叛法・叛僧を「叛自然」と読み替えれば、天災地変は、人間の「自然破壊/自然との不調和」に対する天罰/天譴であると読む解くことが出来ると思う。

 これ以上、「自然破壊/自然との不調和」を人間が犯し続けたならば、


 但諸天等の御心に叶はざる者は、一往は天変地夭等をもちてこれをいさむ。事過分すれば諸天善神等其の国土を捨離し給ふ。若しは此の大王の戒力つき、期来たりて国土のほろぶる事もあり、又逆罪多にかさなれば隣国に破らるゝ事もあり。


との『四条金吾殿御返事』の文の如く、もっと大きな「天罰」によって、国土(人)が滅びることに成るかもしれない。日蓮聖人は云う、


 汝早く信仰の寸心を改めて速やかに実乗の一善に帰せよ。

と。もうこれ以上の自然破壊を改めて、速やかに自然との対話を進めれば、


 然れば即ち三界は皆仏国なり。仏国其れ衰へんや。十方は悉く宝土なり、宝土何ぞ壊れんや。国に衰微なく土に破壊無くんば身は是安全にして、心は是禅定ならん。


とあるように、自然と人が調和した国土となり身心もまた法楽の姿となるのだ。



[173] 日蓮聖人の災異説

投稿者: 愚人 投稿日:2017年 3月 6日(月)09時32分26秒   通報   返信・引用

  念仏宗と禅宗等とを御帰依有るがの故に、日本守護の諸大善神、瞋恚を作して起こす所の災ひなり。『宿屋入道許御状』

 夫此の国は神国なり。神は非礼を稟けたまはず。(中略)一乗捨棄の国に於ては豈善神怒りを成さざらんや。仁王経 に云はく「一切の聖人去る時七難必ず起こる」と。彼の呉王は伍子胥が 詞 を捨て吾が身を亡ぼし、桀・紂 は 竜 ・比を失ひて国位を喪ぼす。今日本国既に蒙古国に奪はれんとす。『北条時宗への御状』

 正嘉元年八月二十三日戌亥の刻の大地震、日蓮諸経を引いて之を勘ふるに念仏宗と禅宗等と御帰依有るの故に、日本国中の守護の諸大善神恚りに依って起こす所
の災ひなり。『安国論副状』

 又此の大罪は叡山三千人の失にあらず、公家武家の失となるべし。日本一州上下万人一人もなく謗法なれば、大梵天王・帝桓並びに天照大神等隣国の聖人に仰せつけられて
謗法をためさんとせらるゝか。例せば国民たりし清盛入道王法をかたぶけたてまつり、結句は山王大仏殿をやきはらいしかば、天照大神・正八幡・山王等よりきせさせ給ひて、源頼義が末の頼朝に仰せ下して平家をほろぼされて国土安穏なり
き。『法門申さるべき様の事』

 此の国すでに三逆罪を犯す。天豈之を罰せざらんや。『真言諸宗違目』

 国王と申す事は、先生に万人にすぐれて大戒を持ち、天地及び諸神ゆるし給ひぬ。其の大戒の功徳をもちて、其の住むべき国土を定む。二人三人等を王とせず。地王・天王・海王・山王等 悉 く来たってこの人をまぼる。いかにいはんや其の国中の諸民、其の大王を背くべしや。此の王はたとい悪逆を犯すとも、一二三度等には左右無く此の大王を罰せず。但諸天等の御心に叶はざる者は、一往は天変地夭等をもちてこれをいさむ。事過分すれば諸天善神等其の国土を捨離し給ふ。若しは此の大王の戒力つき、期来たりて国土のほろぶる事もあり、又逆罪多にかさなれば隣国に破らるゝ事もあり。善悪に付けて国は必ず王に随ふものなるべし。
世間此くの如し、仏法も又然なり。仏陀すでに仏法を王法に付し給ふ。しかればたとい聖人・賢人なる智者なれども、王にしたがはざれば仏法流布せず。或は後には流布すれども始めには必ず大難来たる。『四条金吾殿御返事』

 正嘉の大地震等の事は、去ぬる文応元年太歳庚申七月十六日宿屋の入道に付けて、故最明寺入道殿へ奉る所の勘文立正安国論には、法然が選択に付いて日本国の仏法を失ふ故に、天地瞋りをなし、自界叛 逆 難と他国侵逼難起こるべしと 勘 へたり。『呵責謗法滅罪抄』

 所謂正嘉の大地震文永の長星は誰が故ぞ。日蓮は一閻浮提第一の聖人なり。上一人より下万民に至るまで之を軽毀して刀杖を加へ流罪に処するが故に、梵と釈と日月四天と隣国に仰せ付けて之逼責するなり。大集経に云はく、仁王経に云はく、涅槃経に云はく、法華経に云はく。設ひ万祈を作すとも日蓮を用ひざれば必ず此の国今の壱岐・対馬の如くならん。『聖人知三世事』

 而るに今の世は法華経を軽蔑するこ
と土の如く民の如し。真言の僻人等を 重崇して国師と為ること金の如く王の如し。之に依って増上慢の者国中に充満す。青天瞋りを為し黄地夭孼を致す。 涓聚まりて墉塹を破るが如く、民の愁ひ積りて国を亡す等是なり。『太田殿許御書』

 末法の始めに謗法の法師一閻浮提に充満して、諸天いかりをなし、彗星は一天にわたらせ、大地は大波のごとくをどらむ。大旱魃・大火・大水・大風・大疫病・大飢饉・大 兵乱等の無量の大災難並びをこり、『新尼御前御返事』


 而るを安房国東条郷は辺国なれども日本国の中心のごとし。其の故は天照太神跡を垂れ給へり。昔は伊勢国に跡を垂れさせ給ひてこそありしかども、国王は八幡・加茂等を御帰依深くありて、天照太神の御帰依浅かりしかば、太神瞋りおぼせし時、源右将軍と申せし人、御起請の文をもってあをかの小大夫に仰せつけて頂戴し、伊勢の外宮にしのびをさめしかば、太神の御心に叶はせ給ひけるかの故に、日本を手ににぎる将軍となり給ひぬ。『新尼御前御返事』

 去ぬる正嘉元年丁巳大地震此の大瑞日本の日記に見ざるか。日蓮諸経を引き勘ふるに、念仏宗と禅宗等との邪法此の国に出現し、存の外に国中の上下鎮護国家の為の大法を蔑如せしむるに依って、法華・真言の国中守護の諸大善神瞋恚を為し、悉く他国に向かふが故に起こる所の災難なり。此の国将に他国に襲はるべし等云云。具には故最明寺入道殿に奉る勘文の如し谷土野禅門之を尋ぬべし。 念仏者並びに檀那等之を聞きて怨を成すこと、譬へば不軽菩薩の増上慢の四衆の如し。『正嘉地震大瑞御書』

 予不肖の身なれども、法華経を弘通する行者を王臣人民之を怨む間、法華経の座にて守護せんと誓ひをなせる地神いかりをなして身をふるひ、天神身より光を出だして此の国をおどす。いかに諫むれども用ひざれば、結句は人の身に入って自界叛 逆 せしめ、他国より責むべし。問うて云はく、此の事何なる証拠あるや。答ふ、経に云はく「悪人を愛 敬 し善人を治罰するに由るが故に星宿及び風雨皆時を以て行らず」等云云。夫天地は国の明鏡なり。今此の国に天災地夭あり。知んぬべし、国主に失ありと云ふ事を。鏡にうかべたれば之を 諍 ふべからず。国主小禍のある時は天鏡に小災見ゆ。今の大災は当に知るべし大禍ありと云ふ事を。『法蓮抄』

 現に国主・父母・明師たる釈迦仏を捨て、乳母の如くなる法華経をば口にも誦し奉らず。是豈不孝の者にあらずや。此の不孝の人々、一人二人、百人千人ならず、一国二国ならず、上一人より下万民にいたるまで、日本国皆こぞて一人もなく三逆罪のものなり。されば日月色を変じて此をにらみ、大地もいかりてをどりあがり、大せいせい天にはびこり、大火国に充満すれども僻事ありともおもはず、『一谷入道女房御書』

 文の心は、人にはあまたの子あれども、父母の心は病する子にありとなり。仏の御ためには一切衆生は皆子なり。其の中罪ふかくして世間の父母をころし、仏経のかたきとなる者は病子のごとし。しかるに阿闍世王は摩竭提国の主なり。我が大檀那たりし頻婆舎羅王をころし、我がてきとなりしかば、天もすてゝ日月に変いで、地も頂かじとふるひ、万民みな仏法にそむき、他国より摩竭提国をせむ。此等は偏に悪人提婆達多を師とせるゆへなり。結句は今日より悪瘡身に出でて、三月の七日無間地獄に堕つべし。これがかなしければ、我涅槃せんこと心にかゝるというなり。我阿闍世王をすくひなば、一切の罪人阿闍世王のごとしとなげかせ給ひき。『妙一尼御前御消息』

 文の心は第五の五百歳の時、悪鬼の身に入れる大僧等国中に充満せん。其の時に智人一人出現せん。彼の悪鬼の入れる大僧等、時の王臣・万民等を語らひて、悪口罵詈、杖木瓦礫、流罪死罪に行なはん時、釈迦・多宝・十方の諸仏、地涌の大菩薩らに仰せつけ、大菩薩は梵・帝・日月・四天等に申しくだされ、其の時天変地夭盛んなるべし。国主等其のいさめを用ひずば、隣国にをほせつけて彼々の国々の悪王悪比丘等をせめらるゝならば、前代未聞の大闘諍一閻浮提に起こるべし。『撰時抄』

 而るに法華経守護の梵天・帝釈・日月・四天・地神等は古の謗法をば不思議とはをぼせども、此をしれる人なければ一子の悪事のごとくうちゆるして、いつわりをろかなる時もあり、又すこしつみしらする時もあり。今は謗法を用ひたるだに不思議なるに、まれまれ諌暁する人をかへりてあだをなす。一日二日・一月二月・一年二年ならず数年に及ぶ。彼の不軽菩薩の 杖 木の難に値ひしにもすぐれ、覚徳比丘の殺害に及びしにもこえたり。而る間、梵釈の二王・日月・四天・衆星・地神等やうやうにいかり、度々いさめらるれども、いよいよあだをなすゆへに、天の御計らひとして、隣国の聖人にをほせつけられて此をいましめ、大鬼神を国に入れて人の心をたぼらかし、自界反逆せしむ。吉凶につけて瑞大なれば難多かるべきことわりにて、仏滅後二千二百三十余年が間、いまだいでざる大長星、いまだふらざる大地しん出来せり。『撰時抄』

 すでに此の国に天変あり地夭あり。他国より此をせむ。三十三天の御いかり有ること又疑ひなきか。『撰時抄』

 日蓮は真言・禅宗・浄土等の元祖を三虫となづく。又天台宗の慈覚・安然・慧心等は法華経・伝教大師の師子の身の中の三虫なり。此等の大謗法の根源をたゞす日蓮にあだをなせば、天神もをしみ、 惜地祇もいからせ給ひて、災夭も大いに起こるなり。『撰時抄』

 大集経・金光明経・仁王経・守護経・ はちなひをん経・最勝王経等に、末法に入って正法を行ぜん人出来せば、邪法のもの王臣等にうたへてあらんほどに、彼の王臣等、他人がことばにつひて一人の正法のものを、或はのり、或はせめ、或はながし、或はころさば、梵王・帝 釈 ・無量の諸天、天神・地神等、りんごくの賢王の身に入りかわりて、その国をほろぼすべしと記し給へり。『三三蔵祈雨事』

 日本国の人々は、一人もなく日蓮がかたきとなり候ひぬ。梵王・帝釈・ぼんのうたいしゃく・日月・四天のせめをかほりて、たうじのゆき・つしまのやうになり候はんずるに、いかゞせさせ給ふべき、いかゞせさせ給ふべき。『高橋殿御返事』

 日本国の人の日蓮をあだみ候は一切世間の天人の眼をくじる人なり。されば天もいかり日々に天変あり。地もいかり月々に地夭かさなる。『乙御前御消息』



[172] 靖国神社を世界遺産に

投稿者: 妙介(管理人) 投稿日:2017年 2月26日(日)19時40分33秒   通報   返信・引用

「靖国神社を世界遺産に」
私の尊敬する武田邦彦教授が最近主張されていることである。勿論、負の遺産としてではなく、欧米列強の植民地支配・人種差別主義から人類を開放した英霊たちを顕彰した輝かしき場所としてである。

70年前の戦争を「第二次世界大戦」と捉えるのは欧米人の歴史認識の影響を受けすぎているのであり、本来であれば、第1次欧州戦争、第2次欧州戦争という二つの白人同士の戦争があり、
時期的には重なっているが、それとは別の、白人の植民地支配から有色人種を解放するために戦った日露戦争以降の一連の戦争があると捉えるべきである。

白人というのは獰猛な人種で、南米ではスペイン人やポルトガル人が、先住民を皆殺しにして、土地を奪い取った。北米も同じであり、インディアンを皆殺しにして奪い取った土地に君臨しているのがアメリカ人である。
そういった欧米列強の圧力の中で名実ともに独立を保っていたのが日本である。
もし日露戦争に負けていたら・・・、想像するだけで恐ろしいが、日本人は勝った。最後の最後、太平洋戦争において、圧倒的な物量のアメリカに負けたが、戦争の目的である「白人の植民地支配から有色人種を解放する」ということは達成された。日本軍が勇敢に戦い、そして強かったからだ。

歴史的な意義を考えれば、本門戒壇の次くらいに聖なる場所が靖国神社だと思う。本来であればしかるべきお祀りの仕方があると思うが、それはさらにハードルの高い問題ではある。

実際に世界遺産になるかどうかはどうでも良い問題ではあるが、日本人の大多数が上記のような歴史観に立つ事のキッカケになったら良いと思う。

http://takedanet.com/archives/1064256107.html



[171] 『立正安国論』日蓮上人の意図

投稿者: 愚人 投稿日:2017年 2月25日(土)09時26分57秒   通報   返信・引用

  『立正安国論』より文。

 文に就いて世を見るに誠を以て然なり。悪侶を誡めずんば豈善事を成さんや。

 如かず彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには

 唯須く凶を捨てゝ善に帰し源を塞ぎ根をきるべし。

 謗法の人を禁めて正道の侶を重んせば、国中安穏にして天下泰平ならん。

 早く天下の静謐を思はゞ須く国中の謗法を断つべし。

 若し先づ国土を安んじて現当を祈らんと欲せば、速やかに情慮を廻らし怱いで退治を加えよ。

 汝早く信仰の寸心を改めて速やかに実乗の一善に帰せよ。然れば則ち三界は皆仏国なり。仏国其れ衰へんや。十方は悉く宝土なり、宝土何ぞ壊れんや。国に衰微無く土に破壊無くんば身は是れ安全にして、心は是禅定ならん。此の詞此の言信ずべく祟むべし。



 愚人云、

 『立正安国論』執筆の動機は、日蓮上人が生体験した正嘉大地震である。『立正安国論』冒頭の悲惨な状況は日蓮上人が実際に目撃したものであろう。そして此の災難の由来を考察し、その元凶を「謗法の僧侶」と「謗法の書」であると断じた。そして日蓮上人は、『守護国家論』『念仏者追放宣旨御教書事』『災難興起由来』『災難対治抄』と勘文を執筆し、最終的に『立正安国論』として、日蓮上人が国主であると定めた北条時頼に諫暁した。

 一刻も早く国土の災難を止め、他国侵逼による滅国を防ぐ為には、一人一人への折伏では間に合わない、その間に幾度も天変地異が起き、他国からの侵逼があるかもしれない。

 一刻も早く、国土の災難を防ぐ為に日蓮上人が考えたのは国主への諫暁である。日蓮上人は、宣旨・御教書による念仏停止の前例を示し、先の宣旨・御教書の執行を徹底し謗法の退治を国主に求めた。日蓮上人は、


 愚王有りて礼教を破る故に災難出来す

 武宗大いに仏法を破し多く寺塔を滅す。乱を撥(おさ)めること能はずして遂に以て事あり


と、天人相関の上から国主が仏法を破る故に滅国となった事例を引いている。国主が仏法を破る故に滅国となるならば、国主が仏法を護持すれば天下泰平と成るは道理である。そこで日蓮上人は、自身が当国の国主と定めた北条時頼に『立正安国論』を停止し、

 正法正師に帰依し、その「慈誨を仰」ぐとともに、「速やかに(謗法の)退治を廻らして早く(天下)泰平を致」さんことを求めたのである。


 日蓮上人が亡くなった後の弟子達による国主諫暁が続くのも、一刻も早い天下泰平を願う日蓮上人の意を汲んでの行動であろう。



[170] Re: 『貞観政要』から観る日蓮上人の諫暁

投稿者: 管理人 投稿日:2017年 2月22日(水)11時45分11秒   通報   返信・引用

愚人さん、こんな過疎板に書き込みいただきありがとうございます。

また、よろしくお願いします。



[169] 『貞観政要』から観る日蓮上人の諫暁

投稿者: 愚人 投稿日:2017年 2月20日(月)15時28分1秒   通報   返信・引用

 『貞観政要』は、中国が唐と呼ばれていた時代に、呉兢が編纂したとされる太宗の言行録である。

 この『貞観政策』を日蓮上人が大事にしていたことは、『佐渡御書』の、

 外典書の貞観政要、すべて外典の物語、八宗の相伝書等、此等がなくしては消息もかゝれ候はぬに、かまへてかまへて給び候べし。

との文から推察でき、『貞観政要』のみ書籍名を明かしていることから、この書が日蓮上人にとって、更に大事な書であったことが推察できるであろう。

 『貞観政要』は、『太田殿許御書』に、


 呉兢が太宗に上つる表に云く「竊かに惟れば太宗文武皇帝の政化・曠古より之れ求むるに未だ是くの如くの盛なる者有らず唐堯・虞舜・夏禹・殷湯・周の文武・漢の文景と雖も皆未だ逮ばざる処なり」云云、今此の表を見れば太宗を慢ぜる王と云う可きか政道の至妙・先聖に超えて讃ずる所なり。


とあるように、日蓮上人が為政者の鑑とした唐の太宗皇帝と臣下の言行を記した書であり、「歴代天皇にも進講され(中略)徳川家康もこの書を刊行(角川ソフィア文庫刊 湯浅邦弘著 貞観政要 8頁)」したことからも、政治に携わる者の指南書であることがわかる。

 なお、日蓮上人は『貞観政要』を書写しており、真蹟が北山本門寺に蔵されている。

 それでは、『貞観政要』に書かれている諫暁に関する文を紹介しよう。


 貞観元年、太宗、侍臣に謂いて曰く、「(中略)ねがわくは直言こう義に憑りて、天下を大平に致さん」

 諫義大夫王珪対えて曰く、「臣聞く、『木、縄に従えば則ち聖なり』。故に古者の聖主には、必ず争臣七人有り。言いて用いらざれば、則ち相継ぐに死を以てす。(後略)」(中略)太宗善しと称し、(後略)

 貞観五年、太宗 房玄齢等に謂いて曰く、「(前略)恒に公等の情を尽くして極諫せんことを欲す。公等も亦た須く人の諫語を受くべし。豈に人の言の己の意に同じからざるを以て、便即ち短を護りて納れざるを得んや。若し諌めを受くる能わずんば、安んぞ能く人を諌めんや」。


 貞観中、太子承乾数々礼度をかき、侈縦日に甚し。太子の左庶子于志寧、諫苑二十巻を撰して之を諷す。是の時、太子の右庶子孔よう達、毎に顔を犯して進諫す。(中略)対えて曰く、「国の厚恩を蒙る。死して恨む所なし」。諫諍愈切なり。(中略)太宗並びに之を嘉納し、各々帛五百匹・黄金一斤を賜い、以て承乾の意を励ます。


 愚人云、

 『貞観政要』には、為政者の非を諫諍する臣下の姿と、それを受用する為政者の姿が描かれている。愚人は、日蓮上人は、為政者を諫諍する臣の姿を自身に投影し、それを受用する太宗(為政者)に北条時頼を投影して、諫暁に及んだのだと思う。
 それは、「言いて用いらざれば、則ち相継ぐに死を以てす。」との決意であり、 「国の厚恩を蒙る。死して恨む所なし」との心地であったと思う。

 この板の投稿で、「為政者に対して『汝』という見下した言葉を使うわけがない」というような意見があったが、日蓮上人の諫暁が「強諫」「極諫」「死諫」であれば、仏法の道理の解らない愚かな為政者(愚人)に対して、日蓮上人(聖人)が敢えて「汝」との語を使用しても不思議ではない。仏法の上で言えば、聖者が愚者を戒めるのだから。

 なお、仏法の上で聖者が愚者を戒めることも諫暁というのは、『開目抄 下 』に、


 又今よりこそ諸大菩薩も梵・帝・日月・四天等も教主釈尊の御弟子にては候へ。され
ば宝塔品には、此等の大菩薩を仏我が御弟子等とをぼすゆへに、諫 暁 して云はく「諸
の大衆に告ぐ、我が滅度の後に、誰か能く此の経を護持し読誦せん、今仏前に於て自ら
誓言を説け」とは、したゝかに仰せ下せしか。


との文から肯定できると思う



[168] Re: URL一部欠損?

投稿者: 妙介(管理人) 投稿日:2017年 1月 2日(月)17時18分14秒   通報   返信・引用 > No.167[元記事へ]

> 現代諸学と仏法の「(9)天台の全面受用と日蓮大聖人」を開くことができません。
>
>
アップロード漏れでした。
ご指摘ありがとうございました。

http://imachannobennkyou.web.fc2.com/120.htm



[167] URL一部欠損?

