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Re:出雲久野氏

 投稿者:管理者  投稿日:2016年 4月16日(土)17時17分47秒
  源行近さん

伯耆久野氏関連ですが、鳥取県立図書館HPの郷土人物文献データーベースによれ
ば、米子市に2名の久埜(くのう)さんがみえますね。
この名字の読みが正しいなら、駿河系の久野氏の系統ではないかと思われます。
 

Re:出雲久野氏

 投稿者:管理者  投稿日:2016年 2月21日(日)19時31分14秒
  源行近さん
ようこそおいでいただきました。

貴重な情報をありがとうございます。

伯耆久野氏につきましては、当HPの「播磨久野系図」に記載の内容の伯耆守護・
山名教之配下に久野次郎左衛門がいたであろうことは分かっていますが、それ
以外は全く不明な状況です。

出雲には中郡氏系の久野氏がいたことは確かですが、今回いただいた情報では
駿河系の久野氏もいたのではないかと想像されます。

特に、出雲市にひさの氏が何名いらっしゃるのかが気になるのですが、中郡氏系
が「くの氏」、駿河系が「ひさの氏」を称し、両者を識別していたと考えること
も可能なように思われます。

出雲市の久野姓の調査には、ぜひ家紋も併せて調査され、結果を本掲示板でご
報告いただければ幸いです。

それでは今後共宜しくお願い致します。
 

出雲久野氏

 投稿者:源行近  投稿日:2016年 2月19日(金)22時49分46秒
  はじめまして源行近と申します。
島根県雲南市大東町下久野(しもくの)は久野氏が地頭となり「久野」の地名が起こったとされています。
久能山城主であった久野駿河守清秀が出雲国へ落ち延び、その後に地頭職を賜ると殿居敷に城を築城し久野肥前守と号したとの伝記があります。清秀なる人物についての詳細はわかりませんが、当地では大中臣氏の中郡六郎太郎経元の子、中郡太郎六郎重経が久野郷との地頭として下向し、一族は久野を名乗っています。1519年の国魂神社棟札には久野肥後守直経とありますので、この上記系が出雲久野氏です。

現在は久野地区に久野姓は無く島根県内でも希少でありますが、電話帳では出雲市に「くの」と「ひさの」の読みがありました。これらは江戸時代になって入ってきた人々と思われ、出雲の久野氏は室町時代後期には出雲を離れたと考えます。
また現在の出雲市に住んでおられる久野姓の方々がどの系であるか調査中です

伯耆久野氏についてご存じでしたらご教示願います。



 

Re:淡路市久野々について

 投稿者:管理者  投稿日:2014年 7月 1日(火)21時51分44秒
  >普済寺建立縁起では延暦年間であること。

普済寺という名前は比較的新しい感じがします。
以前は別の寺号だったのかもしれませんが、私には分かりません。

> 仁井庄司 久野為之が建立。
>ここで庄司という役名です。

荘園公領制が本格的に形成されはじめるのが11世紀後半以降とされていますので、庄司を名乗る
久野為之もこれ以降の年代の人物の可能性が大きいと思います。
この久野為之が当ホームページの「久野氏の面々」に出てくる1031年の久野美耶太夫季貞以前の
人物とするのはちょっと無理かもしれません。

>それと地元選出国会議員の原健三郎の生家。

原健三郎氏のルーツとかは、私には分かりません。


以上です。
 

淡路市久野々について

 投稿者:日進市の久野  投稿日:2014年 6月27日(金)23時39分3秒
  投稿の主旨について再考願います。

普済寺建立縁起では延暦年間であること。
仁井庄司 久野為之が建立。
ここで庄司という役名です。
常隆時は桓武天皇勅願であり、それより古いという。

それと地元選出国会議員の原健三郎の生家。

 

Re:久野の地名について

 投稿者:管理者  投稿日:2014年 6月25日(水)21時41分18秒
編集済
  日進市の久野さん
ようこそおいでいただきました。

興味深い情報をありがとうございます。

「日本荘園データベース」によりますと、淡路国津名郡机庄には、「にいのさと」、
「くののさと」、「いの内のさと」、「なつやけ」、「いした」、「はま」、
「南かうち」の七ヶ村があったとされ、「○○のさと」はそれぞれ、仁井氏(伊予
出身か)、久野氏(駿河出身か)、井内氏(阿波出身か)のかつての居住地であっ
たのかもしれません。

