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  1. アーカイブ(0)17/03/09(木)01:13
  2. 足あと帳(0)17/03/06(月)17:35
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*掲示板をお持ちでない方へ、まずは掲示板を作成しましょう。無料掲示板作成


とめどもなく劣化し、陳腐化する「国権」

 投稿者:管理人  投稿日:2017年12月13日(水)21時54分1秒 p3657144-ipngn20501marunouchi.tokyo.ocn.ne.jp
返信・引用 編集済
  【田中龍作ジャーナル】より

■モリ、カケ、スパのスパが
超辛口・真っ黒・イカ墨スパゲティ~~!

【スパコン社長逮捕】実態なきAI財団は山口敬之の実家】
http://tanakaryusaku.jp/2017/12/00017128

>渋谷区恵比寿の高級住宅街にそれはあった
ースパコン開発の助成金を騙し取って逮捕された齊藤元章容疑者と、伊藤詩織さんレイプ事件の山口敬之が共同で立ち上げた
財団法人「日本シンギュラリティ財団」の事務所だ。
AI(人工知能)の研究開発拠点にしては、まったくの民家である。登記簿をあげて調べると土地家屋の所有者は山口博久とある。
元TBS記者・山口敬之の実父とされる。

>木造スレート葺2階建ての小綺麗な建物の塀には「山口」の表札が麗々しく掛っていた。
幾度もインターホンを押したが誰も出ない。
すべての窓はカーテンが閉まっていた。

>ネットで検索してもHPすら存在しない財団の実態は、実家に住所を置いただけのペーパー財団だった。
登記簿を見ると、AIには全くの門外漢である山口敬之が代表理事となっている

>元経産官僚の古賀茂明は田中龍作の電話取材に
「経産省内では、齊藤(容疑者)のペジー社と言えば麻生案件か甘利案件と言われている」
と明らかにした。


【逮捕のスパコン社長 諮問会議メンバー入りもアベ友案件か】
http://tanakaryusaku.jp/2017/12/00017085

----------------------------------------------------------------------------------

■なるほどねえ。
元TBSワシントン支局長の山口敬之は、ただの睡眠薬強姦魔じゃなかったわけですね。
安倍や、麻生や、甘利にとっては、
どうしても逮捕させてはいけない人物だった。
準強姦(故意に計画的に薬を飲ませたら、フツーに強姦では?)が、ヤブヘビになってしまって、
巨大疑獄事件の「別件逮捕」になってしまう可能性もあった(笑)

               *


■これ、検察は久しぶりに、お手柄の可能性?
直接、本丸に向かうのではなく、「搦め手から」って……。
まるで、小林秀雄の批評の手口ですな。

海の向こうの宗主国のトップの派閥が変わって、動きやすくなった?
それとも、宗主国が黒幕になった年末ジャンボ大掃除、腐敗在庫人材一掃セール?
成田空港での逮捕寸前にストップをかけて、山口逮捕に関係したまともな現場の刑事さん達を左遷までさせて、
自分は内閣官房総括審議官(次官級)に出世した中村格元警視庁刑事部長は、
今ごろ、どうして、いるので……しょうね。
~メリークリスマス!

■この凄いネタが出てきた後も、あの山口敬之は、
つい先日までの動画のように、花田編集長(ある時期の週刊文春は面白かったんだが)と一緒に、
余裕しゃくしゃくの薄ら笑いを浮かべていられるのだろうか。
~よいお年を!
 
 

板の空気なんか、読むな

 投稿者:大堀敏靖  投稿日:2017年12月13日(水)18時26分39秒 pdcd381a1.tubecm00.ap.so-net.ne.jp
返信・引用
  >~この板のルールは、「板の空気なんか、読むな」であります(笑)

 板亭様からそう言われてKYも許されるお墨付きを頂いたのでありますが、連載されている「泡沫のキリスト」もおもしろいですし、小林秀雄の講演も興味深く次々にsurfして聴いているような始末です。

 「泡沫の…」の中で地獄絵が出てきましたが、いじめが問題になったころ、地獄絵を見せて戒めるべきだと誰かが主張していましたので、さっそく地獄絵の絵本を購入して小学生たちに見せてやったことがあります。

 小学生たちは残酷には慣れていておもしろがっていました。

 しかし、親類の幼児(4歳)に見せたところ、これは衝撃だったようで、じっと見ていましたが、「じごく」「じごく…」とつぶやいて部屋を出て行き、以後「また地獄絵、見ようか」と言うと、マジ切れして怒り出し絶対に絵本には近づこうとしません。

 「徒然草」の中にも幼児を怖がらせるような話を大人がおもしろがってしてはならないと戒めていますが、私はそれをしてしまったようです。
 私も幼児の時に大叔父の葬式に連れていかれ、死体に対面させられた衝撃でしばらく「死」の恐怖に取りつかれた経験がありますから、主人公の気持ちがよくわかります。

 教会の子である同級生の呆けた顔に恐怖心から解放されたといいますが、よくわかるような気がしますので、今後の展開が楽しみです。

 ※

 話を戻しますと、

掲示板の話題は次々に移ろうていきますから、いつまでも憲法にこだわっていては野暮に思えてくるのですが、

まず、フィールド・ワークということについていえば、

今はなんでもパソコンで調べることができて、現場へでも行った気分なれるグーグル・マップとかもあります。
 しかし、いくらバーチャル・リアリティーとか言っても、現場の空気、肌感覚、距離感とかはつかめないもので、やはり現場へ足を運んで実際に見てみるということは研究には必要なことで、図書館や自室に籠っていては味わえない魂が生き生きとする躍動感があると私も思います。

 水晶島や国後島を実際見たとき、太宰の生家斜陽館を見たとき、被災地へ足を運んだとき、やはり感動がありました。

 なによりも思い入れが俄然強まりますし、私の場合抱きしめたいような切ない気持ちになり、例えば被災地がテレビに映ったりすると目がうるうるしてきてしまいます。

 ですから色川門下の方たちは誰が、いつ、どのような状況下で、と根源的なところから問題意識をもって現場で実物に当たられたということで、さぞ活発なグループの雰囲気であっただろうということは推測申し上げます。

 そういう空気を知る小川原さんにとっては、ウイキペディアでしらべたことを根拠に語っている人間など片腹痛いと思われても当然です。

 ごまかすことはできたのですが、ウイキで読んだことは事実だったので隠さず書きました。

  ※

 私は「五日市憲法」と「日本国憲法」は似て非なるもの、絶対異質だと思いますので、前文や一条、九条もいいたいですが、

第13条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

第19条 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。

第23条 学問の自由は、これを保障する。

第24条 婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
2 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。

第25条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
2 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

 「五日市憲法」には見られない、これらの度の過ぎた権利条項が社会に無用な混乱を惹き起したり、時代に合わなくなっている部分もあると思いますので、それを議論できたらと思っております。

 しかし、私は、「カプリチオ」誌の同人でもありませんし、不適切なことを言い出したりしたら容赦なく、削除していだたきたいと思います。

 

史料批判

 投稿者:小川原健太  投稿日:2017年12月13日(水)16時11分44秒 softbank060119133215.bbtec.net
返信・引用
   前のコメントに関連してもう1つ。私が、色川先生のグループの五日市憲法草案発見のフイルドワークにも参加したように誤解されているのではという懸念から。
 五日市憲法草案の発見は、1968(昭和43)年です。そのころの自分はフリーターで住まいも千葉。透谷も読んでいなくて、全然この件は知らなかった程です。その後、多摩地区に移り、透谷を読み出してから、色川先生のグループと近づきになった。学習会、研究会に顔を出した。五日市草案の発掘と研究のリーダーたちは私と同年で気易かったし、調査・研究における苦労話や失敗談など聞いてげらげら笑った。