投稿者: 何故 投稿日:2017年 1月 2日(月)15時25分58秒   通報   返信・引用

現代諸学と仏法の「(9)天台の全面受用と日蓮大聖人」を開くことができません。




[166] 学員様

投稿者: 妙介(管理人) 投稿日:2017年 1月 1日(日)23時11分45秒   通報   返信・引用

あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。

ご質問の件ですが、現代初学と仏法に3巻4巻があるという話は聞いたことがありますが、
出版されたという話は聞いたことがありません。

いつの日か、世に出ることがあるといいですね。



[165] 現代諸学と仏法ⅢⅣⅤ

投稿者: 学員 投稿日:2016年12月30日(金)11時06分34秒   通報   返信・引用

「現代諸学と仏法」には、Ⅰ、Ⅱ以外にⅢ、Ⅳ、Ⅴがあるとの情報がありますが、
その真偽について、何かご存じではありませんか。
是非、入手したいと思っていますので、入手先・入手方法なども、よろしくお願いします。

 Ⅲ 分別と無分別
  序 虚妄法か真実法か──無明と法性
   (1)智法・境法、知る法・在る法──その一
   (2)智法・境法、知る法・在る法──その二
   (3)<感じて知る法>──虚妄法との繋がり
   (4)<宗>を分別化したのが<教>──分別は必要最少限にせよ
   (5)<在る法>の種々相とその問題──無明と法性
   (6)六師の法と釋尊の法──六師義を仏法の中へ持込むな
   (7)<在る法>の一断面──善神・悪神・邪神
  1.待絶という立行事法
   (1)<相い待つ>とは          (4)分別と無分別、言語道断・心行所滅
   (2)出所は法華の正統          (5)分別虚妄と無分別
   (3)待対を絶する無分別な体得事法
  2.否定とはどんな事
   (1)存在者の相と性での有無       (4)竜樹の実践の積極性
   (2)無と否定の働きの違い        (5)釋尊仏法は消極的か?
   (3)否定論法──最も強烈な表現     (6)体験での否定操作の裏付け
  3.遍く法を破せ
   (1)相待説には限界が有る        (5)仏と衆生の差別と無差別
   (2)無分別の一心法界へ         (6)九界の十如と仏界の十如
   (3)妙は法の根源            (7)『摩訶止観』──究極は一法成乗観
   (4)刹那一念の三千具足
   4.因果の浅深と本迹
   (1)<宗>とは因果修業なり       (4)久遠元初の行と位
   (2)縁起因果と行道因果         (5)凝縮して一点化した刹那一念
   (3)究極は個人の一念の因果       (6)時間の装いによる仏身の本迹
  5.分別・無分別間の自在な往復
   (1)知覚における前意識的抱き込み
   (2)無分別での識と色との相依
   (3)曲者──感覚領域の実体化
   (4)法界と合一する──決定の一心
   (5)分別から無分別へ(自行)、無分別から分別へ(化他)
   (6)自他の異体と同心
  6.観心と五重玄義と論理基礎論
   (1)カントとニュートンの理解      (4)<体>──非実非虚の構造体
   (2)ルールの働きかけで得られるロー   (5)<名>──表現の限定作用
   (3)仏様は縁より──止観と妙法
  7.可見・不可見と実相妙法
   (1)顕形二色と一色一香無非中道
   (2)草木成仏と一句万了の一言
   (3)諸法実相での相依
   (4)久遠元初の縁起──六大縁起・有情非情に断絶なし
   (5)不一不異──宇宙と我れと縁起法
  8.妙法の本有常住とは
   (1)働きかけによる存立         (5)縁起しない妙法は無い
   (2)法の空と無願と立願         (6)妙法は<主観の妙法>ではない
   (3)物理的な決定論で見るな       (7)ロジック(論理→認識)からレンマ
   (4)縁起と妙──可思義から不可思議へ      (直接把握法理→体得)への<脈絡>
  9.無量義と一法との相依
   (1)不滅不生──死んで滅せず生まれて生ぜず
   (2)発生説は不可・死は経験出来ない   (5)有限と無限──その対応
   (3)妙法は自然存在か          (6)無始久遠は時間ではない
   (4)一元に非ず多元に非ず
  10.生死と因果と無明の滅開
   (1)形而上学判断をやめよ        (5)灰身滅智──ゼロにはならない
   (2)常の因果は乗り越え可能       (6)自在の生死──現在の唯今を見よ
   (3)生死そのものと輪廻         (7)業・輪廻・十二因縁と法華法門
   (4)滅は開くという事
  11.業はどう在るか
   (1)身・口・意の三業          (4)死後の在りようと三相三身
   (2)業因・業果・業報          (5)一切諸業は三千を出でず
   (3)空存という状態での連続
  12.寿量──この体得すべきもの
   (1)生死の実体化            (4)実証と現証──成仏と非成仏
   (2)確信の論理的基礎──四句百非の操作 (5)如来寿量品が説く所
   (3)断続して三世に連続する無為の法   (6)分別・無分別の総括

 Ⅳ 形而上学諸概念の追放
  1.忍びよる実体と本質
  2.無我説は我を抹殺するか
  3.有我──無我──空我──中我
  4.法華の我と無自性なものの縁起
  5.自己同一の問題
   (1)七識に成立する<知られざる虚妄な自覚>
   (2)見る働きにおける差別的否定作用
   (3)自己同一は純粋な判断
   (4)無にして有なる自己同一
   (5)不一不異・不断不常と自己同一
  6.実体も本質も共に自己同一か
   (1)仮名であることに基づく循環規定
   (2)実体から離れて現象と結びつく本質
   (3)本質はどこに成立するか──時間か、空間か、概念か
   (4)カテゴリーの果たす役割
   (5)感覚世界における個の不変と脈絡関係による普遍
   (6)概念化されてどこにでも入り込む自己同一
   (7)記号の指示関係による自己同一の解明
   (8)自同(分別)から縁起へ、無分別の大地へ
  7.本質という概念は成り立たない
   (1)事物が性質を担っているのか
   (2)十如是の構造を持つ縁起体
   (3)<可能態>を双遮双照すれば
   (4)一と多、同と異の相即へ
   (5)理存在・思考存在としての形相と質料
   (6)<イデア、形相、質料>と<本質、実体>
   (7)ゲシュタルト図形とプラトンの質料
   (8)架空概念の最後の砦

 Ⅴ. 形而上学の位置と役割
  1.ギリシャにおける形而上学の自覚
   (1)存在論のよそおいと認識の追放
   (2)形而上学と論理学との繋がり
   (3)古代インド・アーリア思想の源流── 一神教
   (4)東西の社会情勢と思想
   (5)ギリシャ人の具体的なものへの志向
   (6)アリストテレスにおける「存在を存在として」
  2.一人称の自覚世界へ
   (1)一人称の世界へ
   (2)近代における認識批判と理性の実体化
   (3)思惟の一人称世界への不徹底
   (4)認識論から自覚論へ
   (5)包み包まれる相依世界
   (6)世界は総人口の数だけある
  3.内観による形而上学的手法と現象学の立場
   (1)問いの無限性と法執
   (2)一念三千の構成における形而上学的排除
   (3)形而上学と内観の手法
   (4)内観における見ることと働きかけること
   (5)超越的根源とは一人称世界のこと
  4.受持即観心と体内の形而上学
   (1)十界論──主客未分のいかに有るか
   (2)縁覚の制約と菩薩への志向
   (3)宗教への通路としての良心
   (4)最高善の中味たる妙法
   (5)妙法の流通分

以上



[164] 「蘇生への選択」

投稿者: 妙介(管理人) 投稿日:2016年11月19日(土)20時44分47秒   通報   返信・引用

ようやくアップが完了しました。

ずいぶん遅くなってしまいましたが、福島さんもきっと喜んでくれていると思います。

誤字・脱字等にお気づきの方はぜひお知らせください。

http://imachannobennkyou.web.fc2.com/1000.htm



[163] 蘇生への選択

投稿者: 妙介(管理人) 投稿日:2016年11月15日(火)19時20分20秒   通報   返信・引用

ここしばらく、頑張ってアップしていましたが、
ちょっと、仕事のほうが忙しくなってきたので、
しばらく中断します。

年内には、完了させます。

http://imachannobennkyou.web.fc2.com/index.html



[162] アスタラビスタ

投稿者: 法介 投稿日:2016年11月 1日(火)06時26分30秒   通報   返信・引用   編集済

|
>妙法は「無分別」ですが、
>無分別は「妙法」ではないのです。

そんなことは分かっておりますので
ご安心ください。

いい加減、意識を自分の方に向けられては如何ですか



[161] (無題)

投稿者: 妙介(管理人) 投稿日:2016年10月31日(月)23時44分32秒   通報   返信・引用

妙法は「無分別」ですが、
無分別は「妙法」ではないのです。

日本人は「人間」だけれども
人間は(その全てが)「日本人」ではない、といった感じの
ロジックでしょうか。

法介さんにわかってほしいけど、
無理なら、それはそれで私にはどうしようもないことです。

今すぐには無理でも、5年後10年後には変わるかもしれません。

アスタラビスタ、ホウスケ!

http://imachannobennkyou.web.fc2.com/index.html



[160] (無題)

投稿者: 法介 投稿日:2016年10月31日(月)23時18分44秒   通報   返信・引用   編集済

|
「それは何か・と言うと、一念三千という総体者を無分別なる一念の信(心行)で表現する唱題行(言語道)です。
 これは主語・述語・繋辞(判断詞)を分持っていないで・各語が互いに扶合う表現・こういう無分別表現で表現されている妙法主題の五字七字です。」

この文から石田氏が無分別を一念の信(一念三千しいては妙法)だととらえていることは明確です。
ですから、「コップの水を飲みました。私と水は一体となりました。これが無分別です。」
という妙介さんの説明文をさして
石田さんは無分別を妙法と言われておりますが
それが妙法ですかと言ったまでです。

そういったことも理解出来ていない今の妙介さんと(執着が激しくて物事を正しく判断出来ていない)
いくらお話しても無駄なような気がしますので
これにて失礼致します。



[159] 第一章 「主観と客観」

投稿者: 妙介(管理人) 投稿日:2016年10月31日(月)22時23分38秒   通報   返信・引用

第一章 「主観と客観」

1.人の癖(くせ)


http://mh357.web.fc2.com/1-1.html

法介さんは、「外道義」という言葉はその言葉の内に相手に対する侮蔑を含んでいるので、
自分はあえてその言葉を使わず「客観認識」と言い換えて、相手に対して配慮していると言っていました。

下記が当該部分です。

>そして現代人が今、最も侵されている悪しき癖がある。それは「客観認識」である。

> 物事を客観的に捉えてしまう癖で、その癖は世界中に広まっている。

>日本にその癖が広まり出したのは明治初期、そう文明開化の波に乗って西洋から一気に押し寄せてきた。
>物事を客観的に認識する事で科学や哲学、医学も成り立っている。

これは石田次男氏の「六師義は正理でしょうか」の次の部分の焼き直しです。

『ところが歴史は思いがけない転回を示しました。なんと六師外道の法門が現代に復活したのであります。というのは、明治時代になって、文明開化の波に乗って、西欧から六師法門そのままのギリシャ哲学…両者の骨格は全く同じ…が日本へ移入されて、行き渡った学校教育を通じて日本人の頭の中へ染み込んでしまったからであります。我々正宗信徒の頭の中へも、もちろん染み込んでしまったからであります。私達はこの一大事態に果たして正しく気付いていたでしょうか。気付いて用心してきたでしょうか。残念な事に、そして悲しい事に答えは「ノー」です。私が知る限り、ほんの一人二人の他は、すべての人々が、ギリシャ哲学・つまり装いを変えた六師外道の思想のまま、信仰を続けております。つまり、内正外邪・内勝外劣なのに、驚いた事に『内外一致』の信心をしているのです。』

法介さんは、まずここでつまずいています。
法介さんは、良かれと思って「六師外道義」を「客観認識」と言い変えたのでしょうが、
そもそもここが、間違いの始まりかもしれません。

「客観認識」自体は悪いことではありません。客観認識というものを通じ、
お互いが合意することで、言葉を通じたコミュニケーションがはかれます。
物事を客観的に認識することにより、科学が発展し、人々の暮らしは豊かに楽になりました。

仏法者にとっても「客観認識」は必要であり、重要なことです。
自分自身を、客観的に見つめることにより行える反省もあると思います。

結論を述べます。
「客観認識」がダメなのではないのです。
仏法を解釈するときに「仏法が客観的に実在している法則だ」と思う事がいけないのです。

法介さんの間違いの基本構造は「分別・無分別」の時と同じです。
法介さんは、仏法が世俗を否定する時の否定の勘所というところを、よく理解できていないようです。
仏法は世俗を抹殺否定しているのではありません。
分別にしろ客観にしろ、それが世俗の範囲内で有効に使われているところまで、
否定している訳ではないのです。

実際に法介さんにお会いした時、法介さんは、まだ「現代諸学と仏法」を全部読み切っていないと言っていました。
何はともあれ、一回は読み切り、さらに、世間に向かって何か言いたいのであれば、
さらに2~3回は読み込んで、しっかり理解してからにしていただきたいと思います。

すでに削除されていますが、法介さんは、「石田次男氏の名誉のために」といった書き込みをされていました。
私(妙介)の所論は間違っており石田次男氏の名誉を傷つけるものだ」といった内容の書き込みだったと記憶しております。

私はそれを読んで空いた口がふさがらないほどの衝撃を覚えました。

法介さん、ご自分が正しいと思うなら、どうか逃げずに反論してください。
法介さんが正しいのなら、反論し論破できるはずです。
どうか、よろしくお願いします。

http://imachannobennkyou.web.fc2.com/index.html



[158] 私と法介さん

投稿者: 妙介(管理人) 投稿日:2016年10月31日(月)21時15分7秒   通報   返信・引用

2016年9月のある日に、法介さんは我が家に電話をして来ました。
私は、以前「成仏しようぜ!」というHPをやっていたのですが、
法介さんは、その頃の読者らしく、
ネットを検索して、私の電話番号を探し当て、電話して来たそうです。
私のHPに触発され、学会をやめ、法華講もやめて頑張っているとのことでした。

私は、私のHPがきっかけとなって、宗門・学会の外道義混入の問題を認識され、
学会をやめ、法華講もやめて頑張っているという人が実際にいるということに、
非常に感動しました。

私はその当時、「破邪の欄室」というところで、書き込みを行っており、
そのことを法介さんに伝えました。
法介さんもその板に参加されました。その時のハンドル名が「法介」です。

その辺が引き金になってか、法介さんは「桜梅桃李」というHPを立ち上げられました。
それを読んでみると、「分別・無分別」の解釈等、かなり初歩的なところで、
法介さんの仏法理解はつまずいてしまっている、ということが分かりました。

10月16日に実際に会って話し合える機会があり、延々13時間以上話し合いましたが、
合意に至りませんでした。

法介さんは、創価学会の間違いにも宗門の間違いにも気付かれ、
その上で、本門戒壇の大御本尊様への信を失っていない・・・、
本来なら意気投合して「ごもっとも、ごもっとも」と理解し合えるはずの間柄ですが、
上記の「分別・無分別」への解釈の違いで、そうはなりませんでした。

これからしばらく、法介さんの「桜梅桃李」に掲載してある文章の、
誤解からくる間違い部分を、指摘訂正していきたいと思います。

出来ることなら法介さんにご納得頂き(その逆でも可)、
心の底から意気投合できる、友達になりたいと思っています。

http://imachannobennkyou.web.fc2.com/index.html



[157] 大変申し訳ありませんでした。

投稿者: 法介 投稿日:2016年10月30日(日)19時42分30秒   通報   返信・引用   編集済

|
メールと掲示板の両方で連絡しておりましたので
うっかり掲示板に妙介さんの本名を記載して投稿してしまっておりました。
妙介さんに指摘されるまで気づかずにいました程、
メールと掲示板が頭の中で混乱してしまっていたようです。

大変申し訳ありませんでした。

直ちに関連投稿を削除しました事を
お詫びと共にご報告させて頂きます。



[156] 掲示板を再開しました。

投稿者: 妙介(管理人) 投稿日:2016年10月30日(日)18時47分58秒   通報   返信・引用

掲示板を再開しました。

ご意見のある方は、ご自由にどうぞ。

http://imachannobennkyou.web.fc2.com/index.html



[155] HP立ち上げ

投稿者: 妙介(管理人) 投稿日:2016年10月 9日(日)12時07分31秒   通報   返信・引用

管理人です。

資料提示用の簡易のHPを立ち上げました。

「現代諸学と仏法」も目次から各ページに飛べるので、

便利だと思います。

http://imachannobennkyou.web.fc2.com/index.html



[154] 現代諸学と仏法

投稿者: 妙介(管理人) 投稿日:2016年10月 8日(土)20時32分21秒   通報   返信・引用

現代諸学と仏法



[153] はじめに

投稿者: 妙介(管理人) 投稿日:2016年10月 8日(土)20時27分48秒   通報   返信・引用

はじめに



 仏教一般の知識の内に<分別虚妄>という事が有る。「若し衆生・虚妄の説に因って法利を得と知れば(如来は)宜しきに随って方便として則ち為に之を説き給う」(『涅槃経』)・「故に知らんぬ迹の実は本に於いて猶(なお)虚なり」(『法華文句記』)と言う様に、「分別(直接判断・叙述判断・反省判断、一般に判断)というものは、得道に取って、時機相応の無分別法を説く分別以外は全て虚妄だ・と言う。してみれば、分別に対して万人が取るべき態度は、非離非著・亦用亦離・亦離亦明・という所か。

 この様に分別一般は・命題の真偽に拘らず全て虚妄だ・と言う。この対話は<内外相対論>という仏法の入口論であり、極意に立入る事は極力避けた。この点で分別虚妄の部に入る事になるが、極意の力を借りて分別を蘇生させ、それによって所述の真実を確保した積りである。

 ではその極意が意図する所は何か。『像法決疑経』には言う「文字に依るが故に衆生を度し菩提を得」と。「若し文字を離れば何を以ってか仏事とせん」である。この意図の下、虚妄性不可避の分別ではあるが、常に非著非用の方便として闊達に駆使される。

 我々もこの意図の万分の一を見習いたい……との願いに基づいて、この対話では、仏法としては一番当り前で・然も最も基礎になる部分を論じ合った積りである。ではその入口論の所詮は何か。それは<諸法因縁仮和合・万法無実体無本質>の一言に尽きる。そしてこれが世間では難解とされる所である。

 無実体・無本質・は・実体・本質と相対して初めて成立つ考えであって、一般に外なる道では<実体・本質>を説き・内なる道では<無実体・無本質>を説く。この両者の比較を<内外相対>と言う。相対して捨てるべきを捨て取るべきを取れ・と教えているのである。この相対論が仏法の入口である。入口が解らなければ一切は解らない。

 <分別虚妄>とは言っても、それだけで尽きそれだけで終わるものではない。何故かならば<虚妄>とは<真実>と相い対して初めて成立つ概念だからである。ではその<真実>の方はどうか。

 『法華経』には言う。「我れ方便を以って……この因縁を以って虚妄無し」と、『涅槃経』には「願わくば諸(もろもろ)の衆生に悉く皆・出世の文字を受持せしめん」と、天台大師は言う「文字は三世諸仏の気命なり」(『摩訶止観』)と、「釈迦牟尼世尊・如所説者・皆是真実」(『法華経』)と。

 ここに<分別真実>が在る。分別の中でも仏陀の秘妙方便の分別は<真実>である。<実語>である。実語は魔も破壊(はえ)すべからず……この真実の力を借りれば分別は生返る。双照建立の分別として蘇生する。妙とは蘇生の義なり・と言う・宜(むべ)なる哉。

 言語(仮名分別)の問題さえ解決されれば既存の哲学諸問題は大半程解消してしまう・と言う。論理実証主義者から始まった現代の論理基礎論は、この事を明白に示している。蘇生分別……ここに足場を置いて、分別虚妄を承知の上で敢えてそれをしよう・というのが本書である。「説を離れて理無く・理を離れて説無し」(『止観』)だからである。

 本書には一つの目標が有る。それは人類が三千年以上もの長きに亘って・産み出しては執著し続けて来た古い形而上学諸概念への批判である。こうした物事の見方考え方への批判である。執著は一切諸苦の母体となる。離れるべき諸執著を明らかにし、捨てるべき執著は敢然として捨てなければならない。

 竜樹という人は、形而上・形而下を問わず、<概念>なるものは皆・頭から信用しなかった・と言う。概念操作つまり・名辞の連鎖から成立つ諸命題を生(産)み出す・その能生(のうしょう)の根源となる反省法しか信用しなかった・と言う。

 見様見真似でその後を追おう・という訳でもないが、兎に角・古来の形而上学諸概念を現代の光で照らし出してみよう・というのがこの書の元意と申し述べて置く。現代人における実体概念の多様乱用がこの事を思い立たせて呉れた。

 形而上学諸概念を主語に立て……この主語は外延を持ち得ない……それへ相反する述部を付けて作った二命題は、論理上どちらも正当に成立する……つまりアンチノミー(両断)が発生する・と証明したのはカントであった。彼は学者であったからそこで踏止まった。竜樹は学者ではなく実践家であったから、論争相手に「汝の大前提を放棄せよ」と迫って止まなかった。

 この実践一途の精神は後年・中国の天台智者大師の己心の中に鮮やかな大輪の妙華となって咲き開く。「摩訶止観」第七章正修止観の四・破法遍(法を破す事遍ねかれ)がそれで、中には「法は知るべく学ぶべく著すべからず」の大見識が開示されている。

 学べば著し親しめば著するは凡夫の習い世の習い、<信>と<著法・著人>とは全く異なる事態であるのに、世上この二つが何と混同されている事か……。保身・出世に利用すべく、万々承知で著愛する例もまた何と多い事か。自己満足の著人法では話にもならない。

 大見識はまだ続く。智者大師は<疑いの三義>(『止観』)という事を指摘して、自(自己)師(自分の師匠)法(親愛すべき法)の三を挙げ、妙楽大師は「信受すべき師法の二は、事前にまず大いに疑って正邪を明らかに見極め、選び取ってから信すべきである」事を説いた。

 三疑を釈して妙楽大師は「自身に於いては決して疑うべからず、師法の二は疑いて後まさに決すべし。……。正法正師決定せば其の時に三疑は永く棄つべし」(『弘決』)と述べた。既存の学説に対しても今後の学説に対しても、それに接する求法の人の態度は正にこれでなければならない。この意味において私共二人のこの論文はまず大いに疑って貰いたい。その上で若しも疑う余地が無くなったらその時は認めて頂きたい。”不疑曰信”ではなく無疑曰信を旨として読んで頂きたい。

 形而上学的手法と形而上学とを混同してはならない。客観一般に対して、内観する点で仏法は一部分・形而上学と同じ手法を取るが形而上学ではない。終点無き<無形存在の学>……形而上学という橋は六道を横切る”三途の川”を渡る為に架けて在るので、その上に立ち止まれば害を為す。

 形而上学は形而上学の領域に閉篭る間は、常に無用無益な認識に転化して・存在意義を失うだろう。おもえば宿命的な学問である。万学の王は大王では有得ない。形而上学を学ぶ者はこの学の領域から抜け出し脱皮して、必然的に信仰という実践の舞台へ進み入らねばならぬ。

 この事からして当然の帰結が出て来る。それは、仏法を形而上の雲の上に祭り上げている世間の常識は丸きり誤っている・という一事である。だからこそ諸学との比較をしてみたい・というのが言いたい事である。これも分別虚妄・乃至・真実の内ではあろうが敢えて指摘して置きたい。



   昭和五十三年八月





 仏教とは如何なる事であるか。喧しい内部の詮索を抜きにすればこれ程自明の事は無いであろう。つまり・抜苦の為に、悟った仏陀が仏の方から迷っている衆生の方へ<悟りへの道筋を教え示す>という事だからである。

 結果は與楽(よらく)となる。三世の諸仏は皆そうなのだが、この為に仏陀は悟ったその刹那から衆生の方へ面(おもて)を向け変えている。その仏陀に取っては(初めに中道在りき)である。これを果位の立場と言う。

 これに引替えて衆生の方はどうか。衆生の面(おもて)は人により時により・あちらへ向きこちらへ向いて一向に定まらない。<初めに迷妄在りき>という態(てい)である。こうした衆生の手中には<虚仮(仮有)>しか無い。だが発心するや否や仏道修行の仕始めから仏陀へ面を向け変えている。これを因位の立場と言う。

 こうして仏陀と衆生との<対坐>が成立する。仏は衆生の方へ慈悲と無上無分別智慧つまり般若の光を投掛けて、道を照らし衆生を励ます。衆生はその光に導かれて仏の方へ真直ぐに視線を向けて進み出す。因から果へ……これが衆生の取るべき・取得る・唯一の道となる。

 無明即明とは言うが、私も衆生の一人であるから<初めに迷妄在りき>どころか、今でも迷妄在りきという儘で生きている。こうした自分が、照らされている光を遡って・迷妄の因位から果位へ向けてのコースで、内外相対の諸問題を見よう・というのがこの対話である。これも反省の所産というものである。従って当然の事では有るが、<仏の方から衆生を照らす>方向の論議はほぼ一切を省略する事にした。従って欠落が大きい事は謝って置かなければならない。こうした欠落部分はそれぞれ別の資料から得て頂ければ幸いと思う。同趣旨で・修行論・倫理論・実在論・なども全的に省略した。

 本書の路線は竜樹と天台との・それも主に天台の立場に敷いた。然も智解の理・中心の迹門に敷いた。『法華経』の解釈は天台大師によって究竟せられ・加減すべきものは何一つ無い・と言う。その『法華経』を巡る名著・三大部は古今未曾有有の書であろう。

 この『玄義』や『文句』に説かれている様に、天台においても・仏から衆生へ・と施設した路線(本門)が元意であろうが、本書ではそれも採らない。『止観』が教える様にひたすら<衆生から仏へ>の路線で話を進めた。多謝の所以(ゆえん)と謝りを申し上げて置く。