久野為之なる人物は初見ですが、「駿河久野系図」では「之」を称する人物が沢山
出てきますので、この一族かもしれませんね。

また、浜松市や東海市の普済寺は熱田神宮社家の田島氏所縁のお寺だそうですが、
久野氏が東海市へ移って来たのはこの普済寺との関連も無視できないのではないか
と考えています。
浜松は「武徳編年集成」によれば、「遠州敷智郡匹間は往古久野越中守が宅地也」
とされている所です。

今回ご紹介の淡路市の普済寺と久野氏はいかなる関係があったのか、今後注目して
いきたいと思います。

それでは今後共宜しくお願い致します。
 

久野の地名について

 投稿者:日進市の久野メール  投稿日:2014年 6月24日(火)16時45分48秒
編集済
  先日、兵庫県淡路市を訪問。
北淡町仁井久野々に行ってみました。
現地は高台にあり古い大きな数軒がありました。
淡路市東浦図書館で郷土史を閲覧。
同地の普済寺建立に際し、
仁井庄司 久野為之の名がありました。
延暦年間(782~806年)の建立。

同寺は、桓武天皇勅願の常隆寺登口。
普済寺は常隆寺よりも古いようです。
常隆寺は藤原種継暗殺に連なり当地へ配流となった
早良親王鎮魂の寺。

近くに民俗資料館があり古民家を移設。
当地の政治家原健三郎の生家だそうです。

私が調べた中で最も古いものでした。
他は久野氏所縁では南北朝以降が多いようです。
 

本朝武家諸姓分脈系図(続)

 投稿者:管理者  投稿日:2014年 5月12日(月)21時40分2秒
  遠州山梨村久野氏系図の応答として、「遠州久野各家が全て宗隆の後裔でないのは当然」
と書きましたが、本朝武家諸姓分脈系図の久野元茂も宗隆の後裔ではないが遠州出身だと
考えますと、久野知直(実は北川主膳秀親男)の実家の北川氏が平姓を称していたので、
これを踏襲して旗本の久野氏も平姓を称していたとするのは有りかなと思います。
そうしますと、浜松藩主井上河内守家中の久野三太夫が笠間殿家老久野某の子の一人は
旗本だと称したのは、平姓を称している旗本の久野氏はきっと笠間市域の久野氏と同族
だと勘違いしている可能性がありますね。
さて、皆様はどう思われますか?
 

神戸ひさのさんへ

 投稿者:管理者  投稿日:2014年 3月31日(月)21時37分50秒
編集済
  お久しぶりです。
2003年以来の投稿だったでしょうか。
地名と名字の関係は簡単そうで中々難しいですよね。
今後共調査を継続され、ひさの氏の話題を盛り上げていってください。
 

(無題)

 投稿者:神戸ひさの  投稿日:2014年 3月24日(月)17時39分49秒
編集済
  過去に投稿してからずっと掲示板の閲覧に終始しておりますが、楽しく拝見しています。
管理人様の「ひさの」と「くの」は同祖とのご意見ではありますが、相変わらず「ひさの」にこだわって調べております(申し訳ありません)
先祖は但馬生野出身ですが、たまたま小野市生まれのため、その縁もあって播磨周辺を中心に文献調査しています、揖東郡、金釣瓶城関連でもこれといった発見はありません。
最近、黒田官兵衛配下の久野四兵衛からみで、黒田官兵衛の出身近江の国で「ひさの」関連の地名を見つけましたので既知のこととは存じますが報告いたします。
日本書紀天智9年の記載に「蒲生郡櫃作野(ひさの)」の記述があり、その他の文献に同地について「必佐野(ひさの)」「比佐野(ひさの)」「比都佐野(ひさの)」の記述があります。
現在調査したところ、蒲生郡日野町十禅の地に比佐野神社があり、当地の記述に「この場所は天智期に都を置くべく定めた地で白村江の戦後、百済からの帰化人も多く置かれた」等々の主旨の記述があり文献的な信ぴょう性は確立されないものの、「ひさの」の手掛かりとしては興味深いところです。地名のみで人名が全く出てこないところは残念ですが(笑)
駄文お許しください。
 