 なかでもあるテーマで2年ほど月1回の研究会はおもしろかった。資料(史料)を読み込んでいくのだが、それが、いつ、どこで、誰が、なんのための書いたものかなどの議論から始まる。「誰が」なんて文学研究者には作品があるから自明のことであっても、史料では分からないことも珍しくない。五日市草案だって起草者の「千葉卓三郎」の記名はあっても、90年たって地元でも知る人はなく、地元の戸籍調査もかんばしくない。それで同時に発掘した他の史料から宮城県の人らしいと、そこの調査に行く(その過程がなかなかドラマテック)。
「いつ」書かれたかなども、著者が対象の人物と面識あった人か100年後に祖父からの聞き書きではまた異なる。本人が書いたものでも、戦前、戦中、戦後で一貫して思想も文体も変わらない(変えない)人は少ないかもしれない。一貫して変えなければ小林多喜二と同じ目に遭いかねない時代(いつ)もあった。
「どこ」だって関係ないとはいえない。獄中で書いた(書かされた)か、莫大な飴と過酷な鞭で打たれて書いたものかでも違ってくる。
 「どういう意図(もくろみ)でそれを書いたか」これが最も重要。最近の白馬富士の暴力事件による相撲界のごたごただって、当事者、親方、協会の関係者、友人、知人から評論家、街の人の意見まで色々。相撲に疎い私にはなにがなんだか分からないが。発言者の思惑(利害関係)が絡むから、こうも違ってくるのだろうということは感じる。警察により、凶器がビール瓶かなにかいずれ確定されるのだろうが、これだって絶対とは限らないかもしれない。50年たって、時効と利害関係もまったくなくなり、若いころを懐かしく回顧するなかで、「いやあ、あの事件は本当は」なんてぽろっと出てこないとも限らない。

 誰が、いつ、どこで、どういうつもりで書いた(言った)かは、もはや私ごときが贅言を弄するまでもないだろう。これらは歴史研究の前提の「史料批判」であった。これがなければ、拠る史料によって評価(真実)が限りなく迷走したり遠ざかる。「史料批判」はネットでもいろいろ出てくる。文学の研究者でも参考になるところが多いと思われる。
(今日は風邪に罹って、一日外に出られないので、ずーとこんな言わずもがなのことを書いている。最後まで読んでくれた人にはありがとうさん)


 

大堀さんへ

 投稿者:小川原健太  投稿日:2017年12月13日(水)13時19分11秒 softbank060119133215.bbtec.net
返信・引用
   学期末で忙しいのですか。大堀さんが出てこないとなんとなく張り合いがない。「泡沫のキリスト」もまだ中途で間があるので、前回までの自分のコメントに少々補足します。1つは私がウイキペデァを否定したように受け取られているのではという懸念から。
 ウイキペデァは私もよく利用します。決して「旧弊さん」ではありません。人、物事の概要を手っ取り早く識るにはとても便利。その専門の道に通じる方が書いているのでしょう。素人がすぐに書けるようなものではない。大堀さん、「群系」今号に「頭山満・大アジア主義」を書かれていますが、『巨人頭山満翁』という9百ページに及ぶ伝記を読まれたとか、大変なものですね。それと分量的の比較したとして、ウイキペデァでは、3、4ページから10、20ページくらいでは。若いタレントさんを調べるには、私の感覚では少々ミスがあっても構わない(気がつかない。でも26歳と62歳ではずいぶん違うな)。だが、歴史上の人物の評価について、非常に微妙なところで、当然中身を吟味しなければならないところで、ウイキペデァに、こう書いてあるから、動かぬ「証拠」みたいに出されると、なんだ、その程度かと反発した次第です。
 

掲示板小説  『泡沫のキリスト』  〈4〉 関谷雄孝

 投稿者:管理人  投稿日:2017年12月13日(水)11時59分38秒 p3657144-ipngn20501marunouchi.tokyo.ocn.ne.jp
返信・引用 編集済
                      「小説家」137号より再録(2012年12月発行)







 翌朝、しばらく続いていた異常低温も一段落して平年並みになるだろうとテレヴィが予報していた。
 これで玄関傍に植えてある川津桜の開花も少しは進むだろうと思っていたが、長田牧師がなかなか姿を現わさない。
昨日の帰り際の様子が少し変わっていたのでその後の具合を気にしていると、午前中の診察時間ぎりぎりに
息を切らしながら現れた。



「ありがとうございました。昨日は無事に信者の皆さんを祝福できました」

 汗の滲んでいる頭の包帯が丸く太った顔から今にも崩れそうになっていて正月に遊ぶ福笑いにも似ている。
しかし包帯を除くと傷は化膿する様子もなく綺麗に縫い目が揃っていた。処置を終えてから、

「貴方を診察したことで久しぶりに眞也君の事を思い出しました」
と言った。
彼は私と眞也の小、中学生時代の話を或る程度は知っていた。



「そうでしたか。お父様がなかなか変わった、伝説的な人だったと伺っておりますが、
古い信者の方たちからは眞也さんと先生の話はよく聞きました。戦時中で友達がどんどん離れて行く
中で中学生だった先生が三月の大火災の寸前まで会いに来てくれていた……と」

「あれは多分、彼とお父さんが私にはキリストを一度も薦めてくれなかったからかもしれない」
私はテレ臭さ半分にそう答えた。

 牧師は太っている上に運動不足もあって腰痛をよく起こして来院する事が多かったが、
その度に私はキリスト教を含めた宗教一般の人間の心の動きなどを気楽に質問する事が多かった。
すると彼なりのユニークな感想を語ってくれたり、調べる事が必要な時には慎重に文献を調べて
後日解答してくれる事があった。

 治療が終わっても彼は直ぐに席を立とうとしなかった。
そう言えば眼の周辺が少し暗い。


「何かお聞きになりたいことでも……?」
「いや、何回もしつこいようですけれど、脳波は検査しなくてもいいんですか」
  また聞いた。
「今日まで拝見して経過を診て居る範囲では、全く必要ないと思いますが、どこかに気になる症状が
あるのでしたら何でも話して下さい」

「いや、別に……。そんなに気になる事でもありませんが……脳波は記憶についてのいろいろな事が
わかるのですか」

とゆっくりした口調で聞いた。
「それは、記憶という能力と特別に関連深い診断道具とは言われていませんが……」
 私の返事に、もう一段肩を落した気がしたが帰っていく歩き方を見ると神経学的に異常な症状は
出ていない。

 温厚でどこかユーモラスな部分があるが、心配な所もある長田牧師を診察した後、私は昼の休診
時間に、診察室の気に入っている黒いレザーの椅子に坐り込んだ。
目の前は大きな磨りガラスの窓になっていて、例年ならば満開に近いはずの川津桜の花数が極端に少ない。





 私は焔魔堂の続きを思い出した。
眞也の呆けた表情を見た時の、心の中に起こった真昼の手品を見るような突然の展開――、
そして急に自分の気持の中に昂揚感が起こり、気分が晴れて行ったあの瞬間。
近頃は、よく思い出が浮かんで思い出と遊ぶ時間が増えてきた。
時には思い出のくせに勝手な方向に感動を覚えて、その方向に物語が進んでしまう事さえある。
暗くて身動きできなくなるものに躯を縛られて、まだ小さくしか持っていない自分の世界の未来までもが、
容赦もなく潰され掛かっていたあの牧師館のうす暗い玄関で、出しぬけに起こった展開と解放。
それが友達の半眠りの顔というなんでもない小さな現実だったということが、これだけ長く生きてきた躯で
考えて見ると、なんとも愉快な事に思えてくる。