 従って路線が著しく片寄る事も・話が数学みたいに無味乾燥になる事も承知の上・という積りである。理屈過剰で飽きが来るであろうが、拙いながら<内外相対とはどういう事か>の課題に取り組んだ積りである。全文を文底義で読んで頂ければこの上無い。

そして更に、副次目標として<四句分別の取扱い>というテーマを取り上げた。これ無しでは内外相対が論じ難い(にく)いのである。四句(四論)に就いては・インドの昔から・使用形式が・習慣的に・或る型にほぼ統一され(本文第二章参照)ていた様であるが、古来の一様式に固執し囚われなければならない必然的な理由も見当たらない。私なりに組替えた様式にして提示した。試論であるから、刺戟になって、四句の研究が進んで行けば有難い・と思う。

 話の内容はなるべく仏教学の手法で行きたい・と思ったが、そうばかりは出来なかった。仏教学にはそれなりに縛られる約束事が有るからである。客観研究の約束事に縛られると、肝心の仏陀の真意から遠ざかってしまう欠陥も生ずるのである。仏教学では宗派の意見に縛られる事からは免れるが、その逆も又起こるのである。須らく令離諸箸を旨として行こう・と思った次第――。

 論理学の側面に力を入れたが、自分は斯学に就いては素人にすぎない。そこで、厚かましい事だが、本橋氏の伝手(つて)を頼って、五十六年にその道の権威であられる末木剛博教授(東京大学)に原稿の御目通しをお願い申し上げた。入院の為に原稿の清書も一部しか出来ない儘、失礼をも顧みず、手入れだらけの・本当に読み難(にく)い原稿を提出申し上げた事を誠に心苦しく思う。改めてここにお詫びを申し上げる次第である。

 それにも拘わず先生には快く引き受けて頂き、後日に色々・訂正と御教示とを与えて頂いた。又この事とは別に、各大学の仏教学の諸先生方にも色々と有益な御意見を伺う機会を得て有難い事であった。各先生によって私と本橋とが知らなかった数々の事に気付き得たし、蒙を啓き誤りを改める事が出来て何よりも有難く思う。ここに先生方の御好意に厚く御礼を申し上げて微意の一端と致したい。

 各先生方の御意見・御指摘に鑑みて、私達なりに自明と思っていた為に省略していた事も・改めて説明する必要がある・と反省した。この為に事後に大幅な説明の加筆をした部分も多くなった。又、先生方の御意見に対して、恐縮ながら意見を異にする為に、その理由や根拠を明らかにすべく加筆した部分も沢山生じた。その結果、末木先生に御目に掛けた原稿からは大幅に改まった事を先生へ御報告致し、感謝申し上げると共にお詫び申し上げたい。


 長年の経験から思うのであるが、仏教を取り扱うにせよ信仰するにせよ、案外入口の所で躓いてその儘押渡って行く事が多い様に見える。この入口の所というのが内外相対……内外を比較検討して充分に弁(わきま)える・というその事である。

 この・入口での躓き・は今に始まった事ではなくて、釈尊の厳戒にも拘らず・仏教二千五百年の歴史の中で多々見受けられたし、我が国では明治以来のギリシャ哲学の影響その他によって、今でもやはり沢山見当たるのである。私と本橋とが意図したのは・その歯止めを試みよう・という事であった。

 まだ色々問題は在ろうし、本書の中にも若干の誤り・間違いの類い・はまだ在ろうか・とは思うが、それでも大方の目的は達成出来た・と思う。菲才を顧みずやたらと論旨の枠を拡げたが、要は<内外>の一点をしっかり受け止めて頂ければ望外の幸せである。後は全て読捨て忘れて下さって大いに結構・と思う。

 対話を終え文を整理して振返れば、まだまだ論旨単調であった・との反省も有る。然しこれ以上分量や時を引延ばしても仕方が無い・という想いも有る。目を通して下さる方々には、本書を起点として、これ以上の意見を世に出現せしめられる要切にお祈り申し上げる。

 「後生(こうせい)畏るべし」と言う。今はこの事の将来における可能を深く信じて筆を擱きたい。弟子菲才の身ながら、恩師戸田城聖先生にこの一書を捧げて不肖のお許しを乞うものである。

石田

  昭和五十八年十二月
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[152] 目次

投稿者: 妙介(管理人) 投稿日:2016年10月 8日(土)19時18分21秒   通報   返信・引用

目次

はじめに

序 第一原理考争

1 科学の眼・哲学の眼・宗教の眼

(1)歴史に果たした役割
(2)物理学者の哲学志向
(3)物理的世界観での第一原理
(4)客観性への執著と限界
(5)主観要素の影響
(6)前提は常に問い直される
(7)内観における約束事

2 法身中心は一応の話

(1)認識が先か存在が先か
(2)自覚への勧め・自覚への学び
(3)仏法は反省自覚法――自覚の上での認識論
(4)存在論者が陥り易い執著の穴――法身中心主義
(5)如来秘密(体験)と神通之力(表現)

3 インドの伝統――<分けない>流儀

(1)自覚中心の相補関係、仏法・哲学・科学の相補
(2)真理と法・仏(覚者)――第一原理
(3)縁起は法の根幹――法は縁起の焦点
(4)信と批判精神――不疑と無疑
(5)実体か非実体か・正論因果――内外相対という事

Ⅰ 仏法と論理学

1 世法と仏法と空仮中の三諦

(1)仮名(名辞)と存在との自動対応はナンセンス
(2)概念虚妄・分別虚妄・文字は三世諸仏の気命
(3)命題界の違いで論理は分かれる
(4)世俗は<究極の真>ではない
(5)真ではないが使わなければならない
(6)三諦の基本的意味
(7)<待>と<対>との違い――絶待と待絶
(8)円融三諦しかない――破立・遮照・中道――現量・比量・思量
(9)科学的形而上学的存在論の乞食スープ
(10)反省自覚の道筋――縦型縁起法

2 主語世界と述語世界と反省世界

(1)縁起仮有の主語世界を述語し反省する――その一
(2)縁起仮有の主語世界を述語し反省する――その二
(3)仮(主語)空(反省述語)一如の円融中道
(4)主語・述語と五蘊説
(5)主述分離への終局的な問い

3 三諦論と判断論

(1)論理学は進化する――思惟を反省する学問
(2)繋辞、存在判断・叙述判断・概念
(3)判断は理智作用ではない――判断は意志の行為
(4)空仮中は判断である――概念や・事物の性質・ではない
(5)三諦の空仮中は反省判断の繋辞
(6)無上智慧による脈絡世界での状況叙述
(7)中の実体化と無分別
(8)性は体に内属しない――体その儘が性
(9)三諦の概念化と真徳への転換
(10)空仮中と有無の二道――本覚真徳の実際

4 哲学の行手を示す判断論

(1)唯識の沿革と基本
(2)著有と五性各別という悪義
(3)八識から出る判断する意志と寂静の九識
(4)無量世に於ける眼根の因縁は――妄念を生む五蘊の心作用
(5)見る識も見られる色も仮和合
(6)心は但是れ名のみなり――無所有不可得
(7)判断における虚妄と真実
(8)判断の経験的下部構造
(9)判断の限界と循環問題

5 様相論理及び因果説

(1)有無の確率論的操作等としての多値へ
(2)何か(状況)・何故か(因果)・如何にあるか(様相)
(3)因果と縁起と空
(4)仏法は二因二果――因果は実体ではない、関係である
(5)縁起因果は無窮因果――根本原因・究極結果は断見

6 帰納・演繹・弁証法

(1)多から一へ(帰)・一から多へ(命)
(2)仏法の演繹的側面・帰納的側面・類推的側面、一念寂照
(3)反省的否定操作のオルガノン
(4)対話における弁証法
(5)己心の自覚にのみ成立する矛盾
(6)妄語か実語か――論理の課題
(7)反対解釈に堕るな――虚妄仮は反省材料

あとがき

Ⅱ 四句分別という論法

1 四句分別の起源と概観

(1)仏典は四句分別で出来ている
(2)西洋式に合理化した解釈
(3)弁証法こそ四句分別の一特殊形態の様なもの
(4)釈尊も外道も用いた四論
(5)六師の四論の用法は?
(6)倫理的な<中>を考えた人々の国土世間
(7)四句分別の概観
(8)<絶言の四句>の意味
(9)論理性の自覚

2 レンマ(論法)の構造と自覚の展開

(1)三諦(悟り)有っての四句分別(表現)
(2)四句分別と山内得立氏の正論
(3)非有非無(空)から非空非有・亦無亦有(中)の帰結へ
(4)レンマを繋ぐ否定関係
(5)論理学論理との違い――その一
(6)論理学論理との違い――その二
(7)『涅槃経』に就いての理解――その一
(8)『涅槃経』に就いての理解――その二
(9)縦型縁起法の表現形式
(10)包括的な四句分別と弁証法との対応

3 四句分別と形式論理と非縦非横

(1)矛盾とは何か、なぜか、どのように
(2)矛盾しない<矛盾の眞相>
(3)<矛盾>は良心と智慧との勲章
(4)非合理世界の律法<選択>
(5)形式論理と四句分別は排除し合わない――その一
(6)形式論理と四句分別は排除し合わない――その二
(7)不可説を因縁あるが故に説く
(8)形而上論議は通用しない
(9)四句分別と円融中道

4 因明と四句分別との変遷

(1)竜樹以前と竜樹以後――古因明から新因明へ
(2)古因明は”ボロ”い――仮言三段論法の類推推理
(3)新因明は定言三段論法の演繹法
(4)解脱用の四句分別と『法華経』
(5)『法華経』の特殊性――大綱と網目
(6)爾前の経は『法華経』を離れず
(7)一代説法本来一経
(8)序・正・流通・三段の脈絡
(9)天台の全面受用と日蓮大聖人
(10)転迷開悟は否定(反省)から肯定(自覚)へ
(11)無分別を分別表現するオルガノン

5 『中論』の中の四句分別

(1)不生不滅か不滅不生か
(2)一に待するものは二か多か
(3)同一律の否定・自己同一の否定――不一不異
(4)無常→縁起→無自性→空→中の構造
(5)竜樹の武器・第三レンマ<空>
(6)縁起法(諸法・事象)は無自性(無実体・無本質)だ
(7)言説の仮名と化他の力用
(8)<縁起→無自性>は世法、<→空>が仏法――縁起・無自性・空

6 中道論――慧文・南岳・天台・伝教

(1)中道に待する相待の仮説――<空>
(2)二境智即一の智法を<中>と言う
(3)空即中の根拠を追えば
(4)三諦を暗示する三法印
(5)真理論としての如実法――法の無常と無性
(6)有無二道本覚真徳とは!?

7 客観理論の範囲内での事例

(1)四句レンマの部分的事例
(2)時間と空間の理解
(3)特殊相対論・一般相対論の場合
(4)出来事としての有無と素粒子の振舞
(5)宇宙の内外・表裏

8 四句分別の総括

(1)理論が脱線していないか
(2)使用と形式――原型と使用・その応用型
(3)存在判断から反省判断へ――虚妄と建立・その異同
(4)事と理と百非洞かに遣る中道
(5)止観明静前代未聞――聞香討根



[151] 序 第一原理考争

投稿者: 妙介(管理人) 投稿日:2016年10月 8日(土)19時09分31秒   通報   返信・引用

序 第一原理考争



[150] 1 科学の眼・哲学の眼・宗教の眼 (1)歴史に果たした役割

投稿者: 妙介(管理人) 投稿日:2016年10月 8日(土)19時08分31秒   通報   返信・引用

1 科学の眼・哲学の眼・宗教の眼


(1)歴史に果たした役割

(石田) これから現代諸学と仏法についての話を始めたいのですが、つまりは一番新しい所と一番古い所とを交互に照らし合わせてみる訳です。それには、仏法を内道・内教・内学とし仏法以外を外道・外教・外学と呼ぶ古来の仕来りに従って、お互いを比較して優劣を考える・という、この<内外相対>の手法で行きたい・と思います。 従って、内道の学的内容へ立入る事になっても、極意に立入る事は極力避けて参ります。ですから、この対話から仏法の奥底を得よう・というのは勿論無理ですが、その助けにはなる・と思います。そういう事で、話の流れがどうなって行くかは判りませんが、何分宜しくお願いします。

(本橋) 御期待通りに話を運んで行けそうも有りませんが、こちらこそ宜しくお願い致します。それで、現代諸学というと、「自分は大学へ行かなかったから……」とか、「高校へも行かなかったから……」と敬遠する向きも有るかもしれませんから、なるべく砕いた話で参りたい・と思います。大学へ行ったとしても、文科・理科・医科など皆・分野が違っていて、専門以外は大学だ高校だ・と騒ぐ程違いの有るものではない・と思います。

 仏法は本来難しいもの・と相場が決まっております。その難しさは、経文の様に用語が古い為の難しさと、常識とは違った路線から言表(げんぴょう)している事による難しさと、修行路線での難しさ……体得の難しさ・との三通りが有る・と思います。前の二つの難しさは、この対話ではなるべく砕いて参りますから、過大に考えない方が良い・と思います。

 易しいものだったら論じ合う必要も無い事です。読者にしても、難しいから張合いを持って読める訳でしょう。

 学歴程度云云・という問題は、何も基本的な条件にはなりません。仏様の直弟子だった阿難・迦葉・目連・舎利弗……、誰も大学は愚か高校にも中学にも行ってはおりません。本人の遣る気の有る無しで会得が決まった事です。要は本人次第です。遣る気の有無です。根気さえ有れば好い・と思います。仏様在世から明治時代迄は、インド・中国・日本で、高校や大学に行った論師・人師や宗徒は居りません。それでも仏法は理解できたし修行も出来ました。この本はなるべく誰にでも読める様に解る様に・と心掛けて参りますから、取越し苦労は要らない・と思います。

 判りました。こちらもその積りで参りたい・と思います。用語なども極力日常用語に添ったものにして行く事にします。専門的な語には説明を多くして参ります。そこでまず、真理の追究・法則の発見・という事の基底を考えてみると、これは統一原理・延いては<第一原理>を知りたい・という事ではないか・と思います。この点はどうでしょうか。

 世の中は個々ばらばらな物事の集りです。一見した所はそうであるだけに、果たしてそれだけなのか。個々ばらばらに見えている諸事象は、統一的に把握されないものなのか・されるものなのか・という原初的な疑問を持つのは当然でしょう。何に限らず学問はそこから芽生えて来ました。統一原理というものは局面局面での第一原理ですから、仰る事はその通りだ・と思います。

 何事にせよ、人は記号・言葉・概念によって意志・意見を交換し合うしか有りませんから、共通の記号・共通の言葉・そして共通の概念・を必要としています。皆が何等かの統一原理・第一原理・を知りたい・と思い合えば、これに対応する為の概念・つまり第一原理概念や、最高類概念たるカテゴリー(範疇)の様な第一概念が要る訳ですね。

 そういう事です。共通項が要ります。又、それらに応じた共通の約束事(エンゲージメント)・共通の了解事項・というものが要ります。

 それに応じて生(産)まれた概念が、神(ゴッド)・本質・実体・形相(エイドス)・質料(ヒュレー)・動力・原因・真実在・などと、様々産まれたのだ・と思いますが、これらの検討は後の事とします。今ではこうした古代からの概念も、永い歴史の諸批判を経て、随分、置かれている地位が変わってしまっています。この意味では、三千年間の思想の歴史は、決して、無駄が多かった・とだけは言えないのではないでしょうか。

 前進も後退もぐるぐる廻りも在ったでしょうが、流れの全体は川上から川下へ、そして大海へと、川幅は小から大へと、常に充実発展の大筋を貫いてきた・と思います。この意味で・統一原理・第一原理・という考えが果たし来た役割は大きなものだった・と感じます。

 事情は東洋でも同じだったでしょうが、暫くは西洋事情を中心に話を進めて参ろう・と思います。

 それが段々と、存在の第一原理・認識の第一原理・などと分化して来ましたから、存在を存在として在らしめるもの・とか、認識の成立根拠・とか、又、存在と認識とはどちらが第一原理か・などが問題になってきました。けれどもとにかく第一原理という着想が、哲学についても科学についても、その今日在る姿の所まで推進して来た・という事は、これは争えないでしょう。不思議なもので、洋の東西・民族のいずれを問わず、昔から何かの第一原理を立てていたものです。

 歴史的に見て、宇宙に第一原理が在るのだ・という考えは、昔から世界中に在った気配が在ります。これが宗教の発生と密接に結び附いた様に見えますが……。

 その動きは、西洋では少なくともギリシャ時代から見られます。紀元前七世紀頃・タレスは水を第一原理に立てたそうですし、東洋でも、インドでは紀元前千年頃・バラモン教が成立して・ブラ―フマン(梵)を第一原理にしていました。中国では歴史はもっと古く、何時頃からかは判りませんが、天地根元の玄気とか太極とか天神・皇天上帝とかいうものを立てていました。エジプト文明はギリシャのよりももっと古いのですが、文献が残っていないので今の所不明です。太陽か何かだったろう・と思いますが、遺跡の解明が進めば、恐らく第一原理が在った事は立証される・と思います。一通り文明が型を持つ様になった所では、何処でも第一原理を考え・求め・崇めていた様です。

 梵(ブラーフマン)は我々にとってお馴染みのものです。世界の根本的創造原理・宇宙の最高原理・を意味する・インド・バラモン思想の中心概念です。人間及び万物の実体であるアートマン(我)と結び附いて・梵我一如・の思想を生み出しました。

 ギリシャでは・形相・質料・動力・この三つについて三派の自然哲学者が派閥を作り合って、形相派から幾何学が生まれ・質量派から原子論や物理学が生まれ・動力派から力学……そして後世の熱力学へ・と発展してきますが、この途中へキリスト教が創造神を持込んで来ました。中世の<普遍論争>ですが、あれも第一原理論争の一種の変形です。これは長い間延々と続きました。ルネッサンスの基の一つにもなりました。

 古代から中世に掛けては大まかに見てそうでした。下って近世へ入りますと如何でしょうか。

 一番手っ取り早いのが、神が第一か・物質が第一か・という一七世紀以来の議論になって来ますが、その元を尋ねると神が第一原理になっていた訳です。それが中世の普遍論争で・スコラ学者の普遍論者(実念論者)が、「普遍は只の音符だ」と主張する唯名論者に負け、ルネッサンスから又段々と無神論が復活してきます。こうして、神を除外して科学が自分の領域を設定し、神抜きの領域が出来ますが、その物理学なら物理学の中で、やはり、第一原理は何か・と言ってしつこく追及して行った・無意識的・又は意識的・な学者の行動の積み重ねが在るのではないでしょうか。



[149] (2)物理学者の哲学志向

投稿者: 妙介(管理人) 投稿日:2016年10月 8日(土)19時04分18秒   通報   返信・引用

(2)物理学者の哲学志向

 宇宙を扱えば、一方は思弁対象としてのコスモス・一方は認識対象としてのユニバース・に分かれます。こうして哲学的世界観・物理的世界観・が出来てきます。一時は哲学的世界観の方は大きく後退して、物理的世界観の方が華々しく取り上げられた事も在ります。日本では終戦直後の一時期十年程がそうでした。

 宇宙観・世界観・人生観、この三つは何時でも離れ難く結び附いて来ました。どの民族でも世界創成談・国土創成談の類いは持っていた事がそれを裏付けております。日本では古事記の中で語られている訳です。つまり最初は神話の形で語られ、段々と合理的に考えられて物理的世界観・宇宙観へ到達してくる訳です。

 その点は民族を問わず形が共通しております。

 これらは、<神と人と自然>の三者の関連から語り始められて、段々と神が追放されてきて、合理性が高められると共に、人や個物は、宇宙の中の対応物と密接に実質的な連絡が有る・と考えられて来た訳です。人間は小宇宙だ・と言う主張はここから来ております。そして<宇宙即我れ>と言う考え方になって参ります。こういうものとしての宇宙・に関する<宇宙論>の一つの特徴は、「どの様に生まれ、どのように今日の姿に到達し、将来はどの様になるのか」という歴史的展開に興味が集中しているのだそうです。

 宇宙には秩序が在る・という事は、月や太陽の巡り合わせで一月・一年が出来たり、或いは月の満ち欠け・海洋の潮の干満・四季の巡り合わせ・雨季乾季の整然とした到来・等々から、どの民族も物理的に知っていた事です。コスモスとは元意は<秩序>という事ですから、思弁宇宙はコスモスと名付けられましたが、この名付けの中にすでに物理的世界観・宇宙観が根付いていた・と言うべきでしょう。神話の殻が脱ぎ捨てられるのは時間の問題だった・と言うべきでしょう。昔の学者は物理などと哲学とを兼学しておりました。ギリシャ時代からそうでした。

 何か実用に迫られて研究する・というのは技術者の仕事であって、これはまだ本当の学者ではない訳です。本当の学者は已むに已まれぬ探求心から研究しているのでしてこれは誰が止めても止まるものではありません。ですから昔から科学者はそれなりに哲学者でしたし、哲学者も又それなりに科学者でした。例を挙げればきりが有りませんが、物理の圧力に関する<パスカルの原理>(水圧機の原理)の発見者パスカルは立派な哲学者でしたし、ニュートンは物理学者であって哲学者でした。彼の物理体系は永い間・物理学的宇宙論の最終的な説明・として信じられて来た訳です。

 ところが今世紀前半に相対性理論が発見され、殆ど平行して素粒子の発見からミクロ世界の物理学が開けて、ついに物理帝国主義時代などという言葉さえ出来た位ですから、哲学的世界観へも革新的な大影響を与えた訳です。そればかりか、そうした物理学者が、進んで哲学的世界観を述べる・という風潮があるのは面白い事ですね。

 私は終戦の時には内地に居たので復員が早かったのですが、帰ってすぐ、新しい思想が欲しくて神田の本屋へ行きました。ところが敗戦直後でめぼしい本など何も無くて、棚さえがらがらでした。やっとマックス・プランクの『物理学と世界観』というのを見附けまして、喜んで読んだものです。この学者は、物理学の立場から・決定論と非決定論との両立・を説いて「紳士淑女諸君、神を信ぜよ」と言っているのです。それでも当時の私には新鮮な学説でしたので、意までも記念として、このザラ紙に印刷された本を大事に持っております。

 物理帝国主義といえば、これと並んで理性万能主義や知性万能主義も在りました。然しこれも・行き過ぎだ・と盛んに反省されているのが現代ではありませんか。でも仏法の方では、理性や知性を欠いた仏法や反省自覚の修行は在りませんから、理性・知性は極めた大切です。

 事実、理性や知性を欠いた人は反省しませんし、仏道修行には仲々馴染めません。情念ばかり発達した理性や知性が後退している人は、仏法には本当に融け込めない・というのが経験上・統計的な実情です。それでも仏種を下して遂には得道させる仏法が在るのですから、これは有難い事です。

 日本では湯川秀樹博士も世界観についての論文や本を出しております。或る本によれば、物理学界全般の風潮・というものが在って、湯川門下生達も、ハイハイと師匠の学説に従っている・という様なものではない。それ以上の発想をして、それ以上の発見をして、それ以上の世界観を創り出してみせるぞ・という気概に燃えているのだ・と在りました。

 とにかく湯川博士は、西洋の哲学も東洋の思想も読みこなしているのでしょう。有名な話に、素粒子と時空間が分割出来ない領域……素領域の考え・を説明するのに、李白の詩「夫れ天地は万物の逆旅にして光陰は百代の過客なり」を持ち出した・などというのが在ります。当然、長い間の第一原理論争など、精密に内容を知っている・と思います。
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[148] (3)物理的世界観での第一原理