Re:遠州山梨村久野氏系図

 投稿者:管理者  投稿日:2014年 1月22日(水)20時39分2秒
編集済
  久野氏後裔さんご紹介の遠州山梨村久野氏系図の新たな情報としては宗光の存在とその
内容だと思います。

宗光
 右衛門太郎
 文明8年申年11月29日卒
 法名 明性林光信士

宗光は初代久野城主の宗隆の親に相当する世代の人物で、子の宗治が天文23年に亡く
なっていますから、この系図では一代抜けているように思われます。
また、本家筋の下山梨系図では宗治が宗行となっているのですが、その親は宗雄で鵯山
に住み400貫を領すとあります。
従って、宗光-宗雄-宗行(宗治)とするのが正しいように思われますが、この系統は
宗隆の後裔ではない可能性が大です。

遠州久野各家が全て宗隆の後裔でないのは当然としても、「遠江久野氏の祖を探る」
の項で言及した久野宗俊の系統が気になり、愛知県の岩瀬文庫に所蔵の『遠州久野家御
代々御小伝』の系図を調べていましたら、

宗俊--------宗尚        (宗尚以降は記載なし)
 久野六郎      久野刑部四郎
 形部亟(刑部丞か)

とあり、こちらは刑部の官職名を使っていることが判明しました。

以前、この掲示板で話題になりました笠間市の久野半右衛門家の祖である刑部左衛門宗清
や、「小浜藩久野家の先祖」の項に出てきた刑部左衛門宗国は宗俊の後裔の可能性がある
のではないでしょうか。

話は変わって『大日本地名辞書』の久野城址の項では、

「甲陽軍鑑云、元亀2年2月、信玄公高天神を引揚、ヲガタ松それより柴が原、それより
 鷺坂、宮口まで焼働、久野、掛川へ押寄、御巡見の時、久野の城ヒヨドリ山にて、小幡
 上総介兄弟、名誉の殿也」

と書かれており、このヒヨドリ山が以前から気になっていたのですが、『岸和田藩久野家
文書』をよく見ますと、宗隆の実父の宗徃が久野城主となっており、宗隆は城を新築、久野
城主となる、に加えて「一本久野庄鷲巣城主云々」とあります。
つまり、宗徃(宗光か)、宗雄がヒヨドリ山に住み、その後宗隆がヒヨドリ山に城を築いて、
これを久野城と称していたが、ある時点から今川氏親が遠江侵攻の為に築いた蔵王城(鷲巣
城)が久野城と呼ばれるようになったと考えた方が妥当かもしれません。

以上、思わぬ方向に話が飛びましたが、今回の系図は久野氏後裔さんの大発見ではないで
しょうか。
 

Re:遠州山梨村久野氏系図

 投稿者:管理者  投稿日:2014年 1月 6日(月)21時14分42秒
  久野氏後裔さん、いつもありがとうございます。
本年も宜しくお願い申し上げます。

また新しい系図を発掘されましたね。
ぜひ見てみたいものです。
お手数をお掛けしますがメールでの送付を宜しくお願い致します。
 

遠州山梨村久野氏系図

 投稿者:久野氏後裔  投稿日:2014年 1月 5日(日)01時07分21秒
編集済
  管理人様

あけましておめでとうございます。
本年も何卒、宜しくお願い致します。

さて、表題の件ですが、都内某所の資料館に所蔵の
久野氏系図をコピーすることができましたので、
メール等で後日お送りしたいと思いますが、
ご入り用でしょうか。

詳細はお送りする画像をご覧いただくとして、
概略を記しますと。

宗清―宗隆―I‐宗重―宗能―宗秀―宗俊(丹波守 伊勢国移田丸城)
            I‐宗光―宗治―家次―宗次―I―宗演
                                       I―宗保
                                       I―宗孝

となっており、遠州久野系図にない名前も散見されます。

系図の主は、ここから都内某所の代官として養子に来た人物です。
(詳細は後ほど、メールにてお伝えしたいと思います。)