 これまでの人生の間にあれから何回の抑圧と展開、解放があっただろう。
あの時、もし眞也がいつもの真面目顔でいつものような余裕のある小さな微笑を浮かべながら降りてきたら、
私がどう反応したろうかと考えた事が何回もあった。
しかし、人間が生き続けるという事は、私の心が瞬間に展開してあの言葉を発言し、
彼が呆気にとられて棒立ちでいる間に二人が別れるという事実しかなかったのだと思う。
そんな繋がりが大事を次々に作っていくだけだ。


 その後十歳同志の心の中での交流は、何も知らない彼の方は変わる事はなかったが、
私の中では二層にも三層にも気持が重なったと感じた記憶が幽かに残っている。

 しかし、あの直後から確実に変わってきたのは、それまで曖昧だった自分の持っている生命という
実存が、傷つきやすい生なものと思えるようになった事と、それに深い傷ができた事だった。


 その当時、心の中を占めていたもっとも嫌いな物語は、私が生まれた翌年にあった上海事変の際に、
頑強に抵抗する支那軍の銃座の前につくられた鉄条網という障害物のため日本軍の死傷者の数が増え、
それを突破するのに三人の決死隊が選ばれて、竹筒で巻いた火薬に導火線を付け、これを胸に抱いて這いながら
障害物に近付き躯ごと炸裂して爆破、軍功を立てたという話だった。
全ゆる場所で三人は英雄だった。
誰もが日本のために死んだのだから偉いと誉めた。
私はこの話がどうしても好きになれない事を、祖父や母や、眞也に相談してみたかったが口に出す訳にはいかなかった。
それに普通の家庭なら父親に話すことなのだろうが、それもできない。
まずその事実が怖かった。自分が命令されたら絶対にできないと思った。
第一、火花を散らしている爆弾を胸に抱いただけで手足が動かなくなるのが分かっていた。




多分この話を聞いた時の方が閻魔堂の衝撃よりも一年早かったと思う。
入学した時には小学校はもう軍国教育が大分盛んになってきて、この爆弾三勇士の話と、胸に弾が当たっても
突撃ラッパを吹いたというスーパーヒーローのラッパ手の話が教えられていた。
しかしそれらの話はまだ兵隊という大人の時代になってから直面する問題だと思っていたので、直接肌に
触れた怖さがなかった。
ところが、閻魔堂の絵と御詠歌の語りが気持に響いて、死が生々しく自分に纏わりついてきてみると、
私は本能的な死の恐ろしさを感じる前から、心の中へ屈折した死を押し込められていたのは確かだった。


 眞也とは四年生以後になると、委員の交代などがあったりして、
最初の頃のような濃い交流はなくなったが、学級生活の中では二人は飛び抜けたライバル同士だった。
 授業の答え方とか、テストの書き方は各各のやり方を守っていたが、運動は共にあい変わらず人並み
に動けないままだったし、熱心に練習もしなかった。
 そんな中で眞也の躯の中にはいつも賛美歌が流れており、祈りの時にはオルガン奏者でもあったので
音楽が得意で、私の方は図工が好きで何回もの展覧会で賞を貰っていた。
 その頃になると旧友の中には教会のいろいろな催しのクラスに行く者が増えてきたが、
私は特別行こうとも思わなかったし、次第に十字架の塔のイメージやそれを囲んでいるヒマラヤ杉の
黒ずんだ枝や葉の印象も薄れた。



                                                    (つづく)





 

「魂について」 小林秀雄

 投稿者:管理人  投稿日:2017年12月12日(火)00時47分20秒 p3657144-ipngn20501marunouchi.tokyo.ocn.ne.jp
返信・引用 編集済
                         ◇

根保さんお久しぶりです。
そちらの掲示板で、勝手に「掲示板小説」の宣伝、URLを張らせていただきました。


              *


先日も、志賀直哉のリンクを張りましたが、
最近は、YouTubeで過去の文学者や哲学者の肉声が聴けるので面白いですね。

【魂について 小林秀雄】
https://www.youtube.com/watch?v=bfhqqi9gkPo
■フロイト、ベルクソン、柳田国男、本居宣長…。
小林秀雄が興味を持った思想家には、
反唯物論的で、直観的、宗教的、幻視者的――というような
共通項があるような気がします。



              *



【小林秀雄「気違いが聖人だった話」 】
https://www.youtube.com/watch?v=aVZn6_SvS4I

■こちらの語りも面白い。
むかしは、東京の下町に、こういう喋りをする洒脱な老人がよくいましたね。
「学問を、おせぇーてもらう……」
夏などは、路地裏の縁台で、浴衣がけでビールなど飲みながら、
団扇でパタパタ顔を仰ぎつつ、
こんな間の取り方と、舌ったらずのアクセントで、放談していた…。





 

掲示板小説  『泡沫のキリスト』  〈3〉 関谷雄孝

 投稿者:管理人  投稿日:2017年12月12日(火)00時21分55秒 p3657144-ipngn20501marunouchi.tokyo.ocn.ne.jp
返信・引用 編集済
                         「小説家」137号より再録(2012年12月発行)





 いまから思っても不思議なのだが、その当時、眞也もその父親の牧師も私に対して一度も祈りに来ないかとか、
教会の行事に参加しないかとすすめる事がなかった。
理由は分からない。同級生の中には幾人かの子が参加していたが私は夏休みになると彼とは
殆ど会う機会が無かった。



 その日、近所の友達三人が両国回向院の縁日に行かないかと誘いにきた。
江戸時代には勧進大相撲が行われた有名な寺院で、露天の売店も出るが一年に一度、大扉が開かれる
お堂の絵が物凄いと言うのだ。
普段は大人も見られないのが、この日は地獄の釜の蓋も開くと言われていて大人と一緒ならば子供も入れるという。
 下町の夏独特の、白っぽい光線が木蔭のない通りに差し込んでいて人影は少なかったが、
お寺に近付くにつれて人が増え、大きな山門までくると、境内にはいろいろな店が在って見物人の行列が
できていた。
流れのままに中へ入ると、正面に驚くほど大きな赤ら顔に黒々と髭を生やした閻魔大王の像があり、
両側の広い布に、赤、緑、青の泥絵の具で毒々しく裸の人間たちが苦しんでいる有様が具体的に描かれていた。
手首を捻り取られた者や、首の飛んだ人間。
口から舌を引き抜かれている老人もいる。赤鬼や青鬼に河原で苛められて泣き顔している子供たちも大勢いた。
 小高い席から掠れた声の男が連続して御詠歌調の物語を吟じていた。
低い調子の心に染みる悲しいメロディーである。
内容には分からない部分が沢山あり、行列は絶えず進んでいて、格子戸から入って裏門から出るまでは
十五、六分だったと思う。
 私にとって全部が初めて聞く話ではなかったし、閻魔の顔も絵本で何回か見ていた。
しかし裏門から人の流れで押し出された時、相変わらずの夏の白茶けた光の下で、自分だけが
不気味な黒い網で包まれてしまったという感じがしていた。
躯の芯に小刻みに震える寒気もあった。
 後で考えてみると、小学三年のこの瞬間に、生まれて初めて絶望という精神状態に追い込まれたのだと思う。
 衝撃だった。
 友達や連れてきてくれた大人にどんな挨拶をしたのか全く記憶がない。
 ひたすら家へむかって急いだ。