投稿者: 妙介(管理人) 投稿日:2016年10月 8日(土)19時01分34秒   通報   返信・引用

(3)物理的世界観での第一原理

 アインシュタインは、後期になるに従って、この天地宇宙の第一原理は<構造>である・四次元時空構造である・という風に考えた・のではないでしょうか。運動から力の概念を排除して・宇宙内の運動を時空の幾何学的構造で統一しよう・というこの試みは、実際には未完成の儘終わりましたが、ともかく、究極は構造だ・という執著心が在った・のではないでしょうか。

 湯川博士は、一般相対論について、少なく共その構造主義を疑っている事はほぼ間違い無い様です。では全面的に否定的に疑っているか・というと、そうでもなさそうです。理論の辻褄が合っている訳ですから……。

 そうしますと、一般相対論の客観的実在性・という問題はどうなりますか。

 特殊相対論ならばあれで完璧だ・と思いますが、一般相対論になると、客観的実在性・という問題は<回転運動>で説明の付かない所が出て来る・と言います。運動は相対的なものだ…という事になっています。然し回転運動は絶対性が残る・という疑いが出て来る・と言います。 回転では、一点で以って回転という事は無い訳です。少なく共面積か体積かを持たないと回転ではないでしょう。生ジュースを作るジューサーの大きいのを作って、水を入れて回転させる・とします。すると水は渦を巻きながら中が凹みます。 この<凹む>という<位置の変化>は、見掛けの上では、外からの引力や何かの力には全く左右されずに、この回転自体だけで起こる訳です。相対する相手を必要としていない訳です。

 もっとはっきりしているのは、台所の下水の流し口で見られます。廃水は人手で回転などさせなくても、勝手に回転して渦の真中が凹みます。

 そうするとこの<凹む>という変化・運動・渦の中の各部分の位置の移動、これらは自動的に起こって来るのであって、相対的なものではなく、これ自体・運動として絶対性を持っているのではないか・という疑いが出て来る・と言うのです。この問題提起が物理学界に拡がって、今尚未解決のアポリア(難問)になっている・というのが常識の様です。

 その実験は、空間や運動が・完全に相対的だ・という事は有得ない・と考えたニュートンが、絶対回転を示すもの・として指摘した思考実験・として知られているものです。

 然し<絶対>と附けてしまうと、これは運動の実体化・ではないでしょうか。客観実在性・という思考が危険なのです。勿もこれは哲学サイドからの反省なのですが……。

 客観実在性・という事自体の考察は、最早速物理学を離れて哲学が取扱う分野になります。一般相対論に対して必ずしも全面的には賛同しない人が居る・という事は、物理の内の事として、論証や・現実との対応・に関する分野の事でしょうが、問題は論証の方にではなく・実証の方に残っている様です。そこから、一般相対論の完全性・がまだ疑問の余地を残しているのでしょう。

 もう一つ、一般相対論には、次のような問題が有ります。元々マクロ世界の法則だった一般相対論が、ミクロ世界の理論に直面して発生した問題なのですが、四次元の時空連続体というのは、素粒子や場に対して、運動の領域を提供しているだけなのか・それとも時空連続体が捩れた結び目に素粒子が発生するのか・という。時空と素粒子とどちらが第一原理か・という類いの疑問が在る様です。

 してみると、何処迄も第一原理が顔を出して来る事が判るでしょう。湯川博士の<素領域>という事の提唱は、それへの解答として、時空構造と素粒子との未分の分野を提案しているのでしょう。そうなると今度は素領域が第一原理の座に着く訳で、やはり第一原理が幅を効かせている事になります。

 物理学の中で、そういう第一原理性を持った客観的実在・を追及して行く事が、一つの方向として、どの程度迄・許される・とすべきなのでしょうか。

 それは、お互い合意出来るコモンセンスの領域の中でしょう。物理学は演繹的帰納法の領域ですから、その中・という事になりましょう。その枠内のものとして仮説に迄及んで好い・と思います。

 論理というものは、多様を統一する所にその機能が有りますが、諸科学にせよ物理学にせよ、現象の多様を論理的に統一する所に客観法則が獲得される訳です。その法則が妥当する適用枠が大きいほど・その法則は有意義性を高めます。

 法則妥当の適用性がミクロの素粒子からマクロの星雲に迄及ぶ様な統一的な原理が樹立されたら、それは必ずや第一原理の座を占めるでしょうが、論理学の方から言えば、<外延>(共通の性質を持った個物群)の大きいものは<内包>(各個物に共通する性質)が薄まる・という事も在りまして、今の様な巨大な法則・というものは、案外に中身が薄いのではないか・とも予想される訳です。こうなると第一原理として相応しいかどうか・判らなくなります。



[147] (4)客観性への執著と限界

投稿者: 妙介(管理人) 投稿日:2016年10月 8日(土)18時54分5秒   通報   返信・引用

(4)客観性への執著と限界

 最近では、素粒子はクォークという更に小さいもので組立てられている・とされ、クォークは今の所・三種類発見されているそうです。このクォークが物質の基本単位だ・とされていますが、それでも尚これさえ内部構造か転換構造を持っている様だ・とも言われています。

 根源的な基本単位を設定する考え方は、これは第一原理思想の産物だ・と思います。然もクォークは客観的実在です。この様に客観性の世界で、一つの部分的な真理・部分的な法則、そういうものを追求して行く手段としてならば、第一原理思想は結構な事だ・と思います。


 そして今度は、非合理領域へ入って、実際の人生論・生命論・生活論・の上から行くと、それは寧ろ執著の一つ・ではないでしょうか。天然自然の第一原理など在るものか・という気がします。第一原理とは人間が決めるものであって、人間の意志に関わりの無い・自然存在的な第一原理など在る筈が有りません。

 物理というのは客観領域の学問でしょう。その中で第一原理と言っても、行き過ぎると無理です。第一原理は人間が決めるのであって、人から離れて、客観世界にそれとして自在する訳ではありません。この点、精神よりも物質優位を言う唯物論の根拠は崩れております。

 客観という事が、人間の意志を抜きにした領域・での見方ではあっても、実際の生活の上では、人間の意志というものは何処迄も附きまとう。物理を研究するのも、我々は物理を研究するのだ・という意志が有るからこそ遣っている訳です。

 ところが人間は、各人の意志からは離れた客観実在・というものを考えたくなるものです。この客観実在を宇宙大に推拡げていくと、<独立外界>などというものが出来てる・のだと思います。

 このレーニンの独立外界は「意識の外(そと)に在る」と定義されていますが、意識は空間でも空間的物理的なものでもありませんから、空間の様に内や外など在りません。「意識の外(そと)」という言葉が抑も言語使用上の誤りで、それに連れて<独立外界>も正しい概念としては成立致しません。


 正にその通りです。いずれ後で詳しく申し上げますが、客観実在・と言っても、それは一応の約束上の名付け方なのでして、本当は、観測という手段を通じて<見られたもの>として以外に、<在る>と指示できる物事は無いのです。

 更には<見る体系>が、観測体系とそれを働かせる手段とを通じて見た所の<見られた体系>以外に、<在る>と指示できる物事は無いのです。でも、客観という事に誰でも執著したくなる心情は判ります。

 何故客観に執著するか・と言うと、客観性を明らかにしないと共通の通話が出来ない・からです。主観と主観とでは噛合わない所が九分九厘でしょう。

 共通性が無ければ人と人との意見の疎通が出来ない・でしょう。そこで、自分の好き嫌いや意見を一応引っ込めて、それらに直接拘りの無い分野を表面に押出して、これによって共通の対話を成立たせます。その為にはコンセンサス・同意・合意というものをそこに結んで行かなければなりません。

 そこで客観性が大事なのですが、だからと言ってそれに拘(こだわ)ると、そこが終着駅ではない・という事を見失ってしまう。すると客観から生じた<実在>という・この<考え>への執著が起こり、これが又・終着駅だ・と思込まれてしまう。これが困るのです。

 それでは、人間の意識を超えた客観実在を追及する方向が、最後に怪しくなって来た段階で、どういう様に処理をすれば好いのでしょうか。

 客観の場合には、如何なる学問の分野でも、未解決の領域は必ず常に残ります。幾ら天才が出て来ても永久にそうです。これは<客観>という遣り方そのもの自体が持っている限界です。この限界を心得る事が処理法になりましょう。

 客観を立てないと・学問・特に自然科学は成立たない。これも学問の宿命ですね。立てれば立てたものに縛られる。これは人の側の問題です。

 宿命です。客観は、対象の周りをぐるぐる廻りながら・無数に視点を作って眺めて行くでしょう。これによって・見えた限りの条件を集めて、再び対象を構成仕直す・という手段を取ります。これが・分析→総合(再構成)・という事でしょう。

 これによって、分析前の対象と再構成し総合された対象とは、カオス(混沌)と判明との関係に立つから、その限りでは有益性を生じましょう。その記述は合理的予見を持つから<法則>と言います。

 これは即ち、未知な対象を既知な説明で置換える翻訳作業・でしょう。個を普遍で翻訳する訳です。バートランド・ラッセルが「普遍概念を許さなければ個の説明が出来ない」と言ったのがこれです。

 客観法則の<抽象性>はそこから起こって参ります。普遍の導入が、普遍性をもたらすと共に抽象性をももたらします。

 以上の手続きは、特殊を、概念という普遍記号・符号・知識・で置換えるから、再構成された概念と元々の対象とは・完全に一致する訳には行きません。重ねてみて、そのズレてはみ出した所がアポリア(難問)として残ってしまいます。ここが客観の限界です。何度掘り下げ直しても事情は又同じ事です。



[146] (5)主観要素の影響

投稿者: 妙介(管理人) 投稿日:2016年10月 8日(土)18時50分53秒   通報   返信・引用

(5)主観要素の影響

 色々な科学の中で、物理学は主観の影響が一番少ない分野である・一番厳密に追求出来る学問だ・と言われて来ました。という事は、客観性が一番確保されている・という事ですが、この点はどうでしょうか。

 長い間そう言われて来ました。ところが素粒子論の発達がそれへ横槍を入れてきた訳です。

 素粒子の運動を観測すると、当てた光が素粒子運動の中へ重要な要素として参加してしまう。光は客観存在でも、どれ位の強さ(質)の光をどの位(量)当てるか・は観測者の主観が決めます。光を当てない事には観測が成立たないのですから仕方が有りません。

 そこで<不確定性原理>(運動量の不確定度X位置の不確定度=プランク常数・という原理)というものが引出されて、これが物理理論の一方の旗頭の様な位置を占めてしまいました。

 結局、マクロの世界から誕生した一般相対論と、ミクロの法則の主役である素粒子とが、物理理論の中で出逢って、再び第一原理論争へ火を付けた格好になっているのは、客観世界へ主観の要素が権利を主張して入って来た様なものでしょう。未解決な新分野が生まれたのは、これは偶然な事ではありません。

 それでも客観的学問性が一番厳密にやれる領域だ・という点はどう見るべきでしょうか。

 大昔では、エイドス派の幾何学が一番厳密な学問だ・と思われて、宇宙は幾何学的エイドス(形相)を実体とする・と思われていました。今の一般相対論の時空構造第一原理は、或る意味で昔のエイドス実体論へ戻った様でもあります。

 これは面白い事です。或いはアインシュタインの頭の中に・この昔の事・が在って、その応用的な気分が・時空構造論の主張・として出て来たのかも知れません。この推測は多分当たっているだろう・と思います。

 まあ、それはそれとして置いても、物理学の場合は、帰納して行って、蓋然的な法則から必然的な法則の方へ・と一方的に進んで行くでしょう。不可逆にこの一方向へ進みますから、一番厳密な科学だ・と言われてきたのでしょう。

 古来、観測や実験は、始めは大雑把でも段々正しさの確度が高まって行って、偶然性から蓋然性へ・蓋然性から又高まって行って必然性の方へ・と一本道を進んで行く。これが現象を煮詰めて行く観測とか実験とかの遣り方でしょう。

 今度は、それを表現する理論とか法則・の方は主に数学を使う訳です。数学は計算ですから、否応無しに一意的必然的な結論へ導いて行くでしょう。確率論的な素粒子の世界でもそうなります。絶対的必然迄は到達しないだけです。

 観測や実験は帰納の面・表現する計算は演繹の面・両方合わせて演繹的に帰納法の世界が構成される。これが物理学の世界ですから、古来、最も厳密にやれる自然学だ・と言われてきました。物理は統一法則や第一原理を見つけ易い分野だったのです。

 その同じ物理学の中に、無秩序の度合いを表わす<エントロピー>という概念が在ります。熱力学の第二法則から導き出された概念です。熱であれ何であれ、自然界は黙って放って置くと、段々秩序が崩れて・諸状態が平均化してしまう。一方的に秩序から乱雑へ・と進んでその逆は起こらない・と言う。

 これから見れば、物理学の法則追求は・偶然→蓋然→必然・の方向を辿る・としても、その対象である自然界は、寧ろ、エントロピー増大の法則・に従って、必然→蓋然→カオス(混沌)の方へ・と進んでいる事になります。

 そうなれば、エントロピーの法則が第一原理として宇宙を支配する様でもあるし、カオス化が徹底すれば第一原理も何も成立たなくなるでしょう。話はあまりにも遠い未来かもしれませんが……。


 エントロピーという唯一の窓口からだけ見れば、自然界の遠い未来像はそうならざるを得ません。それに連れて物理の法則性も無に帰して行く・と言うしか有りません。四劫説の・成・住・壊・空・の内の・住→壊→空・の過程を能く示しています。でも、宇宙や大自然界は、果たしてエントロピー第一原理の支配下に在るものかどうか・はまだ判ってはいないでしょう。天文では重力(引力)がそれに逆らっています。

 星間物質が引合って新しい星を生み出したり、回転し合ったり・がそれですね。これは四劫説の内の・空→成→住・のコースを示しています。エントロピーの”マイナス”を引力の”プラス”がせっせと埋めている形です。

 少なくとも動植物の生活・人間の生活・だけはエントロピーに逆らって遣っています。自然界の現象は放って置けば均一化の方向へ進みますが、人間が物事に手を加えれば又逆戻りします。整理という作業がこれです。

 例えば、この皿の中の煎餅も、今こうしてごちゃごちゃ混沌としていても、手を加えて並べ直せば整然と規則的に並びます。エントロピーは減った訳です。その他一般に動植物の身体はエントロピーを減らす方向で生育して行っています。

 物質とエネルギーだけを考える狭い立場からすれば、際立った状態(秩序)から有触れた状態(乱雑)へ・というネガティブな形にしろ、秩序という事に関係が有るエントロピー概念の登場は、一歩・秩序という枠を食み出した方向を示している訳でしょう。

 そうですが、このエントロピーの増大の仕方も、数式で表現される様に秩序性を持っておりますから、乱雑度の進行も秩序に則(のっと)って現れます。裏で秩序性が糸を引いている・という事です。

 結局、秩序と乱雑さ・とが相寄って現象しますから、一概に極め付ける訳には行かないでしょう。そのどちらを窓口にして現象を追及するか・は人間の主観が関わって来ます。この辺りにも主観要素の影響が有りそうです。こうして、主観要素の影響・というものは、ぼんやりしていると見過ごし易くても、以外に色々と沢山在るものだ・と思います。



[145] (6)前提は常に問直される

投稿者: 妙介(管理人) 投稿日:2016年10月 8日(土)18時47分54秒   通報   返信・引用

(6)前提は常に問直される

 人間の行為によってエントロピーを減らす事が出来る・これは当然ですが、チンパンジーが毎日巣作りをするのは、枝を折られる樹木側ではエントロピーは増え、巣作り行為の側ではエントロピーは減ります。生命現象の自然過程も又・その様に出来ております。増減相伴っております。

 更に、単細胞から多細胞へ・植物から動物へ・という進化や生長の過程も、乱雑から秩序への、エントロピー減少の変化が営まれています。これを理解するために、物理学者のシュレディンガーは「生物はネグ(負の)エントロピーを食べて生きている」という表現をしました。


 生物を理解する場合は、そういう方向を考えざるを得ないでしょう。生物はそのように出来た身体を持って生まれて来ています。それが土台で行動でもそうするのでしょう。物の結晶から単細胞へ・という生命発生の過程を考えてみると、物質も又チャンス次第では「負のエントロピーを食べている」のかも知れません。

 とにかく、エントロピー・エネルギー・素粒子・四次元時空構造・その他・そのどれか一つだけで宇宙万象を一つの統一的な理解に纏め上げよう・というのは一元論思想ですが、そうしようとしても、これは神様でも出来ない相談でして、終点が出来てしまっては、物理学進歩の安楽死を意味します。

 それはどういう事ですか。

 客観的な現実世界についての理論としても、<唯一を以って万象を統一理解に纏める>という事が原理上不可能なのです。すべてを外延に含む事は、無分別になってしまって外延が無い・事ですし、内包の方は<法の中味>が全く無い事になります。分別ではなくなります。

 次に、客観世界は相対世界であって・絶対世界ではありません。相対世界なのに、唯一が在って・二も三も無い――この状態は絶対世界ならば在る――という事は、相対性を失って、その<唯一>も又消えて無くなる・事だからです。

 これは哲学サイドからの反省ですね。了解致しました。

 第一原理思想からして一元論指向なのですが、一般に・こういう一元論思想には、それが、<妥当であるかどうか>という問題と、<何処迄妥当か>という問題と、果たして<好もしいものかどうか>という疑問とが付いて回る・と思います。

 でもこれは哲学分野の問題になってしまいますから、ここではこれ以上触れません。一元論に対しては二元論が在ったし・現に在るし、又、弁証法的反省として、一元論に対する<反>の提唱が必ず有得る・事だけを申し上げて置くに留めましょう。

 先程、自然科学の中では物理学が最も厳密さを保ち得る領域であって、偶然性から必然性の方へと辿る・という話が在りましたが、生物学の場合はどうでしょうか。

 生物研究では・必然性・という事はもっと少なくて、蓋然性の・確度の高い所・で留まらざるを得ないでしょう。生物学基礎論のそれぞれの立場には、相当に主観要素が入ってくるでしょう。ダーウィンの進化論がその一例です。

 生気論の場合は類推法でやりますが、一番新しい現代の生物学という事になれば、これは機械論でして、演繹的帰納法で研究を進める・のだそうです。この生気論と機械論との総合はまだ未解決だそうです。

 あらゆる自然科学は、客観の領域ではありますが、元々・主観の領域と客観の領域とを・画然と切り放しが出来る・という考え方自体が、第一原理みたいなもので、限界が在る事です。仕方が無い事です。

 物理学では、一応、そういう事が出来る・という前提の上に立っています。ところが、その前提が、最後の所で怪しくなり、逆に困難な問題となって現れて来ます。前提が逆に難問化して現れる・のはどの科学でも同じでして、数学でも、今でも未解決の問題が、数学基礎論の中に可成り在るのではないですか。

 そう言われております。数学基礎論や論理基礎論は、最早単なる科学ではなくして、哲学の分野にも跨がり入るのでしょうが、それはさて置いて、何時でも既存の前提を問い直して学問は進むのでしょう。

 有名な思考実験ですが、放射性元素の崩壊によって、一匹の猫が、半身は完全に死んで・あと半身は完全に生きている、決して気息奄々・半死半生・呼吸(いき)断え断え・などではない……という<シュレディンガーの猫>(量子力学のパラドックスの一例)の話が在ります。

 こういう所に来ますと、最初に前提して置いた、人間の意識と客観対象とを切放せる・という前提が怪しくなって来る訳です。又、そうでないとすれば、その適用範囲は何処から何処迄か・という風に・結論や法則を導入するのに使った論理法を検討せざるを得ません。

 そうです。前提を反省し再検討するか、論理法の適用範囲を見極めるか、いずれかの作業が必要になります。極限迄来ると、どうもそこに不可解な所が顔を出します。だからそういう際の解決法として、アドホック(便宜的)な仮説を設ける・という遣り方も在るでしょう。

 行き詰まったら・便宜的な前提条件をとにかく付加えてみる・という仕方です。これを付加えてみて、それで一歩でも二歩でも前進できたら、次はアドホックな仮定をなるべく消去する様に努力する……こういう学問の遣り方が在りましょう。これも前提の問直しの一例です。



[144] (7)内観における約束事

投稿者: 妙介(管理人) 投稿日:2016年10月 8日(土)18時44分45秒   通報   返信・引用

(7)内観における約束事

 アドホックな仮定で処理しよう・というのは、科学の限界を押拡げて行く努力だ・とも言えそうです。然し科学としては、限界そのものを撤去する方法は無い訳です。

 そうです。限界は常に付纏います。それで気に食わなければ、対象の外からぐるぐる回って眺めるのを已(や)めて、対象の中に入って内観(反照観察=反省の事)し、共感して味わうしか有りません。これは最早科学を已めた事を意味します。科学からの脱出です。

 不可避な限界に遮られ、対象を知り得る限りは知ったが尚知り尽くせない。これは苦しい事です。学者に付き纏う必然的な苦悩です。知の対象は無尽ですから……。

 こうしてみると、つきつめて再応の所からすれば、第一原理というものは、実は客観の対象の中には在り得なかった・厳密には客観の領域中には在り得なかった・という事がはっきりしませんか。客体の中に真の第一原理は無い。これは大事な事でしょう。

 又、学者には、知って知り尽くせない苦悩が附纏う・という宿命的な点ですが、これは哲学者でも同じ事です。学者の宿命・限界です。反省は別ですが、知る事・思考・推理・推論・にばかり閉篭ると、逆にそれに縛られて身動き出来なくなります。

 人間は学者で留まってはいけない・と言うのはその辺の事情なのでしょう。科学者や哲学者が、学者として色々考え、深い意見を発表しても、結局は、対象について、記号・符合を積重ねて<普遍>の遣繰りの世界をぐるぐる回っているに過ぎません。これが盲点です。

 これでは迷いの六道輪廻の方程式そのものです。科学者は勿論の事、哲学者が哲学者として留まっている限りはそうなります。観察と思考との間を往復している間は、結局は終点が得られずに循環してしまいます。


 自分を研究対象にして・反省でない内観・つまり自己観察・をしても事情は同じです。観察し思考しても、事態は、明らかになっただけで・これだけでは一向に変化も向上も無い訳です。終点無き循環・をするばかりです。でも知らないよりは益しでして、反省への手掛かりには大いに役立つ事になります。

 これに対して、仏法で内観と言うのは、対象の中へ入って黙って味わっている事ではないでしょう。対象の中で対象と反省的に一体化して共同生活を展開する動的な動き、これが本当の内観ですから、内観は学問ではなくて反省生活です。この生活は改良行為という点で修行です。内観は修行なり・です。

 内省や内観は<自分で自分の心理を観察する事>と言うだけでは足りないのですね。世間の定義では大体こんな具合になっておりますが、仏法の場合では・もう一歩・先迄踏込んでいる・という事ですね。

 そうです。押並(な)べて・客観という事は、お互いの共通認識の場を作ろう・という要求から生まれて来た分野でしょう。人間は社会動物ですから、社会生活にはこういう<場>は是非共必要だし有益です。

 でも、お互いに人間には・共通性も在れば・個としての特殊性も在る訳です。個別な意志意欲が在り・感情が在り・癖(習気=習慣的気分・前業の余残気分)が在るのですから、客観ではその分だけがどうしても切捨て・になってしまい、切捨てた不足分だけ生(なま)の人間ではなくなっている訳です。抽象人間に化しています。

 お互いにずうっと話合いをして行って、全てを客観上で合意し尽くしたら、その途端に、共通出来ない・理解し合えない・互いの分野が顔を出して来ます。ここで客観性が行詰ってしまいます。

 二人で同じこのお茶を飲んでみても、どういう風に美味しいと感ずるか、どちらがどの位・より美味しく・感じたのか、或いは不味く感じたのか、これはもう、どう仕様も無い・厳密な比較検討が出来ない分野になります。