お手数ですが、ご入り用か否かだけでもお知らせ
いただければと存じます。

宜しくお願い致します。
 

Re:本朝武家諸姓分脈系図

 投稿者:管理者  投稿日:2013年10月17日(木)22時36分47秒
  久野氏後裔さん、ご無沙汰しております。

新たな系図の紹介をありがとうございます。
『寛政譜』に収められている平氏支流の久野孝知から始まる系図に関連した件ですが、この
分脈系図の中から関連する系図を合成しますと、
元茂(遠州久野城主)-元俊-宗知-知直-孝知
と繋がるようですね。
ただ、遠州久野各家の系図には元茂、元俊、宗知なる3名が出てきませんし、分脈系図の中で、宗知が元知と書かれていたり、孝知が知孝と書かれている箇所があり、混乱が見られます。
この家には平姓であるという情報が代々伝えられていたのは事実でしょうが、遠州久野家に連なる一族ではないかとの推測でこのような系図が作られたような気がしています。

事実は以前ご教示いただきました浜松藩主井上河内守家中の久野三太夫の手紙にある通り、笠間氏の家臣ではないかと思います。

平姓と言えば、以前、この掲示板で2003年に「神戸のくの」さんが書き込まれた、

「当家の久野氏祖は久野良詮氏で大和守平良衛(文治のころ?)の長男で母は常陸大掾平資幹女らしいです。」

との関連が非常に気になるところです。
 

本朝武家諸姓分脈系図

 投稿者:久野氏後裔  投稿日:2013年10月14日(月)02時00分21秒
編集済
  管理人様

いつもお世話になっております。

さて、表題の系図に久野氏が収録されております。
(国会図書館のデジタルライブラリーで閲覧可能です。)
同系図によりますと、旗本の久野氏(久野孝知)の先祖は
久野元茂となっております。(宗茂ではありません。)
また、本姓は藤原、平と諸説あり判然としません。

共通なのは、今川家没落後に浪人となり近江に居住、京極家の
家臣となっていることです。

この系図には数家の久野氏が収録されており興味深いですが、
管理人様はどのような感想を持たれるでしょうか。
 

Re:久野家

 投稿者:久野氏後裔  投稿日:2013年 9月23日(月)04時35分8秒
  久野様

お返事を差し上げようか、非常に迷いましたが、管理人様が投稿されないようなので、僭越ながら代わりに投稿させて頂きました。

おそらく久野様は、この掲示板に以前投稿された方と拝察いたしますが、
下記投稿にもあるとおり、管理人様が「残念ながらお力になれる情報を
持ち合わせておりません。」と発言されておられるとおり、まずは、
ご自分で何かヒントとなる事項を開示されてからご質問されるのがマナーでは
ないでしょうか。

手順としては、

・除籍謄本を取得(遡れるすべてのもの。久野姓以外のものもすべて。)
・その本籍地の地番に久野姓の方が現住されているか確認(住宅地図等で
 確認できます)
・益子町史、栃木県史等を精査し、久野姓の方の記述がないか確認。
 運よく、ヒントになりそうな記述等があれば、教育委員会等に問い合わせ。
・除籍謄本の記述でかんたんな系図を作成。町史、県史で確認した記述を
 加味して、上記、住宅地図で確認した久野姓の方に手紙等を出してみる
 (個人情報の問題もありますので、返信が来るか否かは微妙ですが、
  ご自身の身分を開示し、自家につながるかどうかを「お願い」ベースで
  問い合わせてみるとよいかと思います)。

 以上が、かんたんな手順です。お住まいがお近くならば、直接、除籍謄本に
 あった本籍地周辺を訪問し、神社等でご先祖のお名前がないか調べてみる
 のが近道かと思います。

 近時は、「先祖調査」についての新書等も市販されておりますので、
 参考にされるのも一法かと。

 私自身は茨城県内の久野姓について研究のフィールドとしていますが、
 鹿島郡徳宿村(現鉾田市)近辺に久野姓の方が居られたことは把握して
 おりませんでした。

 茨城県内は、水戸、笠間周辺の県西地域に久野姓が多く見られますが、
 益子(栃木県)との関係は不明です。

 以上、厳しいことを申しましたが、参考になれば幸いです。
 

久野家

 投稿者:久野メール  投稿日:2013年 9月 4日(水)11時37分55秒
  どなたか久野家を調べてる方教えて下さい。江戸時代後期には、栃木県益子村に地主としていました.大正3年茨城県鹿島郡徳宿村舟木に疎開しました。家紋は丸に揚羽蝶です何でも良いのです教えてください  

Re:遠州久野氏との関係

 投稿者:管理者  投稿日:2013年 4月30日(火)21時21分35秒
  鎌田さん

ご返事、ありがとうございます。
名字の地は、山内首藤系図の鎌田俊長の祖父通淸の項で号鎌田権守、住駿河国、となってい
ることから、丸子宿の近くの鎌田ではないかとする意見もあります。
遠州の原氏、久野氏などは駿河からの移住とみられますから、鎌田氏もその可能性はないで
しょうか?
 