 家に着いたが祖父だけが帳場に坐っていて母は外回りの仕事でいなかった。
二階北側の部屋に着くと暑いのに押し入れに入り、夜具の中へ潜り込んだ。
立っている事ができなかった。あのお堂の血塗られた絵ともの悲しい御詠歌が、これ程じかに
私に響くとは思っていなかった。
今まで、あの物語は老人たちが自分に近付いてくる死後の世界の準備のために聞いているという事で
納得していた部分があった。
それが突然、自分たち子供も実際に参加している場所だと教えられた事が心に刺さった。
しかも死んだ後も、長い間続くのだぞと言い切られた。
初めての実感だった。生き物を殺してはいけない。
殺した者には必ず罰が下る。蟻さえもいけない。しかしもう知らない間に百匹以上もの蟻を踏み潰しているはずだ……。
 暑くて暗い押し入れの中には居られなかったので外へ出たが、この問題は祖父や母に聞いても
解答はきっとでないだろうと思った。
どうしたらこの苦しい気持から逃げられるのか。
もしかすると……、と思った。
眞也の父の、あの尖塔の下の場所へ行ったら何とかなるのかもしれない。
あそこは大人たちがこういう時の事を皆で研究している所なのかも知れない……?
ぼんやりだがそう思えた。



 一度牧師館の方へは学校の帰りに連絡のため寄った事があった。
彼と全く同じ丸い眼鏡を掛けたお母さんがいて、微笑を浮かべながら生まれて初めての紅茶をご馳走してくれた。
その時、美しい光が差し込んでくる特別な窓を見た記憶があった。
私はあの教会に行ってあの光が溢れていたガラスの絵だけでも見せて貰おうと思った。
気持が変わるかもしれない。一度思うとその思いはどんどん切実になった。

 教会の横の鉄格子から牧師館へ入る狭い道にはヒマラヤ杉が木蔭を作っていた。
玄関に着くと眞也の名を急いで呼んだ。
誰の返事もなかった。戸を開けて中へ入ると、正面の板の間から左へ、二階に上がる黒褐色の拭き込まれた階段がある。
しばらく間を置いてもう一度呼ぶ。自分でも悲鳴に近い声になったと思った。
やがて二階から眠そうな声がして、昼寝をしていたらしい眼鏡をはずした眞也が、
充分に目覚めていない少し浮腫んでいる顔で階段を降りてきた。
 それを見て咄嗟に、私は眞也に助けを求め縋りつこうとしている惨めな自分の姿に気がついた。
彼がゆっくり降りて来るので一息つけた。
 回向院の裏門を出た時から見失っていた自分をやっと取り戻した。



「しばらく会わないけれど元気かい」
 驚くほど張りのある声を出す事ができた。
「ああ、いま皆、留守だけれど、ぼくの部屋に上がらないか」
「いや、いいよ」
 心の中ははっきり変化しているが、まだどうなっているのかの自信がなかった。
心の転換が自分でも不思議でうまくつかめていなかった。
「顔さえ見ればそれでいいんだ。じゃあまたな」
 別れの言葉もそこそこに裏玄関から飛び出した。


                             (つづく)


 

根保さん、ありがとうございます

 投稿者:小川原健太  投稿日:2017年12月11日(月)12時33分10秒 softbank060119133215.bbtec.net
返信・引用
  さっそくお目通しいただきありがとうございます。目にとまっただけでありがたい。短編を作るおもしろさみたいのが、自分でも少し感じられました。テーマとは一見何のかかわりもようなエピソードをぽつんと挿入して(3歳の女の子の入浴シーン)じわじわと相乗効果を狙うような。短編でも書き込みすぎたかなと悔いる点と、逆に省略しすぎた(蜂毒を消毒するために小便が、自分のが出ない。ユキネーが小便をしてかけてくれたとか。これは扱いによってはかなりえげつない話になるので、場面を変えて、暗示的に分かるように書いたのが、全体の半分くらいになる長さになったので、締め切りぎりぎりで、全部をカットした)。
 あんまり自分で言ってはまずいか。容赦の無い読みをお願いします。 
 

小河原さんへ・・面白い切り口で短編の妙を発揮した作品に感じいりました

 投稿者:根保孝栄・石塚邦男  投稿日:2017年12月11日(月)06時26分47秒 KD175131209158.ppp-bb.dion.ne.jp
返信・引用
  ・雑誌受け取りました。蜂の観察・・・雄蜂の役割の哀れと人間の男女の世相と二重写しにしたところが、作品に立体感を与えていて、作品の意味喩を深めた佳作で、アングルが新鮮でした。時間とれましたら、読み込んで感想書きます。間島さん、荻野さんの作品も人柄、個性をいかんなく発揮した味わい深い作品でした。時間とれましたら近く感想書きたいと思います。

http://6909.teacup.com/nebo/bbs/

 

大堀さんへ

 投稿者:小川原健太  投稿日:2017年12月11日(月)02時43分53秒 softbank060119133215.bbtec.net
返信・引用 編集済
   前回の私のコメントで、大堀さんの歴史の研究方法を「ためにする」などと言ったので、大堀さん相当くさって以後書く気がしなくなったのではと、ちょっと間が空いたので心配しておりました。その間また「五日市」に戻り、明治憲法や現行憲法と比較しながら読んでいたとは。「へー、そーだったの、まあ、考え方は逆だが、そういうまじめに取り組み考えようとするところが大堀さんのいところだな」と、まあ、子供を褒めるようないいかたで、学習塾の先生の大堀さんの苦笑が目に浮かぶようで申し訳ないが、率直な印象です。

 それで条文の数のパーセンテージで比較してるのがおもしろかった。条文でも、実にあっさり短文のものもあれば、但し書きのまた但し書きみたいに一読では?と分からないような長文のものもあるから、条文の数ではなく文字数で比べるとまたおもしろいかもしれない。いまワードかエクセルに移して簡単にできるのでは。ただ数値だけで決められないのは、例えば「五日市」の「国帝」に関する41条を字数にしたらパーセンテージはもっともっと上がると思われるが、長ければ長いほど(細かいほど)その範囲を超える言動を制限するものと読むと、数値だけで決められない。それは大堀さんも100も承知で、こういうアプローチもできるということで試みたのでしょう。おもしろいです。

おもしろいといえば、大堀さんの


> 教え子でも大人になっても付き合っているのは出来の悪かった生徒がほとんどですから、どちらかというと道をはずれた人間の方にシンパシーを感じてしまう人間なのです。

 これには笑ってしまった。この文脈から読むと、たぶん管理人も私も「出来の悪かった生徒」「どちらかというと道をはずれた人間の方」に入るようで、管理人はいざ知らず(といっても狂気とか陰謀論をやたらと振りまくから、その気がないでもないか)、私などは、この歳になっても、初体験の女は今頃どうしてるかと恋々と書くような人間で、確かにかなり「道をはずれている」なと、妙に感心納得されて、笑いがとまらなかった。食事中、このことは思い出して一人でにやにやしては、いよいよかみさんに愛想をつかされはしないかと心配などと先回りして考えるといよいよ笑いがしばらくとまらない。でも管理人が言うように、

>大堀さんが一貫して自説を展開してくれることで、
私などは自分の考えを再考できる機会が与えられているようなものです

 私の場合もまったくその通りです。「五日市」を改めて読み、明治憲法や現行憲法と比較してみたりと、改憲論議が現実味を帯びてきたいま、時宜を得た機会を与えてくれたと大堀さんには感謝もしているのです。


 

大堀さんへ

 投稿者:管理人  投稿日:2017年12月10日(日)22時19分16秒 p3657144-ipngn20501marunouchi.tokyo.ocn.ne.jp
返信・引用 編集済
  >新しい小説の連載も始まりましたし、小川原さんに「ためにする」と言われ、
板亭様は鈴木安蔵にこだわり、また、中東情勢など紹介されていますので、
もう辞めとこうかとも思ったのですが、憲法は改正に王手がかかった状態で護憲派にしても
緊要な問題になることは間違いないので、初志貫徹で、議論は継続すべきだと思い直しましたので、
なるべく道を外れないように、五日市憲法を主軸に現憲法も語りたいと思います。
                                   (大堀コメント)