 ここは、完全客観化出来ない・感覚や状態や主観の領域です。個人毎の世界・一人称世界です。ここを消化出来るのは内観しか有りません。内観での消化は、比較検討という手段を取らずに反省共感という手法を取ります。ここ迄到達すると、客観的な第一原理は吹飛んでしまいます。

 第一原理の追求・という事は仲々難問を孕(はら)んでいますね。それでも執拗に第一元理を追求せざるを得ない根拠は、最終的には、なにか絶対的なものに寄掛かって安住したい・という・人間の<願望>に在る・のではないでしょうか。

 心理的にはそうでしょう。然もそれは深層心理内での状態ですから、仲々自覚出来ない所に面倒さが有ります。

 話が心理面へ移れば、学問としての領域は、内観を論ずる哲学とか宗教とかへ移行してしまいますが、そこでは客観的な存立としての第一原理というものは無くなるでしょう。

 無くなります。その替りに、人間がエンゲージメント(約束事)として・ルール(規則)として・人手で設定したもの・として現れて来ます。

 物理学で代表される、主観性を出来るだけ消去して・客観的実在性を考えて行く学問・に対して、その反対の方向を目指す学問・も在る訳です。西洋の学問では、ベルグソン、デルタイ・などの<生の哲学>というのが、直感とか表現とかで・生そのもの・を捉えようとして、非合理な認識・を展開しています。

 つまり、<非合理>に第一原理を求めた訳でして、これは批判哲学よりも豊かな内容を持つが、その非合理領域をどう一般化するか・が問題にされています。この学は・客観は裏へ回して・主観の領域を拡げよう・としています。この学は成功している・と言えますでしょうか。


 評価という事になりますと、評者が持っている思想により・立場立場で違ってきますから仲々面倒です。とにかくこれは、生そのものを捉えようという正しい意図を持つ哲学だ・と言われております。人間生活の在り方の生々しさを掴んだ・という点では成功を認めて善い・と思います。

 仏法から見れば、六道の生々しさから二乗独覚の悟りの方へ・と行く方向を取っている訳でして、具体的な生そのものを・生に即して捉えよう・という事で、能く調べておりますが、人生に現実はそれに尽きるものではなかろう・と思います。

 我が国では・芸術関係の人々の中に支持者が多い・とも言われております。学生間では・一度は関心を持つ・とも言われております。

 この説では、自分と他者との十界性・など思いも付いていないでしょう。何よりも欠けている・と思われるのは、有は何処迄も有(実有・厳有)であって、空・という判断・考え方が出来ない所が不足だ・と思います。

 ヤスパースの様に仏教に関わっている人でも、せいぜい二乗界の初期段階・という程度ではないでしょうか。この人は自分の哲学の中に仏法思想を解消しよう・という態度を問題にされています。

 生の哲学・実存主義など、系譜を辿れば古くはなりますが、固まった思想としてはそう古い昔からではなくて、むしろ一九世紀から二十世紀へ掛けての議論でしょう。その祖形の思想としてはキリスト教がそうですし、パスカルの思想などが挙げられますが、他と際立った哲学として登場したのは新しい・と思います。脱俗を目指しています。

 これからも、人の納得を得る様な理論の構築はまだまだ出来るだろう・と思います。脱俗向上の意図は判りますが、でもその研究はまだ世俗の中を領域にしているに過ぎません。それが何時か本格的に仏法と出逢ってみたらどう変わりますか……。ここにも・第一原理を掴み出せるかどうか・という興味有る課題が残っているでしょう。



[143] 2 法身中心は一応の話 (1)認識が先か存在が先か

投稿者: 妙介(管理人) 投稿日:2016年10月 8日(土)18時40分53秒   通報   返信・引用

2 法身中心は一応の話


(1)認識が先か存在が先か

 第一原理論争の中には、昔から・もう一つ面白い論題が在ります。<存在が先か認識が先か>という・優位を争う問題です。この問題を解こう・という動機が、認識論を生み出す一つの契機になった・と思います。哲学の流れとしては、存在論から始まって認識論へ移り、又存在論への志向が芽生える・といった、曲折した歩みを辿って来たようです。

 存在論はギリシャ以来長く哲学界で主流を占めて来て、一六世紀のデカルトから認識論の時代へ入ったのですが、世の中を客観して論を立てれば、存在でないものは無い・から存在優位の考えになります。これは三人称の世界を展開する事になります。

 でも、一人一人の立場から考えれば、認識されない存在は有得ませんから、この一人称の世界では、認識論から出発しないと、存在はどの様なものなのか・さえ判らない事になります。今では一人称世界で、つまり、一人一人の立場での存在を考える・という存在論さえ在るのでしょう。仏法の中での存在論は常にこの立場です。

 いきなり<一人称・二人称・三人称・の世界>と言うと、理解し難(にく)い向きが在りそうですが……。

 一人称世界は<我れ>の自覚領域・二人称世界は<我れと汝>との社会関係の交渉領域・三人称世界は<あれ・それ・これ>という・存在を客観して認識する領域・ですが、論理命題界の三種類の区別を指します。いずれ論理学に触れる章で詳しくやりましょう。そこで正確に理解出来る・と思います。

 認識論とは<自分を含めた世界の全存在は、人間にとって、どの様なからくりで・どの様に認識されるのか>という<認識成立の仕組>を追求する議論ですが、その発展によって、極端に言えば、今は認識論万能の時代を経て来た時代でしょうが、それでも唯物論者ではない反対論者も居りまして、認識自体も一つの存在だから結局は存在論に帰る・と言っております。「認識論の認識関係もすでに一種の存在関係に他ならない」と言うのがその一例です。これも一理有る所です。

 「認識関係も一種の存在関係に他ならない」と言うならば、「あらゆる存在論の一切の存在と存在関係も、全て認識された上での存在・存在関係・であり、一種の認識関係に他ならない」と言返せる訳です。

 両者の違いは、存在を窓口にするか・認識を窓口にするか・の差でしかありません。学の目的によって窓口は違って来る・のです。この<学の目的>を抜きにして優先論議をしても仕様が無いのです。

 現代の哲学が存在論的基調を帯びたのは、現象学派のハイデッガーの<基礎的存在論>の影響だそうです。彼は・存在者を全面的に超越して存在の意味を問うた哲学者です。然しそうだからと言って、存在優位を主張するならば、これも又いけないのでしょう。

 存在と認識は、互いに相手を求め合う事を最小限の充分条件とし・依り合い・によってのみ成立しています。これが<縁起>という事ですが、縁起の関係が崩れたら・両方とも消滅せざるを得ない道理です。客観や交渉は、この一人称の自覚世界の上へ築かれるのですから、誰の認識にも拘らない昔からの存在が在るのだ・と言っても通用しません。

 存在の独存や認識の独存は金輪際不可能です。両者は<相依>の関係になっております。優先関係は認められません。この点から見ますと、縁起(の法)こそが第一原理なのでして、存在も認識も第一原理たり得ません。

 厳密には、存在・と言っていけなければ、存立でも成立でも出来事でも好いですが、歴史上では、長い間、形而上学的な思弁で第一原理を求めて来た・と思います。総じて形而上学は、合理上では肯定も否定も出来ない概念や命題を沢山取扱いますから、気を付けなければなりませんね。

 とにかく、認識が中心か存立が中心か・と、命題の人称を外(はず)してそういう風に論ずる事自体が錯覚ではないですか。ヴィトゲンシュタインが言う<無意味な命題>というのがこれです。鶏が先か卵が先か・という話に似ています。

 五蘊(ごうん)説からしても、色(しき・存立)と識(了別・認識)に後先(あとさき)・第一第二の優劣など在りません。同時に・色に依らない識は無いし・識に依らない色も無い。それ自体として自然決定される中心など有得ないのです。

 存在も認識も第一原理たり得ない。縁起という法こそが第一原理である・という事になれば、存在と認識・更には存在論と認識論との間の優位争いも消滅せざるを得ませんが、そうすると、論としての第一原理の座を占める第三の論が在る事になります。

 そういう言い方になりますと、第三の論というものは確かに在ります。それは自覚論です。西洋哲学では・自覚論・と言えば<自我の自覚>という事になりますが、決して自我の自覚だけが自覚論なのではありません。キリスト教ならば<原罪>の自覚・という<罪の自覚>が在る訳ですし、善悪の自覚・聖俗の自覚・使命の自覚・才能の目覚め・春の目覚め・等々色々在る事です。

 総じてその<自覚に就いての論>というのは合理主義の路線には乗って来ません。従って<自覚論>というのは、論として成立たせるには非常な困難が伴います。

 仏法では・我が身の六道九界を反省して仏界を自覚する事・を目指します。仏法は反省をバネにして・体験中心に・直接手で掴む様に会得し自覚して行くのですから、この意味では明らかに自覚論です。

 縁起法が第一原理だ・という考え方も認識の一つですが、存在も認識も・存在論も認識論も・全てこうした自覚の領域の上に、その上部構造として発生して来る・のですから、この自覚という下部構造を見落としたり除外したりしてはなりません。

 このような反省自覚を説く仏法というものは、仏様が衆生に対して誡めて・反省を求め・自覚を勧(すす)める教法です。従って経文は修行論が過半を占めております。仏法はその上での<智法>です。勧誡二門に立つ智法です。断じて境法ではありません。



[142] (2)自覚への勧め・自覚への学び

投稿者: 妙介(管理人) 投稿日:2016年10月 8日(土)18時35分59秒   通報   返信・引用

(2)自覚への勧め・自覚への学び

 仏様の方からすると、仏教の全体は「この様に修行して苦から解脱しなさい」という大慈大悲(与楽抜苦)からの<仏様からの勧め>です。自覚の勧め・とはこの事ですね。

 この勧めを受取る衆生の方としては「ではどの様に行ずるのか」という事になります。これに対して仏様は「己れの作業(さごう・行為の事)を反省して仏界を自覚出来る様に」行ぜよ・と言う訳です。仏様が大悟以前に反省し・そして自覚して・開悟した経験に基づいて、自分と同じ事を衆生にも「行ってみなさい」と言っている訳です。

 勧める仏様は<反省―自覚>の行を勧め、受取る衆生の方は<反省―自覚>の実現を期して行を励む訳ですから、仏教の<教法の基本オルガノン>たる理論も<反省―自覚>という事になります。八万法蔵も結局は教(理)行(事)共にこの一点に集中している訳です。この一点が<観心>です。

 普通<観心>と言うと、教相に対して観心・と言います。一般に、内観・観心・観念・観法・……。皆ごちゃごちゃに使う傾きが有りますが、本当は整理して理解しなければなりませんね。真の観心は・反省→自覚・でしか得られない。これを<得意>と言いますが大事な事ですね。

 <観心は反省自覚なり>です。推理つまり論理考察からは決して観心は得られません。己心を観じて十法界を見る・そして仏界を得る。これが観心です。信心を以って観心とするのが下種仏法ですが、ハイ・信じました・反省の方はしません・己心に十法界はとても見えません・では観心とは言えません。信心とも言えません。

 仏法では、我が己心(心法)に就いて(就法)反省→自覚で得た<一如の境智=仏界>(巧帰)を<観心>と言い、これが仏道修行の目標な訳です。観心とは・自分の九界を反省して仏界を自覚する事です。この観心は最高の智法です。境法ではありません。

 観法とは・その己心の内容を法(境法)の面で観る・のですから「故に止観に至って正しく観法を明かす、並びに三千を以って指南と為す」(妙楽・『弘決』)という事になる訳ですね。

 「説己心中所行法門……天台の所行の法門は法華経なるが故に、……但己心の妙法を観ぜよ……若し妙法を捨てば何物を己心と為して観ず可きや」(立正観抄)という所を能く考えて見るべきです。仏法は論理(正しくは論法)的にも倫理的にも全て反省自覚法です。智法です。

 普通そこの所が一向に理解されていない様です。仏法は反省自覚法だ・と言うと、何か現代の新説の様に受取られ兼ねません。少し述べて置いて下さい。

 六道九界を反省して仏界を目指し、修行し自覚してそれを得るから・九界即仏界・が実現します。九界を反省して自覚するから初めて仏界の身に成得ます。これ以外に九界即仏界を実現出来る道筋は無い訳です。

 この反省自覚の・道筋と具体策・を教えているのが仏法です。持戒にせよ・禅定にせよ・読誦にせよ、皆その<筋道・具体策>として教えられているものです。三世諸仏と仏国土との関係で仮令教主が替ったとしても、反省自覚・という教えの骨格は変わりません。

 凡(およ)その所は判りますが、それを少し具体的に示してみて下さい。

 例えば持戒を考えてみましょう。これは何も・聖人君子になれ・と勧めているのではありません。施戒とは、防非止悪(戒)で自ら身口意の三業を規制する事に依って、凡身凡心を外側から規制して、規制の強制力で反省させ、その反省をバネにして仏と法とを求めさせ、その求道の力で仏界を自覚出来る様に仕向けている訳です。

 坐禅で代表される禅定修行の場合はどうですか。<定>とは<一心不乱>の事で、何も坐禅だけがその方法になる訳ではありませんが……。天台では・常坐・常行・半行半坐・非行非坐・の四種類の禅定三昧行(四種三昧)を説いております。

 禅定修行で歩行禅をしても坐禅を組んでも同じ事です。心を<からっぽ>にするだけならば只の<お休み>です。ストレス解消の健康法にしかなりません。目を半眼にし・背筋を伸ばして身を不動に保つのは、不動心で心を集中する<目標>を持つ事です。煩悩が乱心を起こしてその<目標>を壊しに来るから、それに負けない態勢を取る為です。

 ですからこれは己れとの闘いです。それで、心を観ずる・といって、自分の心の中の求道心を通して凡心を反省し、予(かね)て教えられていた法理を想起して仏を求めるから・初めて・心を観じた事になります。

 ですから、妙法を受持しない心・では観ずべき対象が無くて、自覚の目標が無い訳です。こうなると、空見に堕して空病患者になってしまうだけになります。事情は読誦受修行の場合も全く同様です。<反省→自覚>が仏道修行なのです。

 これは世間通俗の反省とは凡そ違ったものですね。

 天台はこの<反省→自覚>の道筋を<反照観察>と言っています。『止観』大意章の「心の起こす所の善悪の諸念――に(九界の諸念)――従って無住著の智を以って反照し観察すべし」と言うのがこれです。この<反照観>が反省行です。

 反省するには、筋道・具体策を教えた教理・教法・が是非共必要な事がそれで判ります。この教理・教法という化法に対する化儀が或いは持戒であり・或いは坐禅であり・読誦な訳ですね。これらの行態を貫いているバックボーンが反省行為という事なのであり、これも又智法なのですね。

 口では「反省」と簡単に言えますが、実際には<反省する>という事は実に難しい事なのです。誰でも・自分のした事は・そんなに悪くはない・と思っています。自己辨護の心理がすぐ働くのです。

 世間に向かっては、合理化の口実を付けて誤魔化したくなりますし、自分に対しては慰めの理屈を色々と立て、結局・反省はお座成りで終ります。

 仏法の反省はもっと難しいのです。今の自分はなに界か・を反省するとしても、反省して・地獄・餓鬼・畜生・修羅・という界へ行っては何にもなりません。反省して・人界・天界・二乗界・へ行く事(自覚する事)ならば、仏法は無くても自分の努力で出来ます。

 ところが、菩薩界・仏界を自覚するような反省だけは、仏法無しでは、<教法>無しでは、絶対に出来ない訳です。釈尊以来・時代毎に教法は変わって来ましたが、どの教法でも反省自覚法であったし、この一点は永久不変です。仏法は反省自覚法です。反省自覚の智法です。断じて境法ではありません。

 反省自覚法と言うと、現代の論理学では<論理の限界を超えた・自我の自覚を得る為の弁証法>の事を指しています。仏法のは当然これとは違ったものですが、仏法内に反省自覚という事を教えた用語は無かったものでしょうか。

 梵語のブッダ(仏陀)は漢語では「覚者」と訳されています。これは・悟った人・の意ですが、悟りとは抑も<唯自覚了>の事です。<唯(ただ)自(みずか)ら覚り了(おわ)った人>ですから・唯自覚了の人・が覚者になった訳です。唯自覚了を縮めれば<自覚>という言葉になり、これが現代でも盛んに使われている訳です。

 今世間で使っているのは西洋哲学が入ってきた明治以降の風潮で、儒教の筋から取入れて<反省>と語用をしている・と思います。仏教の方からは来ていない・と思います。江戸時代の朱子学に語源が在ったのではないでしょうか。

 それはともかくとして、<反省>の方は<省=顧=かえりみる>から現代用語として使われる様になりましたが、昔では<沈思量知>がこの意味でした。この沈思の思は思或の思――これは<情>の意――ではなくて、内省・内観・自己反省・の事です。量知は・はか(量)って知る・事ですから、沈思量知は<反省知識>という事になります。

 沈思量知を縮めて<思量>という用語が在り、「此れ即ち不可なり――何(いか)に為(せ)ん何に為ん学者思量せよ」(末法相応抄)という風に使われていました。「学ぶ者よ反省しなさい」と言う訳です。ですから漢語の筋からすれば、「仏法は反省自覚法だ」と言うのは「仏法は沈思量知唯自覚了法なり」という事になります。

 この<思量>は『法華経』方便品等にも盛んに出て参りますが……。

 この思量の<量>(プラマーナ)というのは、仏法を含めたインド哲学での・大事な概念の一つ・でして、<認識根拠・認識手段・認識作用・これらの結果である知識>という意味を合わせ持ちます。

 量論はインド論理学の中心問題であり、仏法論理学(因明・いんみょう)では、認識成立への与件としては、主体与件として<識>を挙げて、<根境識>(十八界)を論じます。<識>の基づく感覚機関が<根>、根の対象が<境>です。こうして知った知識が<量>です。

 インド論理学では、こうして知られた知識は、正しい推理知としての正知も・反省して知られた観知も・どれも皆・解脱へ向けられ、<解脱という目標に添うべきもの>として心得られるのが特徴です。これは西洋の論理学には無い特徴です。



[141] (3)仏法は反省自覚法――自覚の上での認識論

投稿者: 妙介(管理人) 投稿日:2016年10月 8日(土)18時31分50秒   通報   返信・引用

(3)仏法は反省自覚法――自覚の上での認識論

 そうすると、仏法の論は自覚論であって、存在論でも認識論でもない・という事になりますが……。

 仏法そのものは・小乗から文底迄全部・修行論による自覚論であって、その他の何物でもありません。そこがややこしい所です。仏教は、自分を含む世界をどう認識するか(存在論)・という目標を立てたものではありませんし、又、全世界を認識するその認識はどの様なからくりで成立するのか(認識論)・という哲学レベルを目標にしている訳でもありません。目標は解脱に在り・です。

 反省自覚法として、何処迄も修行の勧めなのですね。六道流転への誡め・仏界への勧め……。

 つまり仏法というものは、存在論でもなければ認識論でもないし、修行論とは言っても単なる経験論でもありません。然し世俗からの現実の超脱正理(ニャーヤ)を説いて修行を勧めるのですから、正理を明らかにするには・存在論も・認識論も・経験論も・皆登場して参ります。これは皆・正しい自覚論へ集約するものとして、合理性を貫いて説かれている訳です。

 仏道修行は必ず、信と信から出た知慧・とが基礎になります。仏法は<知慧の学び>であって哲学ではないが、大いに哲学面も説かれている・という事ですね。

 そうです。その哲学面を取上げて言うならば・仏法は認識論が中心です。哲学面での中心の<説かれた理論>の<骨組>は徹頭徹尾・認識論です。決して存在論ではありません。存在論は境法です。仏法は智法ですから認識論――自覚認識論――の方を説く訳です。

 というのは、枝葉を払除けた仏法理論の根幹は、色受想行識の五蘊(ごうん)という事を挙げて、<自分が如何に拘って・どの様な構造・仕組で世界を識り己れを識るか>を中心課題とし、結局は八万法蔵の哲学面での議論がこの一点に尽きるからです。

 顧の五蘊縁起説が・事(じ)としては自覚論であり・理としては認識論だからです。この五蘊法は智法であって・本来は境法ではありません。対象化すれば境法にもなる・という事と・元来智法である・という事とは違う事です。

 そうすると、仏法はその立場上・認識論を展開しているのであって、この事は「存在論よりも認識論が優れているのだ・こちらが第一原理だ」と主張しているのではありませんね。敢えて認識論を存在論よりも優位に据えているのですね。

 そうです。仏法は・哲学的説明や知識理論面は徹底して認識論であって、どんなに存在論の部分が在ったとしても、それは常に認識論優位下での・それへ役立てる為の存在論になっております。経も釈も論も全てそうです。更に、認識論と言っても・それは自覚論の体内(その大枠の中)の認識論です。

 自覚内容を他者へ語り掛ければ、成行きの必然で認識論にならざるを得ません。そこは仏と衆生・能化と所化・我れと汝・の二人称世界です。社会関係の領域です。だから元々自覚一人称の仏法から、仏教という・客観化し二人称化した教法・が成立っています。そしてその教法の<述べ方・記述の仕方>は三人称化しています。三人称化は方便・手段です。

 自覚世界は個人個人の世界で一人称世界・我れと汝との社会関係は二人称世界です。これに対して・三人称世界は、個人からは外化して独立してしまった所の・その替りに万人に共通する世界です。存在の世界はこうした三人称世界ですから、仏法は存在論でない事は能く判ります。

 仏法理論は一貫して認識論である・という事は、認識論や認識が優位であって・存在論や存在とか存立とかはそれより劣る・とか、存在や存立に動かされて人間は認識するのだ・という事とは違う事ですね。混同したら大変な事になります。


 <認識>と言うと普通は、誰にでも受容れられる認識・つまり二人称・三人称の枠内での認識になります。<存在>についても事情は同じです。ところが<認識論・存在論>という事になりますと、元々は一人称世界を舞台にして思考される事が殆どで、この為に・諸説相容れない・事が多いのです。この事から哲学は<孤高の学>だ・と言われています。

 然し能く考えてみると・孤高であっても、認識論は存在論や形而上学を除外しては論じられないし、存在論や形而上学も認識論を除外しては論じられません。どの論もお互いに<含み合い>の上で成立している訳です。そこで・どれを原理上優位に置くか・はその論者が立場で決める事です。つまり・どの論を論ずるか・に従って決まる事です。

 優位や従属関係は自然決定するのではない・という事ですね。そうかと言って勝手に好き嫌いで決められても困りますが……。

 もう一つ。仏法は終始一貫<反省自覚実践法>で、説かれた法門の哲学理論は徹底して認識論なのですが、ここから一つの混同が生じます。仏法は徹頭徹尾・認識論である・と言うと、反対解釈をして、すぐ、それでは全て認識が中心なのだ・と認識優位論が出て来ます。これは誤解ですが、大抵そこがこんがらがるのです。

 存在の世界(三人称世界)では存在が優位に立ち、認識の世界(二・三人称世界)では認識が優位に立つ。これは当然な事ですが、そうかといって、三人称世界と二人称世界とどちらが優位に立つか・と問うのは成立たない設問になります。

 認識優位か存在優位か・どちらが第一原理か・と言うのは、論争自体が成立ちません。過去の哲学史上ではこの点・無意味無効不毛な論争をしていたのです。そういう風に優劣を着けたがるのは、心情から出た事で、理性の預かり知る所ではなかったのです。間違いだったのです。

 その論争の代表例は、割に近い所では、マルキシズムの側から盛んに仕掛けられました。物質を第一原理と固執して、意識は物質の反映だから物質優位だ・観念論は皆逆立ちだ・と主張されました。これも結局・理性を装った心情論であった・事が明らかです。

 但・念の為に了解を求めたいのですが、普通<認識>と言うと、それは<理智によって客観対象を合理的に知る事>を意味します。だもここではもう少し広い範囲で用いた事を認めて欲しい・と思います。