Re2:遠江久野氏との関係

 投稿者:鎌田氏  投稿日:2013年 4月17日(水)20時54分38秒
  鎌田氏が居住していた場所は、遠江では磐田にある鎌田御厨内で名字の地とされています。
駿河では丸子宿の近くに今でも鎌田という地名が残る周辺に館があったと思われます。
久能山下ではありませんが、当時の感覚では至近だったのでしょう。
 

Re:遠江久野氏との関係

 投稿者:管理者  投稿日:2013年 2月17日(日)21時12分45秒
  鎌田さん
ようこそおいでいただきました。
遠江久野氏との関係はよく分かりませんが、静岡市史には久能山下に鎌倉武士団の拠点が
存在していたと書かれています。
鎌田氏は一時ここに居住していたのでしょうか?
分かる範囲でお教え願えれば幸いです。
 

遠江久野氏との関係

 投稿者:鎌田氏  投稿日:2013年 2月 9日(土)21時59分46秒
  はじめまして、先祖の鎌田俊長について調べていてたどり着きました。
鎌田俊長の姉?妹?が久野家に嫁いでいて、烏帽子親を務める関係にあったことはとても興味
深いです。 父の鎌田政家の邸が駿河の有度郡、遠江の磐田郡、と久野氏の拠点のすぐ近く
にあったことが両家が深い関係を築く要因になったのでは、と推測しています。
政家以前の平安末期頃の両家の交流にも、これから注目して調べてみたいと思いました。
 

Re:小浜藩久野家の傍系

 投稿者:管理者  投稿日:2013年 1月 1日(火)18時09分15秒
  小浜藩久野さん
あけましておめでとうございます。

掲示板の末尾に「管理者へメール」のボタンがありますので、よろしければそちらから系図
の画像をお送りください。
 

(無題)

 投稿者:小浜藩久野  投稿日:2013年 1月 1日(火)16時50分44秒
  あけましておめでとうございます。
私が見る限り宗国という名前は見当たらないです。
系図の画像を貼り付けようかと思ったのですが出来ないみたいです。
 

Re:小浜藩久野家の傍系

 投稿者:管理者  投稿日:2012年12月31日(月)19時23分25秒
編集済
  小浜藩久野さん
ようこそおいでいただきました。

トピックスの「小浜藩久野家の先祖」の内容は未訂正ですが、久野氏後裔さんの調査結果か
ら久野刑部左衛門は実在していたと思われますので、小浜藩士久野重三郎直方が文化5年に
岸和田藩久野家に持参した系図は信憑性が高いと考えています。
刑部左衛門宗国についての情報を何かお持ちでしたら教えてもらえませんか?
 

小浜藩久野家の傍系

 投稿者:小浜藩久野  投稿日:2012年12月31日(月)10時04分4秒
  はじめまして。
自身のルーツにつながるこんな素敵なサイトがあるとは感動致しました。
私は小浜藩久野家の傍系で現在小浜に住んでいるわけではありませんが、父が大職冠鎌足から繋がる家系図のコピーをもっています。家系図の前文もあるのですが私には解読不明です。また有益な情報楽しみにしております。
 

Re:『久野山清安寺墓地より』

 投稿者:管理者  投稿日:2012年10月 8日(月)19時35分30秒
編集済
  久野氏後裔さん
お久しぶりです。
私もこの本を古書店で購入しました。

尾張藩の史料では久能山は久野山と表記されており、尾張藩士の久野氏が建立したこの
清安寺の山号の久野山は久能山を意味しているようですね。
またこの久野氏の本家筋の東海市の久野氏が建立したお寺である如意庵(既に廃寺)の
山号は医王山とも東照峰とも称されており、東照峰は久能山を意識したネーミングのよ
うです。
子孫に故地を忘れないようにという配慮からでしょうか?