■いやいや、それこそ「初志貫徹」で、続行してくださいよ。
逆に、大堀さんが一貫して自説を展開してくれることで、
私などは自分の考えを再考できる機会が与えられているようなものです。
~この板のルールは、「板の空気なんか、読むな」であります(笑)

 

「五日市憲法」の位置

 投稿者:大堀敏靖  投稿日:2017年12月10日(日)20時53分31秒 pdcd381a1.tubecm00.ap.so-net.ne.jp
返信・引用
   新しい小説の連載も始まりましたし、小川原さんに「ためにする」と言われ、板亭様は鈴木安蔵にこだわり、また、中東情勢など紹介されていますので、もう辞めとこうかとも思ったのですが、憲法は改正に王手がかかった状態で護憲派にしても緊要な問題になることは間違いないので、初志貫徹で、議論は継続すべきだと思い直しましたので、なるべく道を外れないように、五日市憲法を主軸に現憲法も語りたいと思います。

 民権ということですから、私も「五日市憲法」の第二篇 第一章「国民権理」、現行憲法第三章「国民の権利及び義務」(第一〇条~四〇条)、そして「明治憲法」の第二章「臣民権利義務」(第十八条~三十二条)に絞って読みました。

 まず言えることは、明治憲法の「臣民権利義務」は15の条文しかなく、すぐ読めるのに対して、「五日市憲法」は36条、現行「日本国憲法」は31条で倍以上あり、特に「五日市」は難解な原文で時間がかかりました。

 条文の数を15、36、31と並べると明治憲法がいかに国民を軽視し、つまり民権を軽く見て国権を重んじていたかがわかるようですが、条文全体の数を考慮すると、

 明治憲法  15/ 76 ⇒ 19%
 五日市憲法 36/204 ⇒ 17%
 現行憲法  31/103 ⇒ 30%

全体の割合を考えると明治憲法と五日市はそう変わりませんが、現行憲法は倍くらいの割合になっていることに気づきます。
 こういうのは比較憲法学者がすでに研究していることで、素人の私なんぞがとやかく言ってもたかが知れているのですが、

 感想を大まかに述べれば、

明治憲法は例えば、信教の自由にしても「安寧秩序ヲ妨ケス及ビ臣民タルノ義務に背カサル限リニ於イテ」と条件がつき、五日市は、そういう前提条件はなく、「信仰スルハ各人ノ自由ニ任ス」の述べた後に、政府が「国安」や宗派間の「平和」を保持するために必要な処分をすることができると述べております。
現行日本国憲法は「信教の自由は何人に対してもこれを保障する」と無条件の自由となっています。

ですから、五日市が明治と昭和の憲法の中間に位置し、どちらかというと現行憲法に近いというのは小川原さんが指摘される通りだと思います。

また五日市には第45条に「日本国民ハ各自権利自由ヲ達ス可シ他ヨリ妨害ス可ラス且国法之ヲ保護ス可シ」という小川原さんが「感涙に咽ぶやうな」件がありますが、こういう条文は明治憲法のどこを探しても見当たらないと思います。

民権を十分過ぎる程際立たせた画期的な憲法草案であったことはまちがいありません。
明治の代に日本人の手によって、こういう憲法草案が60とか100とかいわれる数も作られたということは驚きで、民権の確立、伸長ということにどれだけ知識層は関心があったか伺うことができます。
それは外国からの書物による思想の流入の影響によるのか、江戸時代の封建社会の反動なのか、興味深いところです。
私は、右翼の源流といわれる玄洋社の綱領にまで「民権の固守」と書かれていたことに驚きましたが、それだけ必然性のある、渇望された権利主張だったと思われます。

しかし、当時の人々の頭のなかには、天子様の中心にまします国柄という自明の大前提的固定観念が存在したのも事実で、開明的合理主義者の福澤諭吉でさえ例外ではなかったことは一方で考えなければならないと思います。

比叡山を焼き討ちにした神仏をも恐れぬ信長でさえ、幕府は退けても朝廷に自分が成り代わることは考えなかったことと同様に、日本民族のDNAに染み付いた国柄(國體)に寄せる信仰に近い信念のようなものも考えなければならないと私は思います。

それが「国帝ハ…」とか「皇帝は…」という条文となって明治の草案にも表れていると思います。
で、ありますから、繰り返しますが、葦津珍彦氏が言うように当時の人々にとっては民権と国権は対立概念ではなく、自然にハウフヘーベンされて何の矛盾も感じなかったのではないでしょうか。

国家というと普通、領土とかそこに住む国民、その命ということになりますが、突き詰めて考えると、生命が至上価値ならば命をかけてまで守るということは矛盾してしまうので、命以上の価値、それが、自分の心の中にある日本ということになって、つまり自分=日本ということになって、国権と民権もなんら矛盾することなく、考えられていたのではないかと思います。

国=公権力ではなく、国=天皇を中心とした国柄ということで、捉えられていたのではないかと思います。
いや、違う、明治までの日本人は因習から迷信に取りつかれていただけで、それはやがて清算すべき無知蒙昧で、それが進歩的にいま払拭されつつあるのだ、五日市憲法はその先駆だとおっしゃるならば、またお教え願いたいと思います。

現行日本国憲法の「国民の権利」規定であまりに突出した部分についても述べようと思いましたが、それはまたに致します。



>■アプリオリに「天皇」「国家神道」「國體」を至高の絶対善とするらしい大堀氏は、
こうさりげなく切って捨てていますが、鈴木の葛藤であった「正義感⇔国法」の問題を、
はたしてそう単純に、割り切っていいのかどうかも、はなはだ疑問であります。

 私は「群系」27号に書きましたように、コミュニストの人々の優しさを知っていますので、絶対に「切って捨て」たりはしません。

 議会があると必ず街頭に立って議会報告をしていた地元の共産党の議員には頭が下がりましたし、学校で一番指導に熱心で生徒の心に近かったのは日教組の先生でしたし、学生時代バイトをした塾の塾長はバリバリの中核派活動家でしたが、涙が出るくらい優しい人でその恩義は忘れないのであります。

 私も谷口師の薫陶感化を受けねば絶対、左翼かパヨクになっていたはずです。

教え子でも大人になっても付き合っているのは出来の悪かった生徒がほとんどですから、どちらかというと道をはずれた人間の方にシンパシーを感じてしまう人間なのです。
 何卒、ご理解ください。
 

掲示板小説  『泡沫のキリスト』  〈2〉 関谷雄孝

 投稿者:管理人  投稿日:2017年12月10日(日)19時34分28秒 p3657144-ipngn20501marunouchi.tokyo.ocn.ne.jp
返信・引用 編集済
                                                            「小説家」137号より再録(2012年12月発行)




 眞也たちも三月十日の夜、二人だけで教会を護っていたが行方が分からなくなった。
地獄の夜が明けた朝、混乱した大勢の人の流れの中に誰も彼等を見た者が居ないと、生き残った信者たちは
不思議がって話していたが、それは近くにあった石鹸工場の油タンクに火が入って、その周辺の人間が一瞬
に炎になって消えただけの話である。
長田牧師は眞也の父から数えて四代目のR教会の牧師になる訳だ。
 眞也とは小学校三年の春の組替えで一緒のクラスになった。
男子だけで一クラスに五十人もが詰め込められていた。
担任は、少し白髪の混じった豊かな髪を頭の後ろで引っ詰めに結った小柄で芯のある女教師だった。