 概念操作以外の認識も在るのでして……、というのは、信仰して知られた仏法は非合理体得事法ですし、信仰者の認識は、対象を客観して得るのではなく、直接把握した対象を再度想い返し・反省して認識するからです。然も必ずしも合理的に思考して認識するのではない・からです。信の上での反省自覚の認識になるからです。

 そこが仲々大事な問題です。直接体験における自覚認知結果としての認識そのものと、その体験内容を過去化し一般化した理論としての認識とでは、同じ言葉で「認識」と言っても、違った内容の意味を帯びて来る訳ですね。

 先のは現実生活の上での・後のは理論としての・認識です。実際に環境と関係して自覚した内容を理論化すると、どうしても認識論にならざるを得ません。存在論には成りません。



[140] (4)存在論者が陥り易い執著の穴――法身中心主義

投稿者: 妙介(管理人) 投稿日:2016年10月 8日(土)18時27分35秒   通報   返信・引用

(4)存在論者が陥り易い執著の穴――法身中心主義

 その点で困るのが一つ在ります。それは「結局、天台は存在論へ転落した」と言う意見です。存在論らしい所は色々在りまして、例えば『止観』正観章・観不思議境の<十界の所居>の説明・などは確かに存在論になっておりますが……。

 何も転落などしていません。当人が思違えているのです。この人は、仏法は智法であって認識論を説くものだ・と知っており、更に・仏法は形而上学を強く排除する・存在論など説くものではない・と知っている人です。そこから行過ぎたのです。

 天台は・自分の己心の法の自覚論を人に示す為に、智法を徹底して認識論化して述べたのですが、その中に存在論も展開されていますから、そこに執著(しゅうじゃく)して見ると・転落した様に見えるだけの事です。読む側の法執から出た誤解なのです。

 大体、自覚論であれ認識論であれ、その中に存在論も展開されていなければ・認識論を説く事が出来なくなります。在って大いに結構なのです。『法華経』にしても・娑婆世界とか霊鷲山とか十方の仏国土とか・色々存在論を展開しているではありませんか。

 形而上学排除が存在論排除に繋がって、論の中に在っては悪い様に思うのは行き過ぎなのですね。これは増謗……。

 その上で仏法の根幹は全て自覚論です。仏法での・自覚論・認識論・存在論・の関係は、自覚論という家の中に認識論という各部屋が在り、その各部屋の中に存在論という色々な家具道具の類いが在る訳です。

 部屋が家のそとへ外化して独立に存在する訳には行きません。家具道具類が部屋や家の外へ出てしまったら役に立ちません。何処迄も反省自覚の中の認識論・又その中での存在論でして、この関係は決して壊れません。

 仏法では、自覚内容と・それを一般化して伝達する認識・との違いについては阿含部諸経の最初から厳しく峻別して注意深く取扱っている・と思います。前者を<事>・後者を<理>・と称するのはその一例でしょう。

 その点はどの経文でもはっきりさせています。自覚内容は<離文字の法・無分別法・言語道断・心行所滅>など多彩な表現で示し、それは<言説・分別・仮名の法>(認識)とは違う事を力説しております。

 仏法は仏様の如実知見(自覚)を説くものですが、他人に判る様に対他用に説かれた立場のものとしては、経も釈も論も根幹は全て自覚論の中のものとしての認識論です。これらの中心である経は、報身如来が史上に現れて現実の応身で以って説かれた果実です。

 これも第一原理争いになって参りますが、現実に説法するのは常に応身如来であって報身如来ではありません。然も仏教一般の立場からすれば法身中心が根本であって、三身の中でも法身が中心になります。「諸仏の師とする所は所謂・法なり」(『涅槃行』)というのがこの立場です。

 その・仏教一般の立場・というものは、何時でも法勝人劣の局面を論じておりますから、この場合は・当然・三身の中でも法身が中心になります。法や法身が中心だ・という話なら何処にでも在る訳です。

 「ただ法身を以って本と為(な)さば何(いず)れの教にか之れ無からん」(『文句記』)でして、これは一般論ですから、どんな宗派、蔵教・通教・別教・円教……つまりどんな教にもどんな経にも在る事です。ですからどんな宗派でもこれを言う訳です。

 実は今取上げた「如来如実知見」の問題は『法華経』寿量品の問題でして、一般論の場合とは違って来るのです。この極説の所になりますと、三身即一の自受用報身如来が中心になります。

 「そういう事を言うのは宗派の勝手であって、仏教全体を冷静に見れば・やはり法身中心が本当だ」という反論が有ろうか・と思います。これは・理としては・法を第一原理とする事ですし、価値観の方からすると・仏よりも法の方が・より尊い・という主張になります。仏法の勝劣論は両者を含みます。

 本覚論の立場からしても、永遠の法理が貫いている法体たる・宇宙・そのものから個々の仏は出現して来るのだから、大元である宇宙の<法>が中心である筈だ・という考えも出来ます。法勝人劣というのも結局ここに根拠が在る・と思います。


 その法身中心主義は、存在論者が陥り易い執著の穴なのです。存在の窓口にしがみ付いているとそうなるのです。この対話では余り奥義には立入りたくないのですが、一端だけ申し上げて置きます。

 仏法では仏なり事態なりから離れた法は無い訳です。仏なり事象なりから離れた法は抽出した<理>だけ・形式だけの事になります。法の理在は客観上の事柄でして、そこでは法はまだ尊貴でも不尊貴でもありません。三人称命題(客観)からは価値観――これは二人称命題界の産物――は出て来ませんから<尊貴>という概念が生ずる余地は全く無いのです。第一原理の方しか出て参りません。

 そこを二人称世界の方から見返せば、法を証得する人を尊貴にする<可能態>の段階に留まっております。人法共にまだ尊貴ではありません。無記です。

 人法は、仏と衆生との二人称世界で事在になって・初めて尊貴になります。自覚所証の法に対して能証の人(にん・仏)が実際に居て、人法が互いに顕わし顕われ合う……この人法互顕の所・具体的な<事実上の顕現>が大切です。この所証法は反省自覚法です。

 事実の上では、自覚法理は・自受用智の仏様・つまり自受用報身如来の上にのみ顕現していて、あとは宇宙の何処にも無い――心外無別法――のですから、人法の間に勝劣は無くなります。人即法・法即人・の二而不二体一です。この報身如来が中心になります。妙法を反省自覚した方です。

 こうして究極迄来て、『法華経』寿量品の人法一箇の局面になれば、報中論三と言って知慧(実相般若・無分別智)を中心に見ていますから、三身の中でも報身を中心として三身を働かせて行く・と言います。諸仏知慧甚深無量と称(たた)え、教主を自受用報身如来と称します。その知慧は直観智であり・自行智・内観智であり・無分別智・無礙智・無上知慧であり・化他智であり、その全部が無作本有の知慧である・とされ、化他の力用はこの知慧に基づく・と言われます。

 普通、世間一般ならば、言語道断・心行所滅してしまうと、音楽・美術・芸術・等の世界へ入ってしまいます。言語道と心行所との以外の世界は、こうした<表現>しか無くなります。世俗ならそれしか行先が無い訳です。それは、纏めて言えば情念の世界です。これも直接把握の世界です。

 直接把握の世界ではありますが、仏法の直接把握は<正見>を軸にしたもので、こちら(世俗の情念世界)は<思い>を軸にしています。日本人は『源氏物語』の昔から<もののあはれ・わび・さび>といった情緒を尊重して来た民族ですから、それはそれで好いのでしょうが、生死一大事の解決にはなりません。

 こういう世界を<縁覚界>だ・と思っている向きも多いのですが、これは間違いではありませんか。全く縁覚性が無い・と迄は申しませんが……。

 これは人界・天界に属します。縁覚界ではありません。声聞・縁覚界の最高位に達した人を阿羅漢と申しますが、仏説の第四回目の集結で『大毘婆沙論』を集結したのは五百人の阿羅漢だった・と伝えられています。この様に、阿羅漢とは法理ち理智とで成じた身でして、従って縁覚も独覚も同様です。情念世界は縁覚界ではないのです。

 さて、情念世界についてですが、ショパンやシューベルトの音楽は素晴らしくても、こう言っては悪いみたいですが、それはフィーリングを満足させているだけでして、思或という迷いを慰めているだけでしょう。その思或の解決にさえなってはおりません。

 慰安と化導とは異質です。話を元に戻しますと……。

 転迷開悟は、仏様の化導に信順して行ずる以外には有りませんから、生死一大事の解決には、仏の知慧つまり仏智が中心です。こうして事に行ずる仏法に究極においては、境(法)智(慧)体一の報身が中心になります。知慧の勧めと知慧の学びとが道だからです。「法おのずからは弘まらず」です。

 法勝人劣の一般論では・法身中心・が根本になりますが、実は、法身中心思想には・もう一つ理由が有ります。それは仏法を客観の立場に置く事でして、とにかくこれは何とも根強い風潮なのです。

 昔、アビダルマ(法に対する明らかなる論議。小乗上座有部の対法論師を指す)がそうした様に、仏法を信行の外に外化させて、仏教学として三人称世界へ置けば、今度は法理が中心となり、客観的に把握した結果、法身中心主義・法理中心主義・にならざるを得ません。法身(法理)中心主義はこうして両面から生まれている訳です。



[139] (5)如来秘密(体験)と神通之力(表現)

投稿者: 妙介(管理人) 投稿日:2016年10月 8日(土)18時16分7秒   通報   返信・引用

(5)如来秘密(体験)と神通之力(表現)

 各宗派の本尊を見ると、禅宗は本来は無本尊で、法身本尊は真言宗だけです。東南アジアの小乗仏教には応身本尊が見られますが、あと、中国や日本では報身本尊が圧倒的に多い・と思います。この事は、仏法は報身中心が当然の常識になっていた・という証拠である・とも言えそうです。

 その反面、人法体一の報身・という事を説いたのは『法華経』寿量品だけで、あとは法勝人劣を説く経ばかりですので、真の報身中心思想は仲々浸透し難(にく)い・とも言えます。この辺はどういうものでしょうか。


 その寿量品に「如来秘密神通之カ」と説かれておりまして、『文句記』には、如来秘密とは、昔からこの寿量品迄まだ説かなかった人法体一の自受用三身即一の報身如来という事・これが<秘>であり、唯・仏と仏のみがこの事を知ろしめしていたその事を<密>と言うのである・と述べております。

 この事が正に如来の秘密だった訳でして、報身中心が仲々浸透し難いのは寧ろ当然だ・とも言えます。この究極が説かれた以上は、これに背いて法身中心や単報身を固執すれば、何宗であれ非法な訳です。応身本尊主義も同様です。

 自覚と認識との関係からしますと、「如来秘密神通之力」という事は、大変な事を教えている・と思います。「如来秘密は体の三身にして本仏・神通之力は用の三身にして迹仏」と説明されておりますが……。

 その局面からの問題としては、如来秘密は、<秘密>と言っても、何も意地悪で勿体を付けて隠している訳ではないでしょう。仏様が悟った自覚体験というものは、説いても説いても言葉には言表わせない部分が残ってしまう。その部分は自然に秘密になってしまいます。

 妙楽大師は「一身即三身・三身即一身が秘密だ」と教えております。人法のうちの人の方で示しています。

 それで説明しきれたか・と言えば、そうではなくて、まだ余りが在る筈です。それで妙楽大師の言わんとする所は、一身即三身・三身即一身・という言表を通して、それによっては説明しきれない仏様の生(なま)の自覚体験・これが如来秘密なのだぞ・と教えている訳でしょう。だがそこでストップすると衆生へ伝達出来ないから神通之力を出す訳です。

 神通之力というのは、様々な表現をして、法説・譬論説・因縁説・あらゆる説を動員して、なるべく相手に判る様に判る様にと肉迫して行く力が神通之力で、それが用だ・と言うのですね。体と用とは一体化していますが、尚その間には本迹関係が保たれています。用の三身の方は迹です。

 如来秘密である体の方は説明しきれない訳です。説明しきれないから・と言って、始めから諦めて誰にも言わないのでは化導になりません。そこで用の力を出して頑張って説明する。その部分が神通之カでしょう。この、体験における自覚認識・と聞法における説かれて知った認識・とは違うでしょう。前のは体の方で後のは用の方です。

 仏法は認識論だ・と言うのは後者の方の<用の認識>に関してなのですね。

 そうです。「説示」と言いまして、仏様が衆生に教えるには<説く>方法と<示す>方法との二様が在りますが、用の方は<説>の方として理論化されたものですから、そこの所が、表現で言えば<間接表現>になっている訳です。ところが如来秘密の方は<示す>以外には教える事の出来ない<表現以前>の直接体験なのです。

 若しも衆生がその仏様に直かに御目に掛かっていれば、その場の仏様の慈顔や御振舞いなどから直接表現(示の方)を受取る事は出来るでしょう。これは感応という事になります。然し滅後の衆生は、間接表現としての<用の認識>である・説法・の記述としての経文にしか接する手立ては無い訳です。

 直接体験における自己認識や世界認識と、それが後に理論化され間接化されたものとは、同じく「認識」と言っても中味が違って来ております。後者は中味が減っています。言葉が同じなので混同され勝ちです。

 自行の体の所は自覚であって、最早・論理や認識ではありません。化他の用の所へ来て初めて論理や認識という事が浮かんで来るのです。論理以前・認識以前の自覚世界というものは如々とした状態でしょう。これは正に只今も如々真実の道に乗じつつある進行形のものです。

 「如来如実知見……無有生死……非実非虚・非如非異」(寿量品)と言われております。

 <体>の進行形の如実知見とはそうしたものです。この知見者は他ならぬ報身如来様で、「如々の智・如々の境に称(かな)う」(『文句記』)て人法体一になっている訳です。人法一箇のこの称(かな)うている所を境智和合とも冥合とも言うでしょう。この様に仏様の自覚世界は如実で、他からはどう仕様も無い境智冥合の世界です。

 冥合と言うと、まず前に二つの事が有って後で融合ったみたいですが、実はアプリオリ(先天的)に一つしか無い事です。体の秘密が論理以前の如々とした自覚世界だ・という事は、仏様に関してだけではなくて、総じて言えば、衆生の色々な活動についても同じ理合いでしょう。

 眼を開いて絶待妙の立場から見れば、仏様も衆生も・そういうからくりについては同じです。体用二而不二体一です。非如非異です。



[138] 3 インドの伝統――<分けない>流儀 (1)自覚中心の相補関係、仏法・哲学・科学の相補

投稿者: 妙介(管理人) 投稿日:2016年10月 8日(土)18時12分32秒   通報   返信・引用

3 インドの伝統――<分けない>流儀

(1)自覚中心の相補関係、仏法・哲学・科学の相補

 自行における自覚体験としての<自己認識・世界認識>から、化他の為の理論へ・となって、ここ迄来ると論理というものが絡まって来ます。論理の立て方を誤らない様にしませんと、間違って伝わってしまいます。

 この為に、仏法においては、受取る側としても、仏法の中では認識論の為の存在論であり、その認識論は自覚論の為の認識論である……という・この位置付けをしっかり掴んでいないと迷いの基になります。この三論は縦型の関係下での縁起関係でもあり、・相補関係にもなっている・と思います。


 そうです。従って<体・用>についても同じ(縦型縁起)様な事が見られます。体は本・用は迹・という関係下に在る訳ですが、体(本)に非ずんば迹(用)を垂るるに由無く・迹(用)に非ずんば本(体)を現わす事を得ず・でして、用を持たない体は体ではなく、体を持たない用は<本無今有>で<カラ理屈>にすぎなくなります。

 用が無ければ表現法を失って体を現わす事が出来ませんし、体が無ければ用に化他の力を欠いてしまい・用ではない事になってしまいます。体用は本迹関係であり縁起関係であり相補関係であって、別々に切離す事は不可能なのです。

 そういう関係から、哲学としても、もう一度、存在論と認識論・存在と認識・これについて、既成の議論ではない見直しをすべきである・と思います。本迹・縁起・相補・の三関係を正して考え直せば好いと思います。横に並べて見るのだけが能ではありません。

 その点からもう一度、仏法・哲学・科学の三つを振返って見るべきです。仏法は<認識→修行(反省実践)→悟り(自覚)>というコースを行くものですし、哲学は<認識→思索→愛知>というコースを行くものですし、科学は<存在→認識→活用(実用)>というコースを行くものです。分野が違いますから三つは相補の関係になります。排除し合う筋合は元々全く有りません。

 してみると、認識論と存在論との第一原理争いは全く無意味でした。その極端になったのが観念論と唯物論との対立ですが、対立した事自体が誤りでした。存在と知慧との相依関係を見落して、執著の塊になっていた訳ですね。

 世界の現実把握の為とか思索の為と称して、ちぐはぐで無駄な設問を立てている場合が非常に多い・と思います。成立たない議論を無理遣り成立たせようとする。存在と認識とはどちらが第一原理か・というのは、闇の中で色を求めるみたいで無意味です。こうした類いの不成立で無駄な議論が歴史上・過去にも在りましたし、まだ哲学界に残っていはしませんか。

 こういうのは、つまりは検討不足の一点に尽きる・と思われます。他への批判に先立って、まず自分の方の内部から正して行くべき必要を感じます。

 要するに、存在論の存在一般・を能く検討してみると、事実の上では流動しつつ存立しているものを、まず<仮定の上で>固定化して――固定化という事は既に実体化です――これに対して一義化した名辞を差向けて把えているでしょう。だから一意共通化した槻念が発生します。これが認識です。

 してみると、何の事は無い、存在一般は知覚し認識されたものとしての存在であって、これ以外に存在は有得ない・のですし、逆に対象を持たない意識も発生出来ない・のですから、物心相依の縁起関係を無視しては一切が成立しません。縁起法が第一原理な訳です。

 存在論が外へ向けば科学を生みます。科学は万人共通に納得出来る様に、ひたすら客観化し理論化して、応用・実用・技術化・を志向します。哲学は理論化はしますが愛知の線で留まります。仏法は解脱を目標に進みます。これは決して客観世界ではなくて主観世界になります。

 その辺は難しい所です。普通、仏法は活きた主観世界を展開する・とは言いますが、本当は、生活の現実では、常に・我々が掴んだ念々の主観世界も<刹那に過去化し乾上り固型化した仮構>にすぎなくなっているのです。この”スルメ”みないな一駒一駒を<記憶>の力で繋合わせて・連続実在・の様に思っている――誤解――だけなのです。

 これは本当には実でもなければ虚でもない・非実非虚・非如非異・の・一時仮有無常の連鎖・なのです。こういう困難の中で眼前・現前・当面の<現実只今>を生きるのが仏法でして、天台ではこの生きる手法が<大止観>という観法(禅法)になっております。

 もっと昔は各種の禅定修行・という事をしておりました。今流行のヨーガという術も、元を糺せば<正理(ニャーヤ)に呼応する身心相応行>という禅法だったのです。それが今、美容体操化している訳です。これらは皆<止観>と呼ばれて然るべきものです。



[137] (2)真理と法・仏(覚者)――第一原理

投稿者: 妙介(管理人) 投稿日:2016年10月 8日(土)18時09分29秒   通報   返信・引用

(2)真理と法・仏(覚者)――第一原理

 第一原理論争を振返って思う事ですが、昔からとにかく何等かの<真埋>が第一原理として立てられて来ました。真理性の無い第一原理という事は考えられない訳です。個か普遍か・物か心か・と言っても、それ自体には真理性は無くても、世界に占めている関係上の位置・という<関係性>に真理性を認めている訳です。

 真理と言えばすぐ・現実の法則・という風に繋がって来るのですが、その第一原理は<人間が決める。自然界の運動から自動的必然的に決定される事ではない>という事が明らかになった・と思います。この視座からすると、一体どんな事を第一原理とすべきか・という問題が出て来ます。


 結論だけを言うと、生きて行く人間としては、法と仏(覚者)つまり法仏一如の法とこの法の体現者である仏、これを第一原理にすべきである・という事になります。この一如の人法を分けて徳に約して言うと、法ならば法徳・人(にん。仏を指す)ならば主師親の三徳・これを第一原理とすべきです。

 人法は一体であって、『涅槃経』に「(人法)一体の仏を主師親と作す」と言う通りです。法徳は衆生をして解脱に到らしめる徳用で、この用の体は広くは縁起中道法、縁起法を浅深の次第で突詰めれば・事行の一念三千・という事になります。この体現者であり教主たる自受用無作の報身如来様が主師親です。

 そうなるとすぐ、それは信仰者の立場であっで、学究の立場でも一般人の立場でもない・という反論が出て来ます。特に、主師親などという発想は、『涅槃経』などに在るにせよ、恐ろしく中世的でかび臭い・と軽蔑されてしまいます。

 封建的でかび臭いかどうか。でも、現実に、どんな人でも自分で決めた自分の主師親を持っているのではないですか。

 かび臭い・などと言っている人の主師親を言ってみると、悪魔(第六天の魔王つまり元品の無明)を君主にしてこれに守られ支配されているし、三毒(貪欲・瞋恚・愚痴・の三煩悩)を親としてこの親に養育され・従っているし、邪見(虚妄分別・ヴィカルパ)を師匠としてこの師に導かれて暮らしているでしょう。自分で決めた主師観です。

 無明・煩悩・邪見、こういう<法>がその人の拠所としている第一原理になっていはしませんか。これがその人の主師親な訳です。万人共通です。自覚していないだけです。

 してみますと、冷静に反省してみれば「三世の諸仏は是の法(妙法)を師として修行覚道し給えり」と言う通り、仏の<法>というものを第一原理にせよ・という事になりますが、仏法で<法>と言う場合には、何でも法で、法という名辞(仮名・記号)が実に多義に使われています。

 次の章からいよいよ仏法の話の中味へ触れて行く訳ですので、預め法という言葉のアウトラインだけはここで掴んで置く必要が有る・と思います。


 <法>の根本は<人法一箇・人法体一>と言う様に、人(仏陀)と法とが一体で仏界を示現し続けている所・仏陀の在りようの所を指す訳です。一人称では人(仏)から離れた法は無い訳です。無分別です。

 然しこればかりは衆生の示現し難く理解し難い事なので、教える側は、これを分別して、つまり種々相の上において・無分別を分別化した形で説き示す訳です。これが根本で色々と法概念が出て参ります。

 前の方のが<体>で、後の方のが<用>ですね。色々な法概念・の方は用の方ですね。今言われた・分別した法・は皆これは用。教える為に分別した人法一体仏の方は体……。

 すると、仏法では何でも<法>で、真理性の有無以前の事柄、つまり現象や施設(規則・定義・公理・公準・など)迄も法の一語で表現していますから、気を付けなければなりません。インドでは古来・外道でも仏法でも<分けない主義>なのです。

 然しその中心となる意味は<法とはどんな物事でもその物事を全体的に抑えて言う言葉・表現>という事で、その抑えた全体は<分別以前のもの・若しくは分別を総括した所>を指しています。

 この法が根幹で、説かれて言説化したものとしては、そこから色々と枝葉的に多義に使用されて来る訳です。基本は<分けない>主義でも、局面では分かれて来ます。命題文の文脈の前後関係から推せば、何を指しているかは判る様になっております。

 仏法から離れて一般の常識から言ってみると、法という語は、規則(ルール)・真理・法則・方法・規範・法律・倫理・という位の範囲で語られますが、いずれも「その内容は変らない、変えられない」という不動性への同意の上に成立っている様です。

 仏法でのダルマ(法)は、そういう常識的な面迄含むだけではなく、その上に・多義である・となりますと、理解する為には、予備知識として、或る程度の整理が必要になります。インドの<分けない>流義への理解も必要になります。


 法(ダルマ)の意味内容(語用)が多義で困る・というのはその通りです。仏法では、教え(化儀・化法)・名辞・概念・判断・真理・型・形式・規則・法則・道・倫理・当為(ゾルレン)・対象・対境・現象・心象・知識・認識・自覚・手段(方法)・修行・心境・等々何でも<法>ですから、前後の文脈によって・何の法を指しているのか・を見極めなければなりません。アマチュアが困るのはこの点に有る訳です。