なお清安寺の名前ですが、駿河久野系図で今川義忠に仕えた久野郡季の法名が清安院と
なっていますので、これとの関連性が考えられます。
 

『久野山清安寺墓地より』

 投稿者:久野氏後裔  投稿日:2012年10月 7日(日)02時30分36秒
  管理人様
ご無沙汰致しております。
さて、表題の書籍を古書店で入手致しました。

内容はとても参考になるもので、早速管理人様に
お知らせしようと思ったところ、既にお持ちのようですね。

管理人様はどこでこの本を入手されたのでしょうか。
 

苗字の変遷の類似性

 投稿者:管理者  投稿日:2012年 9月 9日(日)15時06分3秒
編集済
  川勝氏は秦河勝の後裔を称し、名字は河勝→川勝と変遷していったようですが、
一方、久野氏は秦久能の後裔を称し、名字は久能→久野と変遷していったようです。
今でも変遷前の河勝、久能を称する氏がみえるのも共通点です。
他に同様な例をご存知の方はいらっしゃいませんか?
 

管理者様へ

 投稿者:長野県の久野  投稿日:2012年 8月30日(木)11時03分20秒
  情報ありがとうございました。

時間がある時に調べてみたいと思います。
 

Re:長野の久野

 投稿者:管理者  投稿日:2012年 8月29日(水)20時33分55秒
  長野県の久野さん
ようこそおいでいただきました。
以前、久野氏後裔さんから頂いた情報では、
松本市立図書館所蔵の『松本史料叢書』に所収の「松本藩譜」(明治初年の旧松本藩士の
名簿)の中に、久野又太夫と久野左衛門七なる人物がいます。
久野又太夫家は駿河出身で、家紋が織田瓜だそうです。
又太夫家と左衛門七家の関係は不明ですが、何か手掛かりになれば幸いです。
 

長野の久野

 投稿者:長野県の久野さん  投稿日:2012年 8月29日(水)15時00分42秒
  はじめまして、長野県北信地方に住む久野でございます。
5~6年前から度々拝見させていただいております。

僕の住んでる所には久野姓の家が何件か存在します。
僕のおじい様、曾おじい様、曾曾おじい様も長野だそうです。

親戚のおじ様が以前調べた所によると、地元の御殿様の馬のお世話をしていた様です。

久野姓は長野から派生した感じではございません。
気になりますねえ。

ちなみに、家紋は丸に蔦でございます。
 

Re:久野家のルーツがしりたーい

 投稿者:管理者  投稿日:2012年 7月22日(日)21時19分24秒
  久野益子さん
ようこそおいでいただきました。
残念ながらお力になれる情報を持ち合わせておりません。
益子に来る前はどこにお住まいだったのでしょうか?
また益子では陶工だったのでしょうか?
その他、追加の情報をいただけると少しはお役に立てるかもしれません。
 

久野家のルーツがしりたーい

 投稿者:久野益子  投稿日:2012年 7月17日(火)09時50分17秒
  家紋は丸一揚羽蝶です城主から一をいだたいたそうです  

lルーツしりたい

 投稿者:久野メール  投稿日:2012年 7月17日(火)09時39分53秒
  久野家家紋丸一揚羽蝶です祖父は栃木県益子町から疎開してきました。家紋の一は城主から頂いたそうです日本刀があります何か何でもよいので教えてください。  

Re:九州より

 投稿者:管理者  投稿日:2012年 4月23日(月)21時13分58秒
編集済
  久野建夫さん
ようこそおいでいただきました。
HPの「久野氏の系図」の中の「播磨久野系図」に記載の通り、「ひさの」氏と「くの」氏のルーツ
は同じであると推測していまして、貴家も「ひさの」氏も鳴海久野家の分かれではないかと考えてい
ます。

機会がありましたら、地元の図書館などで佐賀の「くの」氏について調査した結果をお教え願えれば
幸いです。
 

九州より

 投稿者:久野建夫  投稿日:2012年 4月22日(日)21時15分17秒
  父が逝去しルーツを調べる中でこのページにたどり着きました。家紋は三つ鱗、大高の久野藤助の曾孫です。祖父、父は東京におりましたが、私は現在佐賀県で勤務しております。北部九州は「ひさの」と読む方がほとんどですが、佐賀県鹿島市、白石町に「くの」姓がおられます。「ひさの」「くの」は同じルーツなのでしょうか。  