 私が教会の尖塔を初めて見たのはまだ小学校へ入る前の、五歳の頃だった。
 碁盤目のような区画整理がされている街である。
当時、その年齢の子供の独りでの行動範囲は、親たちから四つ辻一つか二つ位の範囲までしか許されなかっ
たので多分母親の用事に付いていって途中で見たのである。
その時の天気だけははっきり覚えていた。底冷えのする雪曇りの午後だった。


 その時見上げた塔は、ただ真っ黒で、周囲の崩れ掛かったような低い長屋の屋根と屋根の間からぬうっと
突き出して灰色の空に立っていた。
その姿が恐ろしかったのか、もっと近づこうとした母親にむかって烈しく泣いた事を覚えている。
 眞也は背が低く顎が張った顔に丸い鉄縁の眼鏡を掛け、いつも歯を喰いしばるようにして鉛筆を握り文字を
書き、歩く時は正面を向いて真っ直ぐに歩いた。。
 一方私の方は、町の中央を隅田川からの運河が流れる一隅で、当時は、祖父と母で数人の雇人を使いながら
薪炭問屋を営んでいる商家で、養子だった父は死んでもういなかった。
兄とも年が離れていたので普段は放任三昧に近かった。
 春休みに入り新学期の組替えがあるので出会う前から次に一緒になる教会の子の噂はいろいろと耳に入ってきた。
確かにその時代の下町でのキリスト教は耶蘇と呼び捨てにされていて馴染まない大人たちが多かった。
宗教としての知識が殆ど無いのに、アカと呼ばれている共産主義信奉者と密かに深い所で絡んでいると
考えられていて、いつも声を小さくして噂されていた。



 その当時の小学三年生の常識というのは今から思うと、考えられないほど知識の量が少なく幼稚な上に、
その殆どがいろいろな噂にデフォルメされてから頭にはいってきて、その上全く整理されていなかった。
おいてけ堀の河童はしっかりと生存していたし、人魂、赤マントの怪人、のっぺらぼうには、
クラスの二、三人がそれぞれ確実に出会っていて、遠い支那で起こっている現実の戦争の話では
何の不思議もなく人間が殺したり殺されたりしていた。
 そんな状態の中で、全く家庭環境の違う二人を女教師は、何を企んだのかクラスの委員に選んだ。
勿論前年の夫々の担任からの助言を参考にしたのだろう。
それに通例は四人委員を選ぶのに二人だけにした。
個性の強い問題児が多いと言われているクラスの混乱を避けるために単純にしておきたかったのかもしれない。


 二人は新学期早々からお互いに忙しく相談し合わなければならなくなった。
しかし、両方の家庭と親たちの状況が違い過ぎている。
まずそれぞれの家で使っている言葉が違い、家庭内の時間割が全く異なっていた。
それに二人の性格や行動にも癖が多かったが口争いになる事がなかった。
眞也が自分の言おうとする事をいつも相手に分かって貰おうとゆっくり話すからだった。
それは父親からいつも教わる事だと言っていた。


 教師の質問に逸早く手を挙げて答えようとする私に対して彼はいつも黙っていて、指示された時だけ
正確に答えた。
試験の答案を誰よりも早く書き上げようとする私。
ゆっくりと四角い字で最後の丸まで色濃く書く眞也。
昼休みになると我先に弁当箱を取り出して食べ始める仲間たちに対して、彼はそれを机の上の一定の場所に
据えるとびっくりする程長い時間眼を閉じて祈り続けた。


 二人は躯を動かす事がそんなに嫌いな訳ではないのにスポーツが極端に下手な事が共通していた。
眞也は手足が自分の思う通り器用に動かないし、私は手足に力が入らずどうしても早く走れなかった。
だからお互いに体操が好きではなかった。
友達も最初は誘ったがそのうち呆れて無理に二人を遊びの輪の中に入れようとしなくなった。
しかし、それが却って都合良く、休み時間は他人から邪魔されずにいろいろな話題を話し込むようになった。
そういう意味では相互の家庭が極端に違っているのが面白かった。


話し合いを始めた比較的早い時期に、眞也の家族たちが食べるご飯のお金は何処から手に入るのかという具体的な問題が話題になった事があった。
牧師の家の長男と、下町商人の次男の間で、まだ銭を得るための具体的な方法をよく知っていた訳でもないのにそんな話になってしまったのである。
教会で品物を売っているという話は聞いていないし、キリスト教は銭儲けとは関係ない集団だと聞いてもいた。第一、眞也が米粒の入った弁当を持ってくるのに違和感さえあった。
いろいろ話をしたが、話してはいけない部分が沢山あり、話してはいけない言葉が魚の骨のように咽喉に刺さって、結局お互いの中の好奇心が萎えた。


 二人の会話はいつも熱心だったが直ぐに行き詰まってしまうことも多かった。
しかも眞也の躯に染みこんでいるキリスト教というものの体臭が、どんな問題にも、知らないうちに人間が生きる悩みらしいものと、不器用にくっつけようとしてくるので私が白ける時もあった。
しかしそれで話をする事が嫌いになる事はなかった。幾人かの友人達からは疎まれていたが、
眞也のいつも変わらない正直な態度と、他の友人との間では決して感じる事のない、大人じみた悲しみや喜びを感じさせて貰う事があったからだと思う。
 今でもあの頃の事を思い出すと、遥か昔の事だが、まるで焦点の合わない万華鏡を覗き込んでいる気がする。
はっきりした像は結んでいないが、次々に追いかけたくなる何かが映っていた……。


                                   (つづく)

 

~ちょっと面白いので

 投稿者:管理人  投稿日:2017年12月10日(日)12時38分58秒 p3657144-ipngn20501marunouchi.tokyo.ocn.ne.jp
返信・引用 編集済
  ■話がいきなり飛ぶのですが、
「なぜトランプは突然、エルサレムがイスラエルの首都だという宣言をしたのか?」
この米大統領の奇妙な行動で、なかなか説得的な解釈を、経済アナリストの藤原直哉氏が展開しているので、
憲法論議、掲示板小説という"流れや空気を読まずに" リンクを張っておきます。

どうも、単純に、トランプは、ユダヤの軍門に下がった、ということでもないようです。


「トランプは、イスラエルの同志を装いつつ、スズメバチの巣を、あえてつついた」説!


2017年12月時事解説・時局分析 藤原直哉理事長(第28回 NSP時局ならびに日本再生戦略講演会)
http://naoyafujiwara.cocolog-nifty.com/ipodcasting/2017/12/20171228-nsp-74.html

>「音声はこちらからダウンロード」をクリックで音声開始

               *


■うーん、この解釈、
これまであの政権が展開してきた、狡猾で逆説的なフェイク的政治手法を考えると、
なかなかに、説得力がある。
大統領就任から一年、このアクロバティックな戦略的外交で、プーチン・ロシアと裏で示し合わせて、
米英戦争屋・ネオコンが急ごしらえした傭兵集団であるISISを、
ほぼ殲滅してしまいましたからねえ。

怒り心頭のイスラム教徒たちに、さらに火をつけて、
これでもはやイスラエルは、いよいよ太平洋戦争期の日本における「ABCD包囲陣」状態…。
嘆きの壁の前で、ユダヤ帽キッパを被って、涼しい顔して、何かごにょごにょ唱える千両役者トランプ。
ナ~ルホド。
https://twitter.com/naoyafujiwara/status/938536364005457920?ref_src=twsrc%5Etfw&ref_url=https%3A%2F%2Fshanti-phula.net%2Fja%2Fsocial%2Fblog%2F%3Fp%3D144566