 一般の学問でも<法>と言う時には「その内容は変らない、変えられない」(陳述性の維持)という同意の上で使いますが、これは仏法でも同じです。ダルマという名辞は 語源のドフリィ(保持の義)から転化した名詞ですから、変らない事が含意されています。

 とにかく仏様の一切の教示は、生死を出離して解脱に到達する為の不滅の規範ですから、こういう教法の性分は永久に変らない訳です。ですからアビダルマでも「自性を保持して変らない」のをダルマ(法)と言います。「法とは軌持なり」「自相を持するが故に名づけて法と為す」と規定されている通りです。

 軌持とは「軌は軌範、持は任持(能く保って自性を捨てない)」でして、諸物の理も諸教も改変しないから軌範になって・一定の解悟を生じさせる事が出来る・という訳です。アビダルマでさえもこうなのです。

 そういう観点で<法は変らない>という事は判りますが、法は不変・法は自相・自性を保持する・と言いながら、その教法の中味へ立入ってみますと、一切法は無常・無自相・無自性・無自体・と教えています。常無しで不変常住とは反対です。無自相・無自性ですから、自相保持・自性任持・とは反対です。逆説ではないか・という事になり兼ねません。自語相違・矛盾の感も有ります。

 その辺は難しい所です。これは要するに一切事象(現象)を一切法と言っている場合でして、認識の対境(対象)の境法も・思考の道程の智法――これは教法ではない――も・取って返せ(境法化)ば全てそう(無常・無自相・無自性・無自体)だ・という事です。この一切法とは諸行無常の諸行と同意の場合です。

 この場合でも、一切法は無常(アニトゥヤ)で・常無しの連続・ですから、無常という法は不変で常住しています。無自相という・相の真相・が自相をなしています。無自性という・不変の性・が自性になっています。無自体で縁起体だ・という・体の実相・が変る事の無い自体をなしています。

 こういう意味で、「自相住持・自性保持・不変」という自然法(じねんぽう。法哲学で言う自然法=しぜんほうの事ではない)や教法の<ダルマの骨格>は変っていません。こういう内容については、本論で徐々に触れて参りましょう。



[136] (3)縁起は法の根幹――法は縁起の焦点

投稿者: 妙介(管理人) 投稿日:2016年10月 8日(土)18時06分0秒   通報   返信・引用

(3)縁起は法の根幹――法は縁起の焦点

 話が段々逸(そ)れて来ました。法という概念を整理する方へ戻りましょう。無常という法そのもの――無常法――は常住不変だ・という事でしたが……。

 <縁起>とは「此れ有るが故に彼れ有り、彼れ無くば此れ無し」という・相依・相待(そうだい)・依り合い・待ち合い・の関係の事ですが、一切の事法・理法・はこの縁起法で成立っており、従って、諸行という一切万法は縁起関係の在り方(組まれ方)次第で常無く変って行くものです。

 変って行かない諸行は在りませんから、諸行は無常法に貫かれており、この無常法は・横には全法界に拡がっていて・縦には不断不常の常住不変に継続して行く訳です。「諸行無常」とはこの事を教えている指摘なのです。

 一切万法は<常住不変なる無常法>に貫かれており、無常法は縁起関係の上に現出する現象だ・という事になりますと、「縁起こそ法の根幹である」という事になります。

 そうです。縁起は法の根幹です。「如来は此の法(縁起法・縁起中道法)を悟りて等正覚を成じ給う」(『雑阿含経』)と在る通りです。「此の法」を一般に仏教学では・縁起法・と解しておりますが、これはまだ正しくはありません。これでは但の世間法の悟りです。仏様の悟りは出世間法としての悟りなのでして、縁起法の奥の縁起中道法の方を悟ったのです

 微妙な違いなので見逃されているのですね。縁起法は但の世間法だ・という事は、推理だけで得らわて・反省を必要としていない・という事ですね。反省→自覚が出世間の悟り・ですから、縁起中道法でないと「成等正覚」ではない・という事ですね。

 そうです。この縁起法や無常法は「法は如来の作に非ず、また余人の作にも非ず」(『華厳経』)と断わっている通り<自然法(じねんぼう)>なのです。この<じねんぼう>は現代の法哲学で言う<自然法>(しぜんほう)>とは全く違うものです。本有無作の無為法なのです。

 法哲学での自然法は、立法による実定法の理念的法源で、実定法批判の基準・という事です。社会や人間の本性に基づく・規範になるものです。法制の拠所です。元は昔のギリシャで哲学者が考えた事で、真の法は普遍永久性を持つものである筈で、自然と調和した正しい理性がこれである・という事でした。

 ところで、仏様は縁起中道法を悟って正覚を成じたのであれば、仏様の教法は当然この縁起法・縁起中道法・を説く訳ですね。


 そうです。釈尊を始め三世諸仏の教法は、一切、この縁起の法・縁起中道法・を浅きより深きに至って説いて、遂には仏種(成仏の種子)である聞法下種の法体に迄説き到るものです。言う迄も無く、この聞法下種の法体も又・縁起法である事に変りは有りません。縁起しない妙法・というのは有得ない事です。

 そうすると、縁起は法の根幹であり、仏法の根幹である訳ですね。

 そうです。仏様の教えというものは、人為で作り出した教えを実践する・という事ではないのです。自然法(じねんぼう)という自然法爾(じねんほうに)の法をその有りの儘(如実)に知り、その知った通りに生きる・という事ですから、仏法は当然、法(自然法)を第一原理にしている訳です。

 これが仏様の教法の骨格ですから、この教法は人間の当為(ゾルレン=人として当然為すべき行為)・認識・自覚・これに基づいた実践方法(諸方便)つまりは修行法・等々一切を分けずに含んでいる訳です。インドの・分けない流義・はこの点で尤もなのです。

 とにかく教法と言えば、その中に一切合財が含まれてしまう……一法は開いて万法となり・万法を閉じて合すれば但一法となる・という事ですね。本とページみたいです。

 この諸法一切を含む教法の中から、煩悩に負けない善法とか修行法などという面を差置いて、境智二法(境法=外法・と智法=内法)だけを取出して見た時に、仏法以外では絶対に見られない大事な点が出て参ります。

 「一切法とは、識(内法・智法)所縁の法(外法・境法)は是れ一切法なり、智(内法・智法)所縁の法(外法・境法)は是れ一切法なり」(『大智度論』)と言われる場合の<法>の理解が実に大切になって参ります。

 第一原理の話の中心として、<法>の話になって来ましたが、境智のどちらに就いても<所縁>の<法>という点が肝心な訳ですね。識智に縁(よ)らぬ境法は無い……。

 この場合、<法>とは<衆縁の焦点>という事になります。一般に自然科学は物を相手にし、哲学は思惟・人生・出来事・事件(アフェアー)を相手にしていますが、仏法ではそういう事物・事象は全て「法とは衆縁の焦点なり」と捉えているのです。

 衆縁の焦点とは<色々な諸縁が集まって機能している焦点>――これは変化しながら継続する――という事でして、一切事象(法)は有形無形の諸縁が集合交叉し相依った<成立ち>(佇まい)である・と見ているのです。これを「衆縁所生の法」(この所生は所現の意)と言います。ですから法に<個在>は有得ません。

 本当は法に個物・個在・独存・は有得ない・となれば、ギリシャ哲学の考え方とは全く逆になってしまいます。実体や本質は有得ない事にならざるを得なくなります。

 そうです。どんな個物でも地球や宇宙の外(そと)に独存している訳ではありませんから、諸物・地球・宇宙に<依存>している訳です。お互いさま・です。この<依存>が<縁起>という事です。例えば<東京駅>と言ってみても、そういう個物が昔から不変存在として在った・という見方は虚妄だ・と排除するのです。

 新幹線・東海道線・総武地下新線・横須賀線・湘南線・山手線、果ては列車・駅員・乗客、建物・売店・食堂・道具類、ガス・水道・電気諸系統・運行ダイヤグラム・予算・等々の諸線・諸機能の諸縁が相寄り集まった焦点として、東京駅という事象がそこに成立ち佇み機能している・という様な具合です。

 すると、縁起法でない存在は無く、縁起と衆縁所生法とは・説明の仕方の違いでしかない・事になります。衆緑の焦点・というのもそうですね。衆=集で焦点は集まり……。

 一切法は皆・衆縁の焦点だ・というのが<法>という意味でして、境法(外法)も智法(内法)も一切皆そうなのだ・とします。これが大事なのです。個物・個在・独存は完全に否定されます。実体や本質については後の章で詳しく解析して参りたい・と思います。

 「五蘊仮和合を衆生と為す」などと言うのもそうですね。五蘊のうち色は外法ですが、受想行識という内法が無ければ外法も内法も存立しません。内外二法が相依ってのみ、初めて外法は外法たり得、内法は内法たり得、内外衆合して五蘊が現出し衆生たり得ます。この様に一切の存在は仮和合の成立ちである・と言います。独自存在という見方や個在という考え方は否定されています。

 「縁起の法は我(如来)が作に非ず、また余人の作にも非ず」(『雑阿含経』)と言われる縁起の法・というのがそれなのです。これを竜樹は・衆縁所生法・と説明したのです。衆縁所生法・即空即仮即中・と、反省法として把えているのです。

 釈尊が最初に説かれた仮諦の法、これが縁起の法でして、縁起の法門は小乗阿含部の方便教だ・と蹴飛ばす向きが在りますが、これはとんでもない間違いです。縁起は一切法の根幹です。法は衆縁の焦点だから仮有の侭機能しているのです。厳有・実有の方こそ幻(まぼろし)です。

 阿含での法門は・仏法と六師やバラモンの法とのけじめ・を説いているのですね。

 そうです。竜樹の『十二門論』というのは彼の『中論』の綱格書ですが、その中にこう在ります。

 「衆縁所生の法は是れ即ち自性無し、若し自性無くんば云何が是の法有らん(法は実体存在ではないが、無自性という自性が在るので法が成立している)。衆縁所生の法には二種あり、一には内、二には外、衆縁にも亦二種あり、一には内、二には外、……、是くの如く内外の諸法は皆衆縁従(よ)り生ず、衆縁従り生ずるが故に即ち是れ性(自性)無きに非ずや」

有(実有)や実体や本質を言立てる・有部(アビダルマ)・六師・バラモン・は誤っている。法は縁起生だから実有も実体も本質も在る訳が無い・と言っております。

 つまり、一切法は縁起法だから無実体で空だ・と言っているのでしょう。してみると、縁起という考え方が判らないと空も判らない・という事を示しております。

 縁起の仮諦が判らなければ仏法は一切合財全部判りません。仮諦が判らずに空諦が判る訳は有りません。空諦が判らずに中諦が判る訳は有りません。三諦が判らないと一念三千も只言葉を暗記しただけで終りになってしまいます。一切法は全て縁起法で、法は全て衆縁の焦点です。一切の理解はここから出発しなければなりません。

 結論だけを言ってみると、「一念三千の法を第一原理とせよ」というのが私達の言いたい点ですから、ここでその「法とは衆縁の焦点なり」という事を徹底して理解して置く必要が有る・と思います。

 <法の理解>は実に大切な事です。事法においては縁起法でない法は有得ませんし、縁起した法は全て<衆縁の焦点>です。理法ならば、理法というものは全て事象に依り・その中で機能しているものですから、それだけ取上げて・事象から勝手に外化させる訳には参りません。それでは形式科学の様になってしまいます。

 [2+2=4]は真理に違いなくても、<2>とか<4>とか<2+2=4>とかいう実在は何処にも無い・のと同じ事です。事法と相待し相依し縁起しない理法などは無い訳です。総じて<法の理解>は大事で、相当に困難を伴う・と覚悟しなければなりません。



[135] (4)信と批判精神――不疑と無疑

投稿者: 妙介(管理人) 投稿日:2016年10月 8日(土)18時00分49秒   通報   返信・引用

(4)信と批判精神――不疑と無疑

 理法さえも事法と縁起している・となりますと、事法も理法も……つまりは内外一切法皆これ非実体法(無本質法)という事になります。実体か非実体か、実はこれが古今東西の大問題です。解決には批判精神が是非共必要です。

 その<批判精神>が<信>ずべき対象を確保して呉れる訳です。<不疑>であってはなりません。不疑は精神衛生に最も悪いのです。疑いを駆使し・疑いを尽くして初めて<無疑=信>に到達出来るのです。

 この対話の目標は<実体論が正しいか非実体論が正しいか>を明らかにしよう・という所に有りますから、己むを得ない場合の他は、仏法の極意に立入る事は避けたい・と思います。仏教は・非合理な侭・非常に合理的な宗教であって、世間の拝み屋の道具・祈祷師の装い・などにすべきものではない事が判れば好い・と思います。非合理即不合理ではない訳です。

 仏教は合理性に富む宗教だ・と言うと、すぐ「仏教は一番料学的な宗教だ」という言い方が出て来ます。これは大変な間違いでして、智法を存在論にしてしまいますね。

 仏教に限らず・科学的な宗教・など原理上有得ない事です。科学は分析・総合を手段とした部分学であり三人称世界のものです。仏教でも他の宗教でもこれは一・二人称世界の実践法であって非合理領域のものです。つまり信仰は一人称・宗教は二人称です。非合理世界のものだが合理性に貫かれている……それが仏教です。

 仏教は非実体論に立つ宗教だ・という事ですが、現象の奥に実体が在りはしないか・と疑問(関心・探求心)を持つのは、これも人智の進歩の一つで自由な事ですが、この事と・本当に実体が在るのか無いのか・という事とは全く違った問題です。とにかく縁起法という出発点は明らかになりました。

 縁起法が思考の出発点である事は当然ですが、この縁起法は、仏道修行の思惟の出発点から重々の反省を経て・自覚の終点迄貫き通される訳です。仏法ばかりではなく・本当は諸哲学・世間の思考についても貫さ通されるべきものなのです。

 仏法では・華厳・阿含・方等・般若・法華涅槃・迹門・本門文上・文底・は勿論・三世諸仏の一切の経々全てが縁起法門・縁起中道法門でして、縁起法門・実相法門と区別して言う場合の実相法門も、縁起法門の中の一歩踏込んだ法門・という事にすぎません。それについては本論へ入ってから詳しく話合いましょう。

 縁起法に立つ仏法においては、一切諸苦の根元は当人の無明(法に対する無知)に在る・と言います。だから無知無明さえ克服出来れば大筋の諸苦は消え去る・と教えています。小乗教の十二支縁起などはその筋道を明らかにした好例だ・と思います。大乗でも無明と法性とを待置して解脱を教え・諸苦からの解放を目指している点では変りません。

 小乗でも大乗でも行着く目標目的は同じです。そこを成道・得道・成仏・悟り・……・何と言っても同じ事です。その諸苦の源である無知の内容を追ってみると、衆縁の焦点である縁起法を<有りの儘>に見ていない・という<無知>に在る訳です。

 諸行無常と言って、世の中の一切事象は無常(アニトゥヤ)で変化しています。常無しが真相でして変化しています。変化しない物事は無い。これは、実体が何処にも全く無いから変化しているのでありまして、若しも実体が在るならば・変らない芯・みたいなものが在る筈です。ところがそんな”芯”は一例も見当りません。

  それでは<どう変るのか>と言えば、現象同士の相互作用(相依)の因縁関係で果を生じている。生じた果も又変って行く。変れば元通りではないから元の局面は「是生滅法」(是れ生じては滅するの法なり) といって無くなってしまう。

 元の局面は無くなって新局面になっても・まだその法(現象)の自己同一は保たれている。この自己同一は実体でも本質でもないから「諸行無常是生滅法」以外は無い訳です。ですから一切事象が存続する様(さま)は<不一不異>だ・と言います。生滅するから不一で・自己同一は続くから不異です。

 今のそこの所が一般には仲々理解されていません。いずれ後の章で詳しく論じ合いたい・と思います。「不一不異」は『大般若経』の中に説かれた問題で、空によって中道を標示している重要な課題です。

 それなのに、変化する現象の奥に変化しない実体を求めようとする。ここに大変な無明が在ります。これは・変るものに「変るな」と命令する訳でして、通用しない行業です。この行業が<叶わぬ執著>という事です。

 こうして叶わぬ願望で作り出した――本当は作り出せてない――実体――得たものは音符だけ――にしがみ付く。つまりは縁起法に対する無知――執著――叶わぬ心作業(さごう)・口業・身業、これが苦を引起こす・という事です。このからくりが明らかになれば・解脱への門・は遠くない訳です。

 この門が以信得入の門・ですね。入いれば仏道修行という事になります。それは何も坊さんには限りません。誰でもそれなりに出来る事です。仏法は反省自覚法だ・という事でしたが、反省――自覚・これが修行法ですね。

 諸行無常と言って万事は常無く変るのですから、反省→自覚の修行で・自分や条件を良い方へ変えれば好い。無常を悲観論の方にだけ受取るのは片手落ちです。

 無常だ・という事は、諸行は悪い方へも変るし善い方へも変る事を示しています。万事は変る事が徹底して解ったら、不味い状態から良い状態へ変れば好い。そこで反省→自覚と修行すれば好い訳です。仏道修行とは反省→自覚・反省→自覚という行為を一生涯貫いて行く行業です。不苦不楽中道行です。

 年年より月月・月月より日日・日日より時時・時時より刹那刹那に反省――自覚が繰返される様でしたら・これは密度が濃い事になりますが、そう理想的には参りません。

 そこで普通、各宗各派毎に・勤行の形式とか回数とか坐禅の時間とかを決めて・させている訳ですが、行ずる僧俗の方は兎角そういう規定の方に心を取られて、肝心の<反省――自覚>という元意の方を忘れ勝ちでしょう。

 昔からの持戒中心の修行・坐禅中心の修行・読謂中心の修行等々・どんな仕方の修行にせよ、凡身の凡行を反省して仏身を目指したものである以上、各種の修行を貰いている根元は<反省-自覚>という行業以外には有りません。反省に非ざる持戒・反省に非ざる禅定行・反省に非ざる読誦行……そういうものは無い訳です。受持一行又然りです。

 空だ空だと言って・坐って半眼にして心をからっぼ(空)に落着けても、これでは坐禅にならない訳です。良い声でお経を読んで気分爽快になっても・お経の意味が解っても、これだけでは本当の読誦とは申せません。

 凡愚心を反省し身心を正して「凡夫・大聖の為に法を説く」(『玄義』)で、九界から仏界の為に(自行)法界万霊に対して説法をする(自行即化他)……これが本当の読誦で、ここには真の反省が篭り・自覚が伴っています。



[134] (5)実体か非実体か・正論因果――内外相対という事

投稿者: 妙介(管理人) 投稿日:2016年10月 8日(土)17時56分57秒   通報   返信・引用

(5)実体か非実体か・正論因果――内外相対という事

 ここでは余り専門分野には立入らないで基本線を追って行きましょう。仏法では戒定慧の三学・信行学の三義等々・そのどれも反省―自覚以外には無く、学一つ取ってみても、知る為の学ではなくて、反省―自覚の資として学が成立っている訳ですね。

 一口で言えば、凡身を反省して仏身を目指し
覚する・九界を反省して仏界を自覚する、これが目指す所です。この反省の為には、厳正な意味での批判精神を堅持していなければなりません。批判精神が無くては反省出来ないし従って自覚も出来ません。

 自他の正邪善悪を見極めなければなりません。社会生活では・他への批判・己れへの批判・両方必要です。こうして批判精神は内へも外へも・自へも他へも向けられますが、これは当然な事なのですね。

 早い話、昔からの第一原理論争にせよ・科学の発展にせよ・空仮中の悟りにせよ、皆、批判精神から生まれて来たもので、信と批判精神とは・相依って互いに成立つものです。「彼れ無くば此れ無く此れ無くば彼れ無し」です。片方の独存は不可能です。

 「批判精神有るが故に信起こり・批判精神無くば信も無し」という縁起関係下に在りますから、信を強調する事がこの大切な批判精神の封殺へ向けられるならそれは邪道です。盲従・盲信は信とは言えません。有信の人は須らく反批判を去って正批判に生きるべきです。無解有信から有解有信へ・です。

 この批判精神はデカルトでは方法懐疑として述べられています。

 天台では<疑いの三義>(『止観』)として自・師・法の三を挙げ、「自身に於いては決して疑うべからず……自分は迚も仏道修行には耐えられないだろう・などと自分の資質を疑うな。師匠と法とは大いに疑って正邪を明らめてから信ぜよ。正法正師決定せばその時に三疑は永く棄つべし」(『弘決』取意)と言われております。

 「無疑曰信」(疑い無きを信と曰う)と言いますが、疑う余地が全く無くなる迄・批判精神を働かせないと無疑にはなれません。疑いが悉く局き果てたのが<無疑>です。この無疑が<信>です。

 不疑……疑わない・と無疑……最早毛筋程も疑いは無い・とは天地雲泥の相違です。無理して疑うまいと努めても、解っていなければ疑いは必ず付いて回ります。ですからこういう人はもやもやしています。<不疑>からは金輪際<無疑>には到達出来ません。

 信とは又・以信代慧で仏界の無上無分別大慧に直結したものです。信からこの大知慧への行程が「勇猛精進」なのですが、『止観捜要記』に「敢(いさん)で為すを勇と言い、智を竭(つく)すを猛と言う、無雑の故に精、無間の故に進」と教えています。

 それについて、勇猛は信力、精進は行力で、信力・行力が仏力・法力を顕現するのだ・と教えられております。

 この「智を竭す」についてですが、この智には批判精神(洞察智・推理智)と反省智との二つが在ります。釈尊が・外道の法は誤っている・と排して強硬に内外相対を言立てたのはこの<批判智>の力に由ります。

 一迷先達して独自開悟したのは<反省智>に由った訳です。従って我々も一生涯この批判精神(批判智)と反省智とを堅持して行かないと、勇猛精進という信行は成立致しません。実践躬行にはなりません。

 我々は内外から色々な・学説・主義・諸説・勧進・に当面します。批判智・批判精神が衰弱してしまっては到底やって行かれません。反省智が無いと・毎日の自分の行業も無反省の儘生活が流されて行ってしまいます。反省の習慣が身に着いていないと、自分が今六道しかやっていない・という事に気付く事さえ出来ません。

 只今の六道に気付いて仏界を求めるのが仏道としての反省自覚ですから、反省智・反省習慣が無い人の信心は一向に進まない・と思います。現に実例を見ているとそうです。大荘厳懺悔も成立ちません。過去遠々劫現在漫々の罪障消滅の祈りも表辺(うわべ)の形式だけになってしまいます。

 批判精神・批判智を持合わせなければこの対話も不可能になります。最早・信も消滅してしまいます。

 信とは以上の様なものですから、信は慧の源(みなもと)で大切です。第一原理について、我々は・仏と法とを第一原理にせよ・と言いましたが、対境側はそうでも、境智而二不二ですから、智の側においては、以信代慧で<信>の一字一行が隠れたる第一原理として働いている・と言うべきでしょう。

 仏と法と智と信とは、万人の己心においては、一体不離で分けられません。

 もう一度締括って申しますと、批判精神を発揮して、世の中一切は<実体・本質在り>が正しいか<無実体・本質無し>が正しいか……これを見極めるべきです。見極めれば・どちらを取って信ずべきか・が明らかになります。これが<内外相対>(ないげそうたい)という事です。

 この内外相対を厳密に言えば<仮令・無実体説(縁起説)に立つとしても、その上に立って行業因果を正しく説くか否か>という事になります。行業因果は反省自覚の基盤だからです。因位の修行者に取って仏果成就の事理法だからです。