美濃源氏フォーラム名古屋駅前講座のご案内

 投稿者:管理者  投稿日:2012年 3月25日(日)09時34分14秒
  平成24年度分を「美濃源氏フォーラム関連」のページに掲載しました。
皆様奮ってご参加ください。
平成25年1月20日には作家・井沢元彦氏による講演会も予定されています。
 

伊勢田丸城

 投稿者:とし坊  投稿日:2011年10月26日(水)11時46分53秒
  念願の田丸城址に行ってきました。
 

HP更新

 投稿者:管理者  投稿日:2011年 8月13日(土)10時43分4秒
  今回はHPのトピックスの「発祥地の考察」の駿河国久能郷を見直しました。  

駿河国有度郡3天神

 投稿者:管理者  投稿日:2011年 4月30日(土)10時56分34秒
  『修訂駿河国新風土記 上巻』によれば、有度郡の17天神の中に有渡天神、大久能天神、久野天神がみえ、ウィキペディアの天神の定義である「日本で皇室や古代の有力豪族の祖先とされる神々。」に従えば、有渡天神とは有度権現と称された秦久能であり、大久能天神と久野天神はその後裔と考えることもできそうですが、現在ではどこにも祀られていないようです。  

遠江国久野郷

 投稿者:管理者  投稿日:2011年 4月24日(日)13時58分7秒
  今回はHPのトピックスの「発祥地の考察」において、遠江国久野郷を見直しました。  

美濃源氏フォーラム名古屋駅前講座のご案内

 投稿者:管理者  投稿日:2011年 4月16日(土)08時11分5秒
  平成23年度分を「美濃源氏フォーラム関連」のページに掲載しました。
皆様奮ってご参加ください。
 

Re:尾張国 牛毛荒井村久野氏

 投稿者:管理者  投稿日:2011年 2月 9日(水)20時55分8秒
  久野氏後裔さん
いつも貴重な情報をありがとうございます。
成海神社の神主であった久野家から久兵衛保起が寛文12年(1672)に南野に引越した
そうですので、元鳴尾と南野が近い距離にあることからも保起の後裔が氏子札の久兵衛だと推察されます。
それではぜひデータの提供をお願い致します。
 

尾張国 牛毛荒井村久野氏

 投稿者:久野氏後裔  投稿日:2011年 2月 7日(月)03時45分27秒
編集済
  管理者様

先日はご丁寧なお答えを頂き、誠に有難うございました。
管理者様のご指摘で、おそらくは間違いないと私も考えます。

さて先日、近所にて開かれていた骨董市の露店にて、明治壬申
年(明治5年)に作製された「氏子札」(簡単に言えば、当時の
身分証明証のようなもの)を買い求めました。

この氏子札には、

(表)尾張国愛知郡牛毛荒井村 若宮八幡神社氏子
   同村父久野久兵衛亡 久野久兵衛
   天保十一年庚子十月十五日生

(裏)明治五年壬申九月一日 祠官 村瀬喬臣

との記述があり、同時に同人の母の氏子札も
買い求めました。

この尾張国愛知郡牛毛荒井村は、現在の名古
屋市南区の元鳴尾一帯であると推測され、
鳴海とも距離的にはそう遠くありません。

管理者様はこの久野氏についてなにかご存知
なことはございますでしょうか。
宜しければご教授下さい。

追伸、もしこの氏子札の画像等がご入用なら
メールにて送付させて頂きます。
また、このほかに同久野氏関連の文書等は
見当たりませんでしたが、もし出ていたと
するとちょっと惜しい気もしますね。
 

Re:はじめまして

 投稿者:管理者  投稿日:2011年 1月23日(日)09時48分59秒
  大府の久野さん

ようこそおいでいただきました。
兼子さんがお邪魔した時の車のドライバーが私でした。
さて生前、久野さんの祖父さんが「先祖は墓守だったのではないか。」と言われていま
して、榊原清久が久能山城を守っていたころに楼門下から一の御門までの参道両脇に古
坊4院(三明院・定智院・法性院・大寿院)があったそうですので、貴家のご先祖様は
この坊の僧侶で、秦久能のお墓をお守りしていたのかもしれませんね。
今後調査を進められ、情報発信されることを期待しております。
 