■傀儡トランプ大統領の黒幕であるペンタゴン改革派の中には、
孫子のような、マキャベリのような、
諸葛孔明のような、かなりの軍師、知恵者がいるんでしょうねえ。
 

鈴木安蔵 経歴

 投稿者:管理人  投稿日:2017年12月10日(日)09時07分36秒 p3657144-ipngn20501marunouchi.tokyo.ocn.ne.jp
返信・引用 編集済
  ■なかなか、五日市憲法の「国権=民権?」問題に戻らないようですが、
それはそれとして、こういう流動性も、掲示板らしいインプロビゼーションということで…(笑)
明治半ばの私擬憲法を生んだ日本の"在野の精神"を確認することは、
現在の民主主義や現行憲法を省みることですし―――。

~Wikiは私もよく使ってしまいますが、とりあえず便利ではあるんですよね。
ほんとうは、「以下はWikipediaの情報に過ぎませんが」とか何とか、
要検証というニュアンスも含めて、
何か断り書きをつけるべきなんでしょうけど。


鈴木安蔵 経歴
【憲法理論研究会の創始者・鈴木安蔵氏の人と学問 金子 勝(立正大学法学部教授)】
http://kenriken.jp.net/about/representative/


>その旧制二高時代、2年生の鈴木は、親友となった栗原から、関西地方での労働運動や社会主義運動の展開
のことを知り、社会問題に目覚めた。そして、1923年の関東大震災後の秋に、貧困、飢餓、失業、売淫など
の矛盾を除去するため、真剣に自己と社会との進路を求めるという意図をもって、栗原ら20余名とともに、
二高社会思想研究会を結成した。この活動から、鈴木の頭脳にマルクス主義の影が宿った。

>鈴木は、読書の影響から、文学者となるか哲学者となるかで迷った末、哲学を研究しようと決意し、1924
年4月、京都帝国大学文学部哲学科に入学した。直ちに、マルクス主義の研究と普及・無産者教育への貢献を
目的とする学生の思想研究団体である京都帝国大学社会科学研究会(京大社研)に入会する。鈴木は、1年生
の時、講義を1日も休まずに聴く一方、京大社研の研究会で、ブハーリン、マルクス、エンゲルス、レーニン、
スターリンなどの文献を読んでいく。が、マルクス主義を本格的に学ぶにつれて、マルクス主義(弁証法
的唯物論及び史的唯物論)と新カント主義(観念論)の矛盾に悩むことになる。
その苦悩のなかから、鈴木は、現代社会の汚辱を一掃しようとするかに見えるマルクス主義こそ、社会の矛盾
を除去したいと考えるわが魂の救いではないかと考えるに至り、ついに、マルクス主義の研究に本格的に取り
組むことを決意する。


■こういった心の在り様を、はたして単純に「反日」「アカ」「悪」としていいのか、ということですね。
小林多喜二はもちろん、太宰や、戦後派文学者の多くが、
「現代社会の汚辱を一掃しようとするかに見えるマルクス主義こそ、社会の矛盾を除去したいと考える
わが魂の救いではないかと考える」に至ったパターンは多いのではないか。

それ以前に、大堀さんの尊敬する武者小路実篤の「新しき村」の実践や、
同じ白樺派文学者の有島武郎の行為(有島農場の開放)などは、
かなりトルストイ的な原始キリスト教共産主義思想や、
ロバート・オーウェンなどの空想的社会主義者のコンセプトに近いのでは?

そもそも、下記コメントで貴兄は「治安維持法での逮捕」(鈴木は最初の逮捕者)が国賊であるかのような
印象で書いてますが、時代を超えた倫理基準で見て、それは正しいのか。

たとえば、“GHQに洗脳された戦後民主主義”以前に、
仏教・キリスト教的な観点から見れば
「1923年の関東大震災後の秋に、貧困、飢餓、失業、売淫などの矛盾を除去するため、真剣に自己と社会
との進路を求めるという意図」をもって成す行為は、「善」ではないんですかね。


                *


■さらに引用を続けます。

>経済学部に移って、「人民の解放に役立つ理論と実践を」との考えのもと、鈴木は、マルクス主義理論の研
究や、京大社研と労働組合・農民組合との連携によって設置された「無産者教育」の講師などの実践に熱中する。
そのさなかの1926年1月18日、鈴木は、仲間と共に、治安維持法第2条違反容疑で逮捕された。最初の治安維持法
違反事件としての「日本学生社会科学連合会事件(学連事件)」である。

>京都地裁は、1927年5月30日、全被告を8カ月から1年の禁固刑に処す有罪判決を出した。鈴木は、禁錮10
月だった。すぐに控訴するも、大阪控訴院は禁錮2年に量刑を引き上げ(1929年12月12日)、大審院に上告
するが棄却され、有罪判決が確定した(1930年5月27日)。マルクス主義の文献を研究したことが、また、
「ヴ・ナロード」(人民の中へ)の気持ち(正義感)で行動したことが、国法上の犯罪になるということは、
鈴木にとって、大きいショックであった。


              *


>この鈴木安蔵という人はマルクス主義系の学者で、治安維持法で捕まっておりまして、(大堀コメント)

■アプリオリに「天皇」「国家神道」「國體」を至高の絶対善とするらしい大堀氏は、
こうさりげなく切って捨てていますが、鈴木の葛藤であった「正義感⇔国法」の問題を、
はたしてそう単純に、割り切っていいのかどうかも、はなはだ疑問であります。


 

ウイキペディアが判断の根拠?

 投稿者:小川原健太  投稿日:2017年12月 9日(土)22時16分6秒 softbank060119133215.bbtec.net
返信・引用
   大堀さんのコメント拝見。私のそれから1時間もしない回答だったのですね。恐れ入ります。ウイキペディア、私も読んでみました。鈴木安蔵に、

『日本政治の基準』、1941年、東洋経済新報社出版部)
『政治文化の新理念』、1942年、利根書房)
の2著が、大東亜共栄圏のイデオローグであったということになるのですね。その情報は役立った。でもそれらに目を通していないので、その真偽(真意)は今の私には計りかねます。1941年、1942年という時期に矢継ぎ早に出版されていること、出版社が経済新報社出版部ということは、自費出版ですか、利根書房というのはどんな出版社?この2著の内容の要約としてウイキペディアの文は鈴木安蔵のことばですか。それはどういう文脈の上で書かれた表現なのか、そもそもどういう情況(背景)のもとにこの2著は書かれたものなのか、彼の個人の伝記がいまの私には分からないので判断保留というところ。ウイキペディアにこれを執筆した人は誰ですか。どんな人、いつ書いたのか、どういう意図で書いたのかまるで分からないので、大堀さんのように、ウイキペディアに書いてあるから、そうだ(正しい)とは思えないこと。ましては全貌社の『進歩的文化人 学者先生戦前戦後言質集』昭和32年などはどうなんでしょうね。
 以上、2著の情報は感謝するが、ウイキペディアと全貌社のキャッチコピーから歴史を見る大堀さんの方法は、歴史を学ぼうとするより、ためにする、そのための方法に思えてしょうがない。
 

掲示板小説5   『泡沫のキリスト』  〈1〉 関谷雄孝

 投稿者:管理人  投稿日:2017年12月 9日(土)22時11分33秒 p3657144-ipngn20501marunouchi.tokyo.ocn.ne.jp
返信・引用 編集済
                                                              「小説家」137号より再録(2012年12月発行)





 朝十時。
背が低く小太り丸顔の中年男が診察室に入ってきた。
 同じ町内にある、四十坪ほどの木造二階建てのプロテスタント教会の、親しくしている長田牧師である。
禿げ上がりかけた頭に鉢巻き状に白い包帯が巻かれていて少し憂鬱な表情をしているのだが、
もともと何時も微笑を浮かべているような顔立ちなので切実には見えない。
椅子に坐ると、
「大変な事が起きてしまいました」
 と言った。
昨日の午後。錦糸町地下通路の人混みの中で急に意識がなくなり、倒れて頭をうち、
気がついたら救急車で都立墨東病院に運ばれていたと言うのである。
しかし、傷そのものはそれほど大きくなく、頭部のCTや脳のMRI検査でどこにも異常がないので
その後は近所の医院で診て貰うようにと、帰されたと言った。
よくある話である。