 内道の仏法が論法上でも<反省自覚法>であるのに対して、現在・インド六派哲学・と言われている六師外道などの外教外学は<推理推論法>である事を特徴として居りますね。推理推論つまり分別・の領域から一歩も脱け出せないから実体と本質――偽分別・邪分別・妄分別――が出て参ります。これが実有論・著有論でして<分別虚妄>以前の<虚妄分別>と排される所のものです。

 「定んで有なるは邪なり」(『止観』)です。こうして、内外相対の第一の歯止めは<推理推論か反省自覚か、実体(有我)本質(自性)か無実体(縁起体)無本質(無自性)か>です。その上に、無実体説であれば何でも好い・という訳には参りませんから、<行業因果を正しく説くか否か>という第二の歯止めを構えている訳ですが、ここではこの程度で好いでしょう。

 或る先生は「この対話の基調を明らかにすべきである」と言って居られました。

 この対話の基調は天台に置きたい・と思います。文底下種の大法については、何も私が今更述べなければならない必要も必然性も有りませんし、種脱法門では却って内外相対を論じられません。

<内外>を論ずるには権迹の線でしか遣り難(にく)いのです。仏法へ入って参りますと、内外勝劣(内勝外劣・内正外邪・以下同)大小勝劣・権実勝劣・本迹勝劣・種脱勝劣――以上<五重の勝劣>が明らかになります。

 この勝劣が<一致>になっては大変な事になります。内外一致(ないげいっち)・大小一致・権実一致・本迹一致・種脱一致……これでは・宗教は何でも同じ・という俗論になってしまいます。内外一致になれば五重相対は種脱一致迄一貫してしまう事にならざるを得ません。正邪は破棄されます。

 そうです。それなのに・仏教界でも仏教学界でも・本迹一致よりも尚悪い内外一致の大悪義が大手を振って罷り通っているのは誠に驚くべき事です。これは一つには仏法を対象化・境法化して存在論を展開する――これでは形而上学になってしまう――からです。客観の視点から解釈するからです。次章からこの点を明らかにして仏法の本義を顕揚して参りたい・と思う次第です。

 仏法は仮令どんな論を展開するにせよ・反省自覚の立場で・常に智法の窓口から論ずるのだ・という所を忘れてはなりませんね。科学的解釈・哲学的解釈を許さない……。それをやってしまうと内外一致になってしまいます。

 そうです。その事が大事なのです。本書は論の目標が内外相対ですから・天台の路線・を基調にして参ります。それには、論理学的視野から始めて形而上学批判を以って終えたい・と思います。

 次章からいよいよ本論へ入りますので宜しくお願い致します。仏法は智法である事が会得して頂けるならば幸いだ・と思います。



[133] Ⅰ 仏法と論理学

投稿者: 妙介(管理人) 投稿日:2016年10月 8日(土)17時49分42秒   通報   返信・引用

Ⅰ 仏法と論理学



[132] 1世法と仏法と空仮中の三諦 (1)仮名(名辞)と存在との自動対応はナンセンス

投稿者: 妙介(管理人) 投稿日:2016年10月 8日(土)17時48分21秒   通報   返信・引用

1世法と仏法と空仮中の三諦


(1)仮名(名辞)と存在との自動対応はナンセンス

<仏法と論理学>と言うと、古来・仏教と関わりが深かった<因明>(いんみょう)の事を思浮かべますが、これとは別に全く新しい開拓を試みたい・と思います。

 教法が在る所・論法や論理は必ず付いて回りますから、論理学的な側面は非常に重要です。この事は本章と次章とを見て貰えば判る・と思います。特に、論法の側面が解らないと、空仮中も一念三千も全く判らなくなります。

 そこをこの章で論じたい・と思います。

 昔・中観・唯識両派は印度大乗仏教の二大潮流を成しておりました。その中観派の祖・竜樹は中国や日本でも八宗の祖と崇められております。この竜樹は世間で通用している概念というものは、丸きり信用しなかったそうです。

 経文を見ても仮名(けみょう)仮名と出ていて、世間で通用している物事の名前は皆・仮りの名前だ・として取扱っております。これは今の論理学で言う「名辞は記号(サイン)だ」という事に通じている・様に思います。

 <仮名>は<世俗仮設の名字>という事だそうです。竜樹の場合は既成の概念は全く信用しない・のだそうです。未来に出来る概念についても同様でしょう。現実の如実なる物事と概念との間の距離をはっきり自覚しています。概念は記号で換置翻訳するからです。

 現実の事象は無常で常に変って行って留まりません。それなりの概念の方は事象を仮りに<停止状態>にした所から作り出します。それで如実事象と概念との間には必ず距離が有って、全的には合一(合致)しない訳です。イカとスルメの差が有ります。

 昔、アリストテレスの場合は「主語になる名辞が有ればそれに対応する個物が必ず在る」といぅ考えで、これを第一実体と称し、述語の中でも集合名詞は主語の位置にも来れるから、集合名詞が指す<類・種>を普遍者と言ってこれを第二実体と称し、アイ・ラヴ・ユーの様な<関係の論理>の主語は<偶然的な存在>と称して、彼の論理学では取扱えなかったそうです。

 そして「主語名辞を通じてそれに対応する実体を知る事が本質を把握するという事だ」と言っていた・そうです。この事は沢田允茂教授(慶応大学)の本(『現代論理学入門』)に出ていました。


 これは現実の<如実事象>と<主語・述語・概念>との間の距離に気付いていないか、又は無視しているか・のどちらかな訳です。従って、事態と概念とは全的には合一しない事が軽視されております。つまり、概念は抽象したモデル世界での事象とは合致しますが、生々しいこの現実とは全的には合致せず、普通は概念の方に不足している欠減分が生じます。

 ところが、場合によっては、逆に概念の方に余分を生じてしまう事も有ります。戦時中に流行った<悠久の大義>という概念などは余り過ぎの適例でしょう。

 概念の不足分の方を取上げて強調したのは十八・九世紀の弁証法でした。当時弁証法が持(も)てたのは、一つにはここに理由が有った様です。

 逆に概念の余分性の方に注意したのは中世のオッカムで、彼は 「命題の中へ余計な名辞を持込むな」と主張しました。プラトンの”髭(ひげ)”(普遍を指す)を剃落とす<オッカムのカミソリ>というのがこれです。

 概念や命題には大きい効用が有ります。即ち正しく論理を展開する推理・推論は、自然や世の中の事態を明白にします。こうして合理主義は諸科学と技術との発達を導いて来ました。合理主義の白々しさや人間疎外が言われますが、これは取扱う人や社会の側の問題であって、合理性自体の罪ではありません。

 元来無分別な存在を分別して命題を立てる事は、対象への人間の視野を<狭くする>事です。局限することによって、狭くした枠内において・という条件下でだけ、対象の事態を明らかにする事です。ここに合理の利点が生じて、広く応用が効く事になります。

 その一方で、総体の調和を壊してしまう欠点と・視野を狭くした欠点も生じます。狭ばめた為に解明されない分野が残り、対象が提供すべき対人効用が切捨てられます。それを又別の命題で追求しても事情は同じです。全体性は掴めません。調和も壊れてしまいます。ここに分別の虚妄性が生じます。

 哲学及び論理学の問題としての<記号>(サイン)と仏法で言う<仮名>(けみょう)とは、ほぼ同じ・と受取って好い・と思います。記号は人間の思考作用の根本に関わっていて大事なものです。記号の役割は、知りたい対象を、対象とは別物である記号という代理者によって知る・という所に在ります。<間接>に知る事になります。

 我々が・対象を知りたい・と思う時には、その対象が<何であるか>を把握したい・という事よりも、その対象と自分との直接の関わりの中で、自分へ迫って来る対象の作用の、その働きの<意味>を知りたい・という事の方が多いのではありませんか。

 この場合、対象から直接に<作用の意味>を掴み取る事は出来ませんが、記号を使えば、つまり記号を操作すれば<意味>は判ります。この為に、記号は対象の代理者ですが、同時に<意味の担い手>でもあります。ですから仏法でも<立名>(りゅうみょう)と言って仮名を大事にしています。

 記号が意味の担い手だ・という事は、諸記号はバラバラ勝手に存立して気儘に働くものではなく、集団(文脈)の中で関連し合ってだけ生きて働ける事を示しています。

 諸記号は集団つまり命題文の中の相互の連関(関わり)の内だけで有効なのだ・という事は、当然、諸記号間には約束されたルール(規則)が敷かれている事を示します。この約束された諸ルールが論理学を形成するのは全く自然の成行きです。

 そして論理学の諸法則が発見され確立されるのは当然で、人々はこれを破る訳には行きません。早い話、5×5=24とは誰も認めません。論理が大事だ・というのは、認識でも対話でも・それが成立するかしないか・の鍵を握っているからでしょう。

 その論理学のルールが<同一律・矛盾律・排中律>の三つですが、これについての話は、もっと先へ進んでからでないと出来ませんから後へ回したい・と思います。

 昔の中国でも<正名>(せいめい)と言って「名を正せ」と言っていた・そうです。概念を正しくせよ・というのが本来の意味です。インドでは<因明>という論理学が在り、ギリシャにはアリストテレス以来の論理学が在り、これを土台に合理主義が発展して来ます。


 そうした<正名・因明・論理学>はいずれも世俗の学問な訳ですが、仏法としても、修行について自分が物事を考えたり(自行)人に仏法の話をしたり(化他)するについて、重要な役割を担う訳です。そして仏法には更に、反省自覚の為の論法として<四句分別>というのが在りますが、これは一括して次章で論ずる事に致します。

 この四句分別というのは<論法>であって<論理学論理>ではありませんが、論理と論法とは親類筋に当りますから、続けて理解して行かないと会得が難しい・と思います。仏典には沢山出て来るので非常に重要です。

 アリストテレスの論理学は・長い間・西欧の思想をリードして来ましたが、今世紀へ入ると<古典論理学>として扱われる様になりました。沢田教授の本の話へ戻りますが、三段論法を展開した古典的な<名辞論理学>には間違いが二つ在る訳です。

 その一つは、主語名辞が有ればそれに対応する存在が世の中に<必ず在る>という点です。本当は主語名辞が有っても対応存在が<必ず在るとは限らない>訳です。一例ですが、無とは何ぞや・幽霊とは何ぞや・と言っても、そういう主語事象は世の中に存在しません。

 その二は、時と場所場合に応じて述語的な存在は替っても・それ自身は変らない真の主語存在……つまり第一実体、第二実体が在る・という点です。実際はそういう<実体>は在りませんでした。


 そういう訳で、古典では、現象は<偶然的存在>と言って名辞論理学の対象から外(はず)されてしまいました。個物を第一実体とするのは、結果としてそこに見られる個物・だけを見て、個物がどうして出来ているのか・という縁起構造を見逃しているからでしょう。形而上学的存在論からそうなってしまいました。

 ところが本当は、個物も普遍者(類・種)も現象であって実体ではない。これに連れて本質というものも無い。主語は述語で叙述されて初めて概念内容が決まるもの。つまり概念は命題を通じて初めて決まるもので、名辞と自然存在との自動対応はナンセンス・という事になりました。こうして出来たのが現代の述語論理・記号論理学です。



[131] (2)概念虚妄・分別虚妄・文字は三世諸仏の気命

投稿者: 妙介(管理人) 投稿日:2016年10月 8日(土)17時42分47秒   通報   返信・引用

(2)概念虚妄・分別虚妄・文字は三世諸仏の気命

 ところで竜樹が、命題の真偽を問わず概念は皆虚妄だ・と取合わないのは、概念を引出す元になる主語事象は、諸支が縁起関係の上に成立っているのに、古典論理学にせよ現代論理学にせよ当時の因明にせよ、縁起抜きで、主語となる事象の<成立結果>だけが独存体として指示されており、更に、そこで出来た概念は皆・世俗の中だけでの判断だからでしょう。

 概念は皆・体験から生まれますが、然しそれは既に過去化し固型化し乾上ったモデル世界から抽象した<普遍思想>にすぎないから虚妄だ・と言うのです。つまり分析と総合とを経て再構成した仮構、この固型化した仮構の上に築いたもので、これは流動する現前当面の生活そのものに全的には当嵌りません。もう一つには、概念を使用する分別では対象の全体性及び仏界性は決して掴めません。

 こういう事で、世俗の分別は究極の真ではないから概念虚妄・分別虚妄と言います。世間虚仮もこの謂(いい)です。だが虚仮虚妄の枠内のものとして概念や命題の真偽を分別するのならば、当然・偽を捨てて真を支持するのはやぶさかではない訳です。

 分別虚妄は・本来それだけの線では・本当の意味にはならないのではありませんか。概念は抽象した普遍性のものである事と・概念では対象の全体性や十界性は掴めない事だけではまだ仏法にはなりません。

 本当はそうです。真意は、分別では得道に達する事が出来ない所を虚妄と言うのです。迷いである所を虚妄と言う訳です。分別では六道から出られないのです。分別で得道出来るものならば、大学を出て博士にでもなければ好い訳です。仏法無用です。

 虚妄に対する真実の方は、分別に対する無分別の方に在る……。

 そうです。仏様の経文というものは、理論も文章(演繹操作)も・その中で使用されている概念も・全て正しいのですが、それでも「此等(爾前)の経文は寿量品の……文より思い見ればあに大妄語にあらずや」と言う様に、爾前の無分別は未(いま)だ分別の域を出ない・とされて<分別虚妄>(妄語)と却けられています。この様に<得道>(成仏)>を基準として<分別虚妄・無分別真実>が主張されている訳です。

 その虚妄とか妄語とかの<妄>という言葉は、「妄(みだ)りに……」などと使われる事でも判る様に、「妄りがましい・道理に合わない・筋道が通らない・考えが無い・いつわり・実が無い・無謀」などという意味で使われます。つまり、真実に対して虚妄・実語に対して妄語、こういう語用です。

 正に対して邪・実に対して妄、正邪・実妄、仏法でもこの枠組で使っている訳です。分別というものは肯定(有)か否定(無)かの二者択一を行う所に特徴が有りますが、実相には有無の二者択一は通じないのです。例えば、刹那の一念心の中に三毒の惑心が備わっているのかいないのか・について、『止観』 ではこう言っています。

 「もし先より有(肯定)なりといわばなんぞたちまちに縁を待たん、もし本より無(否定)なりと いわば縁対するにすなわち応ず。有ならず無ならず、<定んで有なるはすなわち邪、定んで無なるはすなわち妄なり>。まさに知るべし、有にしてしかも有ならず、有ならずしてしかも有なり。」

実相は亦有非有・非有亦有だ・と言うのです。実相には有無(肯定否定)の二者択一は通じない事がこれで判ります。二者択一は通じない・という事は、分別は通じない・という事です。実相に対しては、正分別でも分別は虚妄なのです。無分別か<無分別の分別>でないと、実相に対しては真実ではないのです。<無分別の分別>ならば智法になります。

 分別も無分別も同じ人間の為(す)る事なのに、こうも<虚実>が分かれてしまうとは驚くべき事だ・と思います。

 一般に分別というものは「無明が法性に共(ぐう)じて一切の隔歴分別を出生す、故に世諦と名づく」(『止観』)と言う通り、無明の働きによって如実なる真実(法性)から隔て歴(へ)て出て来た・推理上の真実にすぎない世俗諦ですから、ここには成仏得道の真諦は無い訳です。

①無明の所作である事(無明覆障の産)

②主語存在(事象)の如実からは隔歴(きゃくりゃく)している事

③分々の推理真実にすぎない事

④重々の反省が加えられていない事

⑤以上により迷いに属する世俗諦でしかない事

この五つの事柄から得道にとっては虚妄にすぎない。ここを分別虚妄と示している訳です。成道を示し真諦の側から見返した場合には、どうしても分別虚妄という事になってしまう・という事です。迷対悟の迷=虚妄・という事です。

 何しろ得道の空仮中ともなれば、論理学の対象となり得る範囲は<仮>の枠内だけでして、空・中は西洋或いは現代の論理学でも古新因明でも取扱えません。四句分別(後述)意外では取扱えません。ここに・どうにもならぬ厄介さがあります。

 三諦論は古今の論理学論理では取扱えないのです。概念はその意味内容を一義化・一意化して初めて成り立ち得・機能出来るのですが、仏法ではその概念の発生源となる主語事象を判断(反省叙述)するのに空・仮・中と三通りに取扱いますので、概念の場合とは異なって、一義一意化と相容れない点が出て来ます。

 そこの所が縁起法の縁起法たる所以(ゆえん)でしょう。仏法は縁起法ですが、世間の諸説哲学や宗教など)や諸科学は、実体論か実体仮定の上に築かれた諸説諸科学です。『中論』などでの竜樹の説が理解されないのも、縁起論に対して実体論思考で立向かう所から起こっています。

 <縁起>は仏法の根幹です。「如来は是の(縁起中道)法を悟りて等正覚を成じ給う」(『雑阿含経』『華厳経』)と言う通り、縁起論と実体論との対比取捨が<内外相対>の一つの要(かなめ)です。縁起とは・事物事象(法)が成立っている寄合い・つまり<相依>の<関係>を示すものです。

 仏法は理法・事法・教法・行法、何一つとして縁起法でない法は在りません。権教・実数・文上・文底・皆・縁起法門です。そして縁起には平面的(客観的)な横型縁起法と反省的(主観的)な縦型縁起法とが在って、普通ここ(以上諸点)が理解されていないのです。

 論理学での<記号・命名>と仏法での<仮名・立名>とは同じ事でしょうが、関心の向け方は違っている様です。

 論理学では、名辞(記号)はその儘では肯定にも否定にも値いしない<無記>の立場から出発して、記号操作を正しくして得た概念は肯定され、不正操作から生じた概念は否定されます。この肯定された概念は又常識的に名辞化されて世間に通用します。こういう概念及び名辞は、論理学では肯定されるべきものと見ています。

 ところが仏法では、その様な正しい概念や名辞でも、更に否定……反省操作上の否定を加えるベきもの・と見ているし、もっと更には、言語道断と言って超え去るべきものと見ています。つまりは、究極においては否定されるべきものとして取扱っています。

 この意味で、仏法は論理学とは、名辞や概念に対する関心の持ち方が反対です。概念の取扱い方の違いにそれがはっきり現われております。


 名辞や概念について今挙げた面ではその通りです。そしてその上にもう一段在るのです。天台が言う様に「文字は三世諸仏の気命なり」というのが・もう一段高度な段階です。これが仏法での<肯定面>です。

 文字や概念が無いと誰にしても知慧の操作は出来ません。仏法は<知慧の学び>でして、知慧が働く・というのは、観察智と推理智と反省智との三通りの知慧が一緒に合体して働く事です。この三つは元々・一即三・三即一で、一でもなければ三でもない無分別知慧です。

 ここの所に仏法の知慧が在り、この未分合体調和智が渾然の儘働く状態を<般若>と申します。寧ろ分けないで直指した所が般若です。般若は世上の小憎らしい才智や秀才・天才の智能などとは訳が違うのです。

 この般若が自行と化他とに働く局面では、概念や名辞は尊重(肯定)されている訳です。つまり言語や文字については否定面と肯定面と二通り在るのです。

 分別虚妄や言語道断はその否定面での事。その否定面を能く心得ていないと危くて使いこなせない。この使いこなす面が肯定面という事になりますね。

 そうです。その肯定面を建立の仮とも諸仏の気命とも言います。言語・文字・概念の肯定面は建立の仮の全部ではないが一部分には入ります。言語・概念・文字(記号)は仏様の自行と化他とについての気命なのです。論理学論理は智法なので気命になります。

 ですから「仏は文字に依って衆生を度し給うなり、涅槃経に云く『願わくば諸(もろもろ)の衆生に悉く皆出世の文字を受持せしめん』像法決疑経に云く『文字に依るが故に衆生を度し菩提を得』若し文字を離れば何を以ってか仏事とせん」蓮盛抄)と言われております。

 肯否の一方を知ってもう一方を知らないと危険極まり無い……。

 <諸行無常>でもそうでしょう。諸行は一切変らないものは無い・と言う。これを聞いて、今は良いが何時かは悪くなってしまう、これが絶対的真理で脱られない・と悲観論の方だけに受取ったら一方を知って一方を知らない訳です。

 一切は変るのですから、今は悪いが何時かは良くなる……これも片面です。悲観面(否定面)も在れば楽観面(肯定面)も在る。両方兼備して完全な理解です。文字・言語・概念・論理・についても同じ事です 片方を強調してもう一方を無視し、捨てて顧みなければ仏法ではなくなります。

 これでは禅宗の「不立文字」説になり、「所詮・文字は月を指す指(ゆび)だ、月を得てのち指は何かせん」という妄語に発展してしまいます。生まれ育ってしまったら親は不要、習ってしまったら教師は無用、捨ててしまえ・という事になってしまいます。この風潮は今の世の中に現に在ります。これも二者択一の弊害の一つです。

 言語・文字について否定面・肯定面の両方を確認して、今ここでは追々その否定面を追及して行きたい・と思います。

 貴方が挙げた否定の局面は、分別虚妄の一語に要約される様に、これも大事で、それは、移り去って行く現象の流れをその儘体験で把捉しよう・という……一切の存在や知識を五蘊(ごうん)仮和合と見る縁起観だからそうなります。縁起観から言語の制約性に到達して行く必然性は後で述ベます。

 <五蘊>は連鎖して働く<色・受・想・行・識>の五つで、これは五仮和合聚の事ですが、詳しい話は後として、この蘊は陰とも漢訳されています。『止観』 では五陰の方を使っております

 蘊(うん)は、非一(多数)・総略一衆・荷重・分段・などと色々に訳されていますが、要するに、和合聚(集)、つまり、仮りに和合した集まり・積み集められた事柄・何事かの知られた担い手・こんな程度で好いでしょう。

 簡単に言えば蘊=陰=集(縁起集合)で充分意味が通じます。五蘊は縦型の無尽(無窮)縁起連鎖でして、その一回転分を切取って・事象(法)と識智(これも法)との<関係の型>を示した境智一体の智法です。詳しくは後程申し上げます。

 仮名という問題は小乗の『ミリンダ王問経』(『邦先比丘経』)にも在ります。ギリシャ人のミリンダ王がナーガセーナ(邦先比丘)長老に対して「貴方は誰だ」と問う、長老は「ナーガセーナです」と答える。王は「ナーガセーナとは一体何だ」と問う、長老は「仮名です」と答える。

 王が「仮名とはどういう事か」と問う。長老は「仮りに五蘊に依って施設された実体無きものです」と答える。王が「五蘊とは一体どういう事だ」と問う、長老は五蘊の各支を車の部品に譬(たと)え・五蘊を車の全体に譬えて・各支にも車にも実体が無い事を説き明かす。

 こうやって問答を重ねて・縁起観から析空観が説かれ、五蘊仮和合の無実体なるナーガセーナが承認され、因縁和合の仮名説が認められ、王は仏法に帰依する・という事になります。


 この、仮名を立てる<立名>という事が、後世に天台の五重玄義の<名玄義>として重要な問題になる訳ですが、それは後回しとして、ここでは仮和合なる体を指すサイン(記号)としての<仮名>に注目して置きましょう。

 仮名の指す所(対象)全て仮和合の現象体ばかりで、それに本質や実体は全く無い。現象の他に現象のその奥へ実在(実体と本質)を立てるのは間違いである。それが実際世界の真相だ・と指摘して置きましょう。体験世界や客観世界には現象以外は全く在りません。本質や実体は思考の誤りから生じた虚偽概念だったのです。

 五蘊ならざる存在は無く知識も無く、存在や知識として仮和合ならざるは無く・仮和合ならざる五蘊は無く、因縁仮和合ならざる知識は無い。縁起を素朴に言えば「此れ有るが故に彼れ有り、彼れ起こるが故に此れ起こる」「未だ且って一法も因縁より生ぜざるは非ず」「故に一切法・空ならざるは無し」 (『中論』取意)です。


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