はじめまして

 投稿者:大府の久野  投稿日:2011年 1月16日(日)20時31分14秒
編集済
  いつもHP拝見させてもらっています。
自分のルーツについていろいろと知ることができて非常に勉強になります。

先日家に「久野城物語り」の著者の兼子さんが来られました。
久野家についていろいろと研究されて各地を回っているようでした。
突然のことで非常に驚きましたがこれを機会に自分でも久野家の事を調べてみようと思います。

今後自分で分かったことがあれば情報を交換していきたいと思いますのでよろしくお願いします。
 

Re:久野孝知の生国

 投稿者:管理者  投稿日:2011年 1月15日(土)22時02分21秒
  久野氏後裔さん
いつも貴重な情報をありがとうございます。

本国=生国の意味を考慮するならば、孝順は近江から旗本家に養子に入った可能性が考えられます。
彦根藩には久野氏がいたようであり、この系統かもしれません。

また正六郎と吉太郎の本国が遠江についてですが、遠江出身者を先祖に持つ正六郎が養子として
旗本家に入り、子の吉太郎も親が称する本国・遠江と家紋をそのまま採用したとも考えられます
が、いかがでしょうか。

なお笠間久野氏の一部が使っていた「抱き茗荷」の紋ですが、駿河出身では本HPの「尾張・知多郡
大野村久野家」が家紋として使っています。
 

久野孝知の生国

 投稿者:久野氏後裔  投稿日:2011年 1月11日(火)23時36分18秒
編集済
  管理者様

いつもお世話になっております。
本年もご指導ご鞭撻の程お願い申し上げます。

さて、昨年末の管理者様の書き込みで、平氏支流の久野氏
(久野孝知)と笠間や水戸などの常陸国に土着した久野氏
は同族なのではないか、というご指摘がありましたが、現
時点では、これらの一流は駿河久野氏の末で、私もその蓋
然性が高いと考えています。

ただ、ここでひとつの疑問があります。

『寛政譜』で平氏支流の久野氏の家紋が「丸に六柏」「瓜
の内巴」となっており、『寛政譜』に続く系譜(旗本人名
事典所収)には、寛政譜の最後に登場した久野福之助孝順
の本国が近江、その子正六郎、孫の吉太郎の本国は共に遠
江との記述があります。

久野孝知が平氏支流であるならば、九曜紋を使うのは別に
珍しいことではないのですが、上記の記述よりの主に遠州
久野氏の使う定紋を何故この久野孝知の一流が使用してお
り、また、本国と称している場所が代毎に異なっているの
か、気になるところではあります。

この点を管理者様はどの様にお考えになりますか?
単純な疑問で恐縮ですが、ご高説を賜りたく存じま
す。

ところで余談ですが、先便にてお知らせ致しました
笠間久野氏の使用する家紋の中に、幕紋を「抱き茗
荷」としていた一流がありますが、駿河久野氏にも
この紋を使用する一流はあるのでしょうか。

以上長文にて恐縮ですが、ご検討を宜しくお願い
申し上げます。
 

Re:始めまして

 投稿者:管理者  投稿日:2011年 1月 8日(土)21時22分45秒
  久野氏さん
ようこそおいでいただきました。

「くの」さんでよろしかったでしょうか?
岡山から移住して毛利家臣になったという貴重な伝承を披露していただき 誠にありがとうございます。
備前から東西に分かれたことは十分に考えられますので、播磨の「ひさの」 氏と同族の可能性が大ですね。

備前に来る前は伯耆に居たと思われ、鳥取市気高町や青谷町の久野氏も同族 ではないかと推測している訳ですが、
さらなる情報を期待しているところです。

よろしければ家紋や初代のお名前も教えていただけると助かります。
 

始めまして。

 投稿者:久野氏  投稿日:2011年 1月 6日(木)18時08分24秒
編集済
  私は久野姓ですが先祖は今の岡山にいたと祖父から聞きました
戦国時代に毛利家に臣従して江戸時代は長州萩にいました
播州久野氏と関係あるのでしょうか?
 

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