 包帯を外してみると、頭頂部の少し後方に傷があり細かく丁寧に七針縫ってある。
一緒に持参した病院からの報告書にも同様のことが書かれてあった。
「明日は、この包帯、少しの間外せませんか」
 と彼が聞いてきた。
教会で丁度信者の祝いの席があると言う。
 縫合の数の割には傷も小さいし、現在、出血もないので式の間だけ外して構わないと言うと、
「包帯を巻いた、神様から見離されたような牧師から祝福されても有り難みがないでしょう」
 と寂し気に言った。
 傷を処理してから包帯を巻き直していると、突然、顔の表情を強張らせ、
「脳波はとらなくていいのですか」
 と、唐突に尋ねてきた。
 日本人離れした眉の形を持っていて、その窪んだ眼に深刻な力が籠もっている。
「頭痛もないし、吐き気もないようだから心配は不要と思いますが、何か気になることでも……」
「いや、別に、そういうことではありません」
 口では否定しながらも、気持がどこかに引っ掛かっている気配を残しながら、いつもとは違う雰囲気で帰っていった。




 牧師が治療を受けに来たことで、久しぶりに町内のR教会のことを意識した。
 本所地区で昭和四年に、この地に最初の教会堂と牧師館を建設したという由緒のある教団である。
高い尖塔を持ったユニークな木造建築だったが、昭和二十年三月十日のアメリカ軍爆撃機の夜間大空襲で
完全に焼失した。
同じ夜、同じ町内に住んでいた、母と兄と中学三年の私は、狂ったように走る炎に追われながら逃げ惑い、
最後に半ば諦めて身を横たえた街角の錆びたトタン板の重なりの下で偶然生命を救われた。
戦時中はアメリカ人が主流のキリスト教一派だということで、下町という土地柄もあり、
迫害も言葉にできない程に烈しかったと聞いていたが、戦後はそのアメリカ系ということが逆に幸いして
米軍のかまぼこ兵舎の払い下げがあり、焼け跡で逸早く布教活動が始められたということであった。



 実は、焼失した教会堂と牧師館は、小学校低学年の頃から私の心のなかに不思議なかたちで住みついて、
一度もその存在を強く主張する素振りを見せる事はなかったが、時代が烈しく変遷し建物も焼失した後再建したが、
私の家も同様に近くで推移した事もあって、一緒にゆっくり年を重ね、現在でも大切なものに思っている。

 戦災、敗戦後の一時は、すっかり気持から消えた時期もあったが、いつの間にか追憶とは違う、
訳の分からない柔らかい固まりで甦り、医者である私が言うのも奇妙だが、何時も私の躯のなかの生命の直ぐ横に
ひっそり住んでいる。
しかしその固まりに具体的な教会の影が現われる訳ではない。


生命に危険が迫った時に色濃くなる訳でもない。
確かにいつでも傍らにいる事は分かっているのだが意識して眼をむけようとすると消える、そんな具合だった。
 そしてその中には、級友だった広瀬眞也という少年と、牧師だったその父が一緒に籠っている。





                                        (つづく)


 

小川原さん

 投稿者:大堀敏靖  投稿日:2017年12月 9日(土)12時20分36秒 softbank220031151192.bbtec.net
返信・引用
  ウイキペデイアに

戦時中の姿勢[編集]

上記のように護憲派の人物として知られた鈴木だが、戦時中は「即ち日本が大東亜共栄圏建設の指導、中核国家たるべきことは、あらゆる点よりみて絶対的客観性を有している」(『政治文化の新理念』、1942年、利根書房)、「東亜共栄圏の確立、東洋永遠の平和の確保と云うも、なお目的の究極を尽せるものとは云い難い。八紘一宇の大理想を以て皇道を全世界、全人類に宣布確立するにあると云わねばならないのである」(『日本政治の基準』、1941年、東洋経済新報社出版部)という大東亜共栄圏のイデオローグであった。『進歩的文化人 学者先生戦前戦後言質集』には鈴木について、つぎの副題が付けられている。


鈴木安蔵(静岡大学教授)侵略戦争の世界史的意義を説く
??『進歩的文化人 学者先生戦前戦後言質集』全貌社、昭和32年

と、書いてありました。

話を五日市憲法に戻します。

また、夜に。
 

大堀さんに質問

 投稿者:小川原健太  投稿日:2017年12月 9日(土)11時45分46秒 softbank060119133215.bbtec.net
返信・引用
   大堀さん、管理人さん、コメントありがとうございます。
 大堀さんの頭山満論、大変興味深く読みました。コメントはいずれ機会がありましたら。
ところで、大堀さんのコメントで、大変気になったのが、

> 戦時中は、「東亜共栄圏の確立、東洋永遠の平和の確保と云うも、なお目的の究極を尽せるものとは云い難い。八紘一宇の大理想を以て皇道を全世界、全人類に宣布確立するにあると云わねばならないのである」と説いていた大東亜共栄圏のイデオローグであったことはどう解釈したらよいでしょうか。

 鈴木安蔵に関しては通りいっぺんのことしか知りませんので、そこまで発言していたとは大変ショックです。イメージがたがた。そこで大堀さんにお尋ねしたのですが、この発言(発表)は、鈴木さん自身のものですか。それはどこに発表されているのか(論文なら、そのタイトル、発表誌、紙?発表時)を、本人でなければ、誰が、いつ、どこに発表、引用?したのかご教示いただけるとありがたいです。よろしくお願いします。
 

とりあえず五日市憲法では?

 投稿者:管理人  投稿日:2017年12月 9日(土)02時53分5秒 p3657144-ipngn20501marunouchi.tokyo.ocn.ne.jp
返信・引用 編集済
  ■なんだか大堀さんのコメントでは、五日市憲法についてはさわり程度で、
植木枝盛「東洋大日本国国憲案」のほうに話がすっ飛んでしまっている印象ですね。
せっかく色川教授のチームに随行してフィールドワークされた経験をお持ちの小川原さんが、
五日市憲法について詳細に語ってくださっているので、
もう少し、そちらについて、じっくりと論じたほうがよいのでは?


>その後の展開を知っている後世の人間が、あれこれ評価、批判して、都合のよい部分を抽出して、
これを見よ、と得意になっても、当時の人々は何も言いませんので、虚心に憶念するしかありません。

■これも五日市憲法の小川原コメントに対して言っているのか、
あるいは、別の何かを想定して、礼儀正しく慇懃に、しかし深層には秘められたストレスを押し込めつつ
何者かに抗議しているのか、よくわかりませぬ。

~鈴木安蔵についての批判は、よくいわれていることで
(この辺も、もっぱら、植木枝盛の憲法草案の話になっていますが)
だからといって、鈴木安蔵の思想遍歴批判や人物批判が、
彼自身の研究や、憲法論や、植木枝盛の草案発掘や、
戦後の日本国憲法と明治期の自由民権思想との関連性の総否定には、ならないですね。



               *



■ところで、本日夜、もしくは明日あたりから、
掲示板小説第5弾『泡沫のキリスト』関谷雄孝作を、スタートいたします。

この作品のテーマは、いま展開されている議論の問題圏と、決して、無関係ではない内容です。
もちろん、文芸作品ですから、
主題だけでできている小説空間ではないことは、いうまでもありません。
憲法談義については、そのまま、どうぞ。






 